橘の島

 
私の手持ちの資料には、橘の島は以下のようにある。

 1315 橘の島(所在未詳。河内か?。一説に奈良県高市郡明日香村の橘)

橘の島にし、を(居)れば、川遠み、 さらさずぬひし、わが下衣(したごろも)

*橘の島の庄にいるので、川が遠いから、布を晒さず、縫ってしまった私の下着よ。

 
 現在の解説では、河内か、奈良・明日香村の橘説があるらしい。しかしこの歌も宇摩郡の可能性が高いのである。と言うのは、万葉集の解説の先駆者である、仙覚(後述)が、新居郡か宇摩郡だと言っている。

 新居郡は元は宇摩郡から出した(分離した)伝えられるから、どちらにしても「宇摩郡」と、言うことになる。これらを取り上げている『土居町誌』を参考にしてみよう。 

  『土居町誌』の「橘の島

 宇摩郡の『土居町誌』に、万葉集には、橘の島の歌が二つあると書いている。一つは良く知られる歌だ。しかし、二つ目の方は、万葉集の私の資料では出てこない。しかし、あるのだろう。

 この本によると、仙覚は、この歌の「橘の島」を、新居郡の氷見八幡山依り橘郷か、宇摩郡上野村の内の橘島だとしている。仙覚はこの歌を、伊予で詠んだとしている、と、他の本にもあるようだ。

 上野の内に、「たちばな」の地名は存在したようで、ここは景勝の地であり、今は檜林だが、丘陵面に石積みが数段在って、一段分で1~2反の広さ。その面積一町歩の東北に川があり、今も清水を汲める。

 そこに、半地下式の穴居跡が残っているという。竪穴住居といえば、オオクニヌシが火を付けられた時に逃げ込んだ住居である。確定は出来ないが、大いに想像をたくましく出来る事実である。なお、この地は、「大川」と言うらしい。

 布をさらせないほどの小川を「大川」と呼んだとは思えない。この大は、川では無く、「王側(王の側)」が訛ったものではないだろうか。

 さて、二首だが、以下のようにある。

  橘の 島にしをれば 川とおみ さらさでぬひし 我が下衣

  老の波 昔にまたも かえるやと 寄りて汀に 橘の島

 *老いの波が重なって(尋ねて来てた、ふと、川を見て、もしか)昔に返れるかと、汀に寄ってみた。橘の島。

 上の状況から言えば、この島は、国生みなどで使われた領地の意味らしい。つまり、橘に、二人用の土地が与えられて、これを「シマ」と呼び、この地の開墾を行ったのではないだろうか。

 ここで二人は、数年かけて、高天原(スサノオ)の指導を受けながら、田んぼを作る実習を行ったものだろう。

 また、この地から、入野川は4キロほど離れているだろう。遠くにあるので、サラサズに作った衣にも、矛盾は無い。また、最初の新婚時代を過した、入野の地を、思い出しては良く見ていたのであろう。
 
 この二首は同じ人物であろう。長い年月の後に、若い時の思い出の地(橘の島)にきて、昔を懐かしむ心が動いた歌である。この歌も、現在の人にも通じる心を歌っていると思う。

 以上のことから、この歌は、大国主の可能性が高い。

  仙覚抜粋

 仙覚は1247年に、万葉集の校合を完了し、『寛元本万葉集』を出す。
 1253年には、無点歌の152首に新点を施し、後嵯峨上皇に奏上。
 『仙覚奏覧状』。このほか、万葉集の書が残る。
 1269年に、仙覚『万葉集注釈』(「仙覚抄」ともいう)が出来る。
   *選釈だが、万葉集注釈の最初の優れた仕事である。

  オウのウミ

  「老いの波」を調べていて、「オウのウミ」が数首有った。オウは島根県に比定されているが、オウは老いる意味も有ろう。橘の島に行ったなら、海にも行ったと思われるので、この「オウノウミ」は、再検討が必要であろう。

 オヒはオフ、オウと同じであり、若い頃に居た場所に出世して戻ってくると、なお更昔が懐かしいであろう。だから、入野の歌も、老後に訪問した歌があるのではないかと思う。


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