米国二大政党の異なる対日関係史 4-2 | 愛する祖国 日本

米国二大政党の異なる対日関係史 4-2

本日本人が知らない「二つのアメリカ」の世界戦略 / 深田 匠
第四章 米国の国際戦略
米国二大政党の異なる対日関係史 P.300-305

 日米開戦前の米世論を代表する発言を幾つか紹介してみると、例えば大西洋無着陸横断飛行で国民的人気のあったC・リンドバーグは、1941年9月16日の共和党の演説大会で「もし世界大戦が起こるのならば、その責任はルーズベルトとチャーチルと国際ユダヤ資本にある。米国は英独講和を介し、日英独と組んでソ連と戦うべきである」とまで主張していた。また当時共和党に対して影響力の有った有名な保守系ジャーナリストのジョーン・B・レイは、シナに32年間も在住してシナ情勢をワシントンへ発信していた人物だが、このレイは「〝軍国主義日本が世界平和の脅威になる〟というのは、ソ連の宣伝であり、本当の軍国主義はソ連である。これまでアジアで果たしてきた日本の役割を忘れてはならない。シナやソ連に同情するあまり、日本を孤立化させて発展を阻害してはならない。日本こそアジア安定の礎であり、共産主義の防波堤だ」とベストセラーとなった自著で述べている。

 熱心な反共主義者にして反ルーズベルトを呼号していた新聞王W・ハーストも、1941年10月に自紙のニューヨーク・ジャーナル紙に「ワシントンはアジアで戦争が起こるか否かは日本にかかっていると言っているが、これは真実ではない。米国の政策如何によるものである。支那事変の発生以来、米国は負け犬に対する同情でシナを援護してきた。日本が米国に戦いを挑んでいると見るのは誤りである。世界で3番目の上顧客である日本との貿易を断絶したのはルーズベルト政権ではないか。日本は米国に何ら差し出がましいことをせずに脅威を与えていない。米国が日支両国との通称を正常に戻し、シナと日本のことは両国にまかせておけば、明日にも平和が来る」と自ら執筆し、ハースト系の各紙は同様の主張を何度も掲載していた。ルーズベルト政権が行ってきた排日政策や対日禁輸などの対日圧力は、米国世論の総意では決してなく、共和党支持層はそれに猛反対していたというのが当時の米国の国情だったのである。

 1941年における米ギャラップ社の米国世論調査では、「英国に味方して参戦せよ」が2.5%、「英国の配色が濃くなれば支援せよ」が14.7%で、この両方を合わせても「中立で英独相応に武器を売れ」の37.5%を下回っている。そして「絶対中立で武器も売るな」が29.9%、中には「ドイツに味方して参戦せよ」という回答さえも一定数存在していた.つまり明確に参戦を望んでいた米国民は実に2.5%しか存在しておらず、従ってフーバー以降も共和党政権候補は「不参戦」を公約し、本心では参戦したくてたまらなかったルーズベルトも表向きは「不参戦」を公約せざるを得なかったのだ.共和党のバンデンバーグ上院議員は「不参戦を議会で正式に議決せよ」とルーズベルトに要求し、アメリカの参戦を警戒するドイツもルーズベルトの様々な挑発絶対乗ってこなかった。そこでルーズベルトはドイツの同盟国であり満州権益でも目障りであった日本がアメリカを攻撃すれば、米国民を納得させる形で参戦できると考え、いわゆる「裏口参戦」の計画を進めたのである。アメリカから宣戦布告する「表口」ではなく「裏口」から戦争に入ろうという訳で、そのため日本から最初の一発を撃たせるべく様々な対日圧力を重ねる謀略をもって追い詰めたのだ.ルーズベルトは大統領就任後の初閣議で「対日戦争は1つの可能性だ」と発言していたぐらいであり、側近たちと連日「どうやれば日本側から開戦させられるか」を討議していた。

 20万部以上の膨大な公文書を調べた米ジャーナリストのロバート・B・スティネットは、「ルーズベルトが側近たちと示し合わせて(小略)アメリカを戦争に介入させ真珠湾及び太平洋地域の諸部隊を戦闘に叩きこむべく、明らかな戦闘行為を誘発する為に計画実施された権謀術数の限りを尽くした措置」を進め、「日本を挑発するためにルーズベルトに8つの手段が提案され、彼はこれらの手段を検討してすぐに実行に移し、8番目の手段が実行されると日本は反応してきた」と述べている.この8つの手段とは、米海軍情報部極東課長アーサー・マッカラムが作成した「対日戦争挑発項目A~H」のことであり、例えば項目Cは「蒋介石政権への可能なかぎりあらゆる手段を尽くした」(R・B・スティネット)のであり、日本は7番目の挑発まで耐えに耐えたのである。戦時中の1944年6月20日に、英リットルトン生産相が「米国が世界大戦に巻きこまれたというのは歴史の歪曲である.米国があまりにひどく日本を挑発したので、日本軍は真珠湾攻撃のやむなきに至ったのだ」と述べ、米国の抗議を受けて下院で陳謝しているが、米国の同盟国の閣僚が同情するぐらい日本への圧力は不当なものであった。

 米国の通信傍受責任者であったJ・ロシュフォート無線監視局長は1941年7月に「我々は彼ら(日本)の資金も燃料も断ち、日本をどんどん締めあげている。彼らには、この苦境から抜け出すには、もう戦争しか残されていないのが分かるだろう」と同局のミーディングで述べている.「日本の連合艦隊がハワイへ向けて発進」との報告を受けたルーズベルトは同年11月25日には「真空海域命令」(太平洋を横断する船舶の航路となる北太平洋から米国及び連合国の全船舶を引きあげを命じるもの)を発しており、この命令は日本の連合艦隊の南雲機動部隊が単冠湾を出航した1時間後に早くも発令されたものである.かくて同年11月27~28日にかけて、ルーズベルトはついに「米国は日本が先に明らかな戦争行為に訴えることを望んでいる」という直令を米軍首脳部に発し、一切の情報をハワイの指揮官キンメル大将に伏せるよう指示した。参戦したいあまりに自国将兵をわざと見殺しにしたルーズベルトの冷酷な策謀も、そして「対日戦争挑発項目A~H」の存在も、さらにはハルノートさえも、実は共和党側には一切秘密にされており、その秘密を知っているものは政権トップと民主党要人・軍情報部などごく一部だけでしかなかった。こうして日本はルーズベルトの謀略に導かれるままに、12月8日(米時間7日)に真珠湾に先制攻撃を加えることになる。

 このルーズベルトの真珠湾謀略に関して、戦後すぐに議会で追求したのは共和党である。共和党は、ルーズベルト政権の対日謀略について査問するために調査委員会の設置を要求し、8つの調査員会を設けさせた。そして共和党系の調査委員は全て「ルーズベルトが開戦目的で不必要に日本に圧力をかけて追い詰めた。明らかに公約違反である」という結論を出し、逆に民主党系の調査委員は当然ながら全てルーズベルトを擁護する結論を出した。結果、日本にとっては残念なことながら当時の米議会は民主党が多数派であった為に、ルーズベルトは査問を免れた。さらにルーズベルトは「対日戦争挑発項目A~H」の存在を共和党に隠し通すために、腹心の部下5名からなるロバーツ調査員会を設けて「全責任は真珠湾防衛の任務を怠ったキンメル太平洋艦隊司令長官とショート陸軍司令官にある」と公表させ、この欺瞞にはリチャードソン元太平洋艦隊司令官が「これほど不当で不公平で嘘で塗り固められた文書を私はこれまで見たことがない」と抗議声明を出したぐらいである。

 共和党の調査は政府によって徹底的に妨害されたために、上下院合同調査委員会で共和党のO・ブルースター上院議員は「証拠文書が大量に破棄されたり提出が阻害され、政府が選んだ証人はまったくインチキの証言ばかりしている。ルーズベルトは国家に対して詐欺を行った犯罪者だ」と怒号しているが、これは後の1993年に米国立公文書館真珠湾課担当官R・デーンホフの「1945年~1946年の調査の前の段階で、海軍公文書記録から真珠湾攻撃に関する大量の記録が抜き取られ消失してる」との証言で裏付けられた。ルーズベルト死去の報を受けたマッカーサーが「嘘が通ると見てとれば、絶対に本当のことを言わない男が死んだ」と述べたように、嘘と陰謀に明け暮れたルーズベルトのあまりの卑劣さに、たとえ対日戦争の直後といえども共和党は憤慨してその謀略を強く追求したのである。なお、この共和党の主張は、C・A・ビーアドやJ・トーランド、C・タンシル等々といった米国レビジョニスト(歴史修正派)とその系譜を継ぐ歴史学者たちによって「ルーズベルトの真珠湾謀略」として今なお歴史の見直しが提起され続けている。ルーズベルトがここまで日本との戦争を望んだ理由は一体何のためであったのだろうか。「英国を助けるため」「満州から日本を追い出して権益を横取りするため」といった要素も確かにあるが、日本人があまりに気付いていない最大要素として「ソ連(共産主義)を助けるため」というものが存在している。ハルノートを執筆したハリー・D・ホワイト特別補佐官がソ連KGBの工作員であったことは前章で述べたが、元々左翼的体質にあった民主党はルーズベルトの登場によって完全なる「ソ連の傀儡政権」化していたのである。ルーズベルト政権以前の20世紀前半における米国では、ウィルソン政権を除けば全て共和党が政権与党となっており、マッキンレー、セオドア・ルーズベルト、タフト、ハーディング、クーリッジ、フーバーら共和党の歴代大統領は反共を政治的信条としていた。従って共和党政権下で鳴をひそめていたマルクス主義者は、マルクス主義的なニューディール政策を掲げるルーズベルトの大統領就任によってこぞって民主党に流れ込んだのだ。その中にはソ連を「心の祖国」と信じるようなソ連の工作員や協力者が多数混在していた。

 1928年に民主党大統領候補に指名されたこともあるアル・スミスは、ルーズベルトの前任のニューヨーク州知事であり、ルーズベルトを政界復帰させた立役者でもある。しかしこの民主党の大物スミスは、1936年1月に「ニューディールとはマルクスとレーニンのことである。問題は、ワシントンか、モスクワかの選択だ。我々はルーズベルトが民主党候補に再指名された場合、民主党を離脱する」という有名な演説を行い、結局ルーズベルトが再指名されると民主党内の反共(反ソ)の面々はスミスと共に離党するに至った。さらに民主党を支えてきたデュポンを始めレミントンやシンガーミシン、GMやモーガンなどの大企業・財閥もスミスと支持して反ルーズベルトに回ることとなった。かくして1936年以後の民主党には、ルーズベルトを支持する共産主義者と容共主義者しか残っていないという状況になってしまったのである。

 ルーズベルト政権下においては、公言をはばからない共産主義者であったヘンリー・ウォレス副大統領(後にトルーマンの対ソ対抗政策を批判して辞任し、極左ミニ政党「進歩党」を結成し大統領に出馬するも落選)や「スターリンの友人」として知られたハリー・ホプキンス商務長官(ルーズベルトとチャーチルの極秘会談内容をソ連に伝えていたことが後に発覚)、開戦前に国民党軍に爆撃機を提供していた大統領特別補佐官ロークリン・カリー(後に対ソ協力スパイの容疑告発を受けて南米に逃亡)など、その他ルーズベルトの周囲に集結していたマルクス主義者はあまりの多さにとても枚挙しきれないが、特筆するべきはアルジャー・ヒスの存在である。

 ルーズベルトの側近であった国務省高官アルジャー・ヒスは、ヤルタ協定の草案を作成し国連憲章を起草した人物だが、ソ連のスパイでマルクス主義者であることが1949年発覚し、スパイ及び偽証の罪で逮捕・起訴されている。結局スパイ罪は10年の時効が成立していたため、偽証罪で1950年に懲役5年の実刑判決を受けた。このヒスはルーズベルトやトルーマンの民主党政権における極秘書類のコピーをソ連GRU(ソ連軍参謀本部情報部)やMGB(KGBの前身)に流しており、ヒスの暗号名は「アリス」なるものであった。またヒスがモロトフらソ連指導者に対して「国連常備軍を創設して、その長官をソ連共産党の指名するロシア人にする」と密約していた事実は、当時全米のニュースでも報道されている。1945年にスパイ容疑でFBIに逮捕された元米国共産党幹部E・ベントレーは、民主党政権の中にソ連のスパイネットワークが2つ存在していることを供述しているが、つまりヒスやH・D・ホワイトはその中のメンバーであったのだ。

 1995年4月に米エモリー大学のH・クリア教授らがロシア公文書館でコミンテルンの膨大なファイルの中から民主党の対ソ協力者に関する重要文書を多数発見した。さらに翌年1996年3月に米NSA(国家安全保障局)が機密指定を解除したKGB暗号解読文「VENONA」ファイルによって、民主党ルーズベルト政権の中枢、ホワイトハウス、国務省、司法省、財務省、陸軍省、OSS(現CIA)等に300人以上のソ連のスパイ(共産主義者)が浸透していたことが明らかになった。ちなみに共和党内にソ連のスパイはほぼ皆無であった。なお、この「VENONA」ファイルにより、左翼お気に入りの〝冤罪被害者〟ローゼンバーグ夫妻が冤罪ではなく本当にスパイであり、原爆技術などをソ連NKVD(人民内務委員会秘密警察)工作員に渡していたことも立証されている。

 マッカーシズムと呼ばれたジョセフ・マッカーシー共和党上院議員によるレッドパージは、1950年から約4年間続いたが、あまりにも攻撃的であったために、反発した民主党や米リベラル層から激しく非難されてその影響力を失い、マッカーシーは、1957年48歳の若さで失意のうちに憤死している。しかしマッカーシーが正しかったことは「VENONA」ファイル等で完全に裏付けられた。対ソ封じ込め戦略を構築した米外交界の巨人ジョージ・ケナンは、その回想録の中で「1930年代末期に、米国の共産党員又はその手先が政府機関に浸透していたとの事実は、やがて登場する右派(マッカーシーなど)によるでっちあげなどではなかった」と述べ、当時の駐ソ大使館や共和党首脳が再三警告したのにルーズベルトは「まったく聞く耳を持たなかった」と嘆いている。ルーズベルトによる対日挑発は実はソ連による国際共産主義謀略の一環であったのだ。

次回へ続く

人気blogランキングへ