勇気ある行動は大切であるけれども、自分の行動に酔いしれてしまうと、世間の人から疎まれるようになる。
情熱をもって行動すると共に、心の中は、いつも醒めていなくてはいけない。
行動しなければ何も始まらないが、成果もきちんと問わなければいけない。
大川総裁の言葉が、これほど世の中に影響を与えているのは、単に正しいことを言っているからではない。
押し付けがましいところが全然ないからだと思いますね。
だから自然に浸透していく。
仏弟子たちも大川先生の正しさを真似できても、謙虚さは全く真似できないようだ。
同じ言葉であっても、大川先生が語ると、自然と胸の内に納まるが、仏弟子さんが語ると、どこかで、カチンときて、拒絶したくなる。
大川先生は、会員だからとか、会員でないからとか、職員であるとか、一般信者だからとか、そんなことで態度を変えたり、区別したりとか、全然していない。
全ての人が神の一人子であると思っているんではないでしょうか。
同じく真理の言葉を語っても、やっぱり大川先生が言うのと、私たちのような仏弟子たちが言うのでは、何かが全然、違う。
私たちのような仏弟子が語ると、どうしても押し付けがましくなってしまう。
それはなぜかというと、私たちの語る真理の言葉っていうのは、やっぱり借り物でしかないからでしょう。
それは自分の言葉になっていない。
自分の言葉になるまで腑に落としてない。
借り物だから権威にこだわる。
借り物だから、誰が言ったかが重要になるんです。
私たちは聞慧、思慧、修慧という方法で、仏法真理を深く学んでいくけれども、最後の最後に、その教えを語ることができない。
自分の言葉として語ることができない。
それは、その言葉を語る勇気がないんだろうと思います。
仏法真理を自分の言葉として語るのは、勇気がいります。
「私は学びが浅いから」と言うのかもしれないけれども、そんなこと言っていたら、いつまでも語れない。
大川先生は自分の言葉として語っています。
自分の言葉として語るということは、その言葉に対して、自分が責任を負う覚悟があるということです。
私たちには、その覚悟がありません。
だから何年たとうが、いくら学んでも語ることができないんです。
「私は学びが浅いから」と言って、逃げています。
「大川先生が、こうおっしゃっています」と言って、最終責任は、全て大川先生に押し付けています。
確かに、私たちには、宇宙の法は語れません。
大如来の法だって語れないでしょう。
しかし、私たちが学んできた教えの中で、自分の言葉として語れる教えは、いくらでもあるはずです。
自分の言葉として語れないのは学びが浅いからではありません。
責任を取る覚悟がないからです。
いくら学んでも、どんなに修行を積んでも、覚悟を決め無ければ、仏法真理を語ることはできません。
しかし、もし勇気を振り絞って、真理の言葉を、自分の言葉として、語ったとしても称賛されることは滅多にありません。
必ず試されるでしょう。
「偉そうだ」と言われるかもしれない。
「あなたには、そんなことを言う資格はないでしょう」と言われることもあるでしょう。
もっともらしいですが、これは、実は試みの言葉であって、「試されているのだ」ということに気がつかなければいけない。
いくら修業を積んでも、真理を語ることはできないんです。
真理を語ろうと思わなければ真理を語れないんです。
解釈しているだけでは、真理を語ったことにはなりません。
解釈することを修業だと思っている人は、生涯を通して解釈するのみで、いくら学んでも、いくら考えても、語ることは、全て解釈論です。
解釈論をいくら語ったところで、世の中は寸毫も動きません。
大川先生は真理を語ることで世の中を動かしています。
それに対して、仏弟子たちは世の中に影響をほとんど与えていない。
それは真理を語っていないからです。
自分の言葉として語っていないからです。
それは謙虚なのではなく、臆病だからです。
試されることを恐れているからです。
大川先生は正々堂々と、真っ向勝負で、権威あるものの如く語る時もあります。
それは心が真っすぐで、捻くれていないからできるんです。
悪魔から、世間から、いろんな試みを受けますが、それに対して一切、妥協しません。
私たちも真理を語れば、必ず試されます。
試みに来るのは悪魔だけではありません。
世間からも試されます。
それだけでなく、同じ法友からも様々な試みがあるかもしれません。
しかし、そこを突破しなければ、本当の意味での伝道者にはなることはできません。
最後の最後は孤独な闘いになります。
でも覚悟を決めれば、必ず勝利することができます。