神仏は自らの言葉に100%責任を負う | 真理は心の中にある

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真理は心の中にある。これが私の基本的修行スタイルです。日々、思っていること、考えていることのなかで、読者が参考になると思われることを書いていきたいと思っています。

人の語った言葉には色が付いているが、神仏の語る言葉には色が付いていない。

神仏の言葉に色を付けるのは、その言葉を聞いた、その人が色を付ける。
その無色透明の言葉にいかなる色を付けるかは、その聞き手に任されている。

神仏は自らが語った言葉に100%責任を負う。
神仏の語った言葉によって迫害に会うならば、神仏自身が盾となって、その人を守らんとする。

法を語るということはそういうことだ。

仏の教えを信じ、その教えを語り伝えるなかで、迫害に会い、不幸な終わりを迎える時もある。

しかし、そんな中でも仏は自ら盾となり、あなたを守らんとしていた。
あなたが死後、迷いのなかで、もがき苦しんでいたとしても、その心の深い傷を癒さんがため、自らが、その闇の中に降りていくだろう。

仏は自らの語った教えに100%責任を取る。
いささかも曖昧にしたり、ごまかしたりはしない。

自らを信じた人の魂に対して100%責任を取る。
そのことに対して、いささかの言い訳もしない。

例え悪魔に魅入られ、多くの人を惑わしたといっても見捨てるということはありえない。

私の信じる人は、そういう人である。いや、そういう存在である。
どうして裏切ることができるだろうか。

人は生きている時に、様々な困難に打ち当たる。

過去、同胞たちの手によって、無実の罪におとしめられ、無残な最後を迎えた人もいる。

そのなかで信仰を失わずにいた人もいるが、その最後において天を恨み、呪いながら死を迎えた人もいる。

そういった人は、最後の最後において、神仏の救いを信じ切ることができない。

神仏が、救いの手を指し述べても、その手を払いのけてしまう人もいる。
そして、「何故あの時、救いに来てくれなかったのか」と呪いの言葉を口にする。

神仏にもできることと、できないこともある。
ましてや、この地上での出来事はいかんともしがたい。
しかし神仏は、その非難に、一切言い訳せず、黙々と耐えながら手を指し述べつづけるのみだ。

人間には永遠の生命がある。
その無窮の時のなかで迷うのも、また自由である。
その永遠の試行錯誤のなかで人類は進化し続けていく。

しかし、その永遠の時の流れのなかで神仏が人を見捨てるということはありえない。

何故、信仰心があるのに困難苦難に見舞われるのかと思うかもしれない。
しかし救いの手は既に何度も指し述べられている。

その救いの手が見えないのは、過去の転生のなかで神仏に対する根強い不信感があるからだ。

信仰は何も難しいことではない。
その頑なな心を解きほぐし、恨み心を捨て、神仏の差し出す救いの手を握り返すだけでいい。
それ以上のことは求められていない。