「クラッシュ」 | やまたくの音吐朗々Diary

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映画レビューを中心としたバトルロイヤル風味。

クラッシュ


銀座で、来年の2月に公開される映画「クラッシュ」の試写。

本作「クラッシュ」は、クリント・イーストウッド監督作品「ミリオンダラー・ベイビー」で製作、脚本を手がけたポール・ハギスの監督デビュー作品である。

出演者の全員が主人公ともいうべきこの作品では、警察官、地方検事、TVディレクター、鍵職人とその娘、雑貨屋の主人など、さまざまな人種と、さまざまな階級の人々が登場する。一見無関係に見える彼らが、ハイウェイで起きた一つの事故を中心に、複雑に絡み合い、坂を転げ落ちるように失墜へ向い始めるという、社会的連鎖をモチーフにした物語。

心躍る物語は一秒たりとも用意されていない。個々の人間が放つ「負の意識」が、社会をグルリと回って自分自身に返ってくるという、人間社会の見えざるシステムを描いている。当の本人たちは自分が放った「負の意識」に気づいていないだけに、次から次へと続く不運な出来事に翻弄される。そして、抗い、哀しみ、怒り、涙を流し、挫折し、絶望していく。この映画に登場する人のうち、誰一人として運命による翻弄を免れる人はいない。

面白いことに(と書くのは不謹慎だけど)、自分自身に返ってくる「負の意識」は、思いも寄らぬところから、そして思いも寄らぬカタチでやってくる。人間不信、夫婦間の溝、ひき逃げ、殺人の加害者、被害者、身内の死、精神破綻……。この映画を見れば、人間は他人とのかかわりのなかでしか生きられない生き物であること、そして、人間社会の見えざるメカニズムの重要性を知ることになるだろう。

ある登場人物がこんなことを言った。

「お前は私を困らせて、お前自身もおとしめている」

映画の核心をえぐるセリフである。

舞台はロサンゼルス。ポール・ハギス監督は、この作品を通じて、アメリカ社会が抱えるさまざまな問題を吊るし上げている。なかでも、人種のるつぼが生み出す根深く明け透けな差別的感情と、それらがあらゆるカタチで先鋭化され、あらわになってていく様子は、日本人の目には少し異様な光景に写るかもしれない。

ただ、ではこの映画がアメリカ人への啓発のためだけに作られたかといえば、そうではない。世界中の多くの人々が、それぞれの心のなかに——それを意識するしないにかかわらず——差別的感情や「負の意識」をもっている。ポール・ハギス監督は、その一人ひとりの心にある、わずかな点に、鋭い光を当てたのだろう。

一般的な映画を「絵」とするならば、この映画は限りなく「写真」に近い。映画全体は大きなメタファー(暗喩)を秘めているものの、登場人物のセリフや表情を含めた一つひとつのシーンは、愚直なほど鮮明かつ直接的である。赤裸々すぎて、救いのなさを感じるのも事実だし、約2時間弱のフィルムに収められた重苦しい空気の正体に、正直、うんざりさせられもする。

ゆえに好き嫌いがハッキリと分かれる映画ともいえるだろう。

たった一度だけ安堵を覚えたのは、ラスト間近の鍵職人の親子のある物語(詳しくは書きません)。“透明なマント”の話。あれは、容赦なく真実を描き出す気鋭の新人監督が観客にプレゼントした、唯一の「正の意識」とその連鎖であったといえよう。

この映画を真実とらえるか、作り事ととらえるかは、観る人それぞれなのだろうが、その“それぞれ”こそが、運命の分かれ道なのだと、この映画は伝えようとしている。

オススメ指数:90%(最大値は100%)
補足:群像劇が苦手な方は70%

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