「歴史の里」秋まつり 志段味古墳群(名古屋市守山区上志段味25/10/14) | 論説 [ ● ]おおす新聞

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皇御國、第96代 後醍醐天皇 縁の大須(名古屋市)、藤田東湖「和文天祥正氣歌」天地正大氣 粹然鍾 神州。吉田松陰「士規七則」士道莫大於義 義因勇行 勇因義長。日本國領土 尖閣諸島徹底護持、七生報國

「歴史の里」秋まつり
志段味(しだみ)古墳群

名古屋市守山区上志段味(かみしだみ)
25/10/14





第12代 景行天皇(けいこうてんのう)の第二皇子 日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の東征、大和朝廷による東征の後、日本東部方面の橋頭堡、日本東部方面の要、志段味古墳群地域(古墳案内の方はその様な趣旨のことを言われていた)
日本武尊のお妃に志段味古墳群地域・尾張氏の宮簀媛命(日本書紀の読み方:ミヤズヒメノミコト、熱田神宮(古事記の読み方):みやすひめのみこと)

現在はヤマト王権と学校教育では教えているようだが、我々の頃は「大和朝廷」であった

萬世一系の皇統護持 神武朝・大和朝廷不滅也

皇尊彌榮 皇御國彌榮





「志段味古墳群の位置と古墳の分布」
 志段味古墳群のある守山区上志段味は、名古屋市の北東の端、名古屋駅から直線距離で北東に焼く17km離れたところに位置しています。北は春日井市、東は瀬戸市、南は尾張旭市と接しています。
 上志段見地区には、名古屋市内で最も高い東谷山(とうごくさん 標高 198.3m)があり、山頂にヤマトタケルの妻ミヤズヒメによって建てられたと伝えられる式内社尾張戸神社(おわりべじんじゃ)が鎮座
しています。東谷山の西の麓には東谷山フルーツパークがあり、春と秋を中心に多くの観光客が訪れます。
 名古屋市の地形は東が高く西へ向かって緩やかに下がっており、東郷の丘陵地に上志段味地区は位置しています。上志段味地区の北部には岐阜県から愛知県を通り、伊勢湾へと庄内川に沿うように、東谷山の西麓に河岸段丘と呼ばれる階段状の地形が広がっています。
 上志段味地区は名古屋市内で最も古墳が残っている場所で、市内で把握されている古墳の総数約200基のうち、約70基が集中
しています。さらにその70基は、東西約1.5㎞・南北約1kmの非常に狭い範囲のなかに位置しています。各古墳は東谷山の山頂部から低位段丘にかけて、さまざまな地形の上に築かれています。(「志段味古墳群を巡る ~名古屋のルーツを訪ねて~」編集・発行 名古屋市教育委員会より転載)


ちなみに「三重県」の名称の由来は・・・
ヤマトタケルが東方遠征を終えて尾津前(尾津浜)(桑名市)から能褒野(亀山市)へ向かう途中の三重郡(四日市市)で、『古事記』に「『吾が足は三重の勾がりの如くして甚だ疲れたり』とのりたまいき。故、其地を號けて三重と謂ふ」とあることに由来するとされている。(ソース:ウィキ 転載)

(追記)
[美しき日本] 三重 亀山市 ヤマトタケル


倭(やまと)は
国のまほろば
たたなづく
青垣(あおかき) 山隠(やまごも)れる
倭しうるわし

三重の由来
わが足 三重のまがりなして
いと疲れたり

(古事記)

(追記ここまで)




ひふみよいむなや こともちろらね しきるゆゐつわぬ そをたはくめか うおゑにさりへて のますあせえほれけ
沖津鏡 辺津鏡 八握剣 生玉 死返玉 足玉 道返玉 蛇比礼 蜂比礼 品物之比礼
一二三四五六七八九十 布留部 由良由良止 布留部


$論説  Article by yamap☆圧倒的人気を博する歴史の里イメージキャラクター「しだみこ」(しだみこちゃん) 
「しだみこ」(しだみこちゃん)の名称は、志段味(しだみ)と巫女(みこ)を融合させた造語ではないかと推察致しますが、真偽の程は存じ上げません。(追記)しだみこの語源=志段味(しだみ)+巫女(みこ)、関係者に確認(追記ここまで)


ウェブサイト名古屋市「歴史の里」

フェイスブック歴史の里

歴史の里イメージキャラクター「しだみこ」さんのツイッター しだみこちゃん

youtube:名古屋市教育委員会生涯学習課チャンネル 歴史の里を訪ねて~古墳時代にタイムスリップ~





平成25年10月14日、快晴の中「歴史の里・秋まつり」(名古屋市守山区上志段味)が行われた。

「歴史の里」とは、フェイスブックからの説明を引用すると「名古屋市守山区上志段味に今も残る古墳群の保存と活用のための整備事業が「歴史の里」です」とのことである。

名古屋市「歴史の里」のウェブサイトでは、以下のように記されている。

(以下転載)みなさんの身近な場所に、木が茂っていたり、草が生えている小山はありませんか。そうした小山は、もしかしたら古代の豪族がつくった古墳(お墓)かもしれません。名古屋市内には、約200基の古墳があるといわれていますが、このうちおよそ半分が守山区にあります。特に、守山区上志段味では、古墳時代の前期から後期まで(4世紀から7世紀末)時代を通して古墳がつくられており、また古墳の形状も、前方後円墳だけでなく、帆立貝式古墳、円墳、方墳と多様な形式がそろい、しかも、河岸段丘という地形の中で非常に良い状態で残されています。名古屋市教育委員会では、こうした古墳群を、豊かな自然の中で河岸段丘と一緒に保存活用しながら、「歴史の里」として整備することを計画しています。(転載ここまで)

同会場には、銅鏡作成、勾玉作成、埴輪作成、火おこし体験、弓矢体験、古代の服試着、しし汁(猪の味噌汁)等が配置。

一回目のトークショー

「上志段味は尾張氏の発祥の地。日本武尊(ヤマトタケル 第12代 景行天皇 けいこうてんのう の第二皇子)、1700年前に伊吹山で猪にぶつかって死にそうになった。宮簀媛(ミヤズヒメ)に白い白鳥に乗って会いに舞い降りた。だから、白い石英がまかれた(白鳥塚古墳か東谷山のどっちだったか記録漏れ)」

「熱田神宮、宮簀媛(ミヤズヒメ)に日本武尊(ヤマトタケル)は草薙の剣を預けた。そして、伊吹山に行った。そして、猪にぶつかった」

「熱田神宮の宮司さんに草薙の剣を見せてくれといったら、断られた」 

「宮簀媛(ミヤズヒメ)が東谷山の上におったという説がある」

(付記:以下、「神道の本」138ページ(学習研究社)より転載)
 神剣も見ることは固く禁じられていたが、江戸時代に熱田神宮の神官数人がこっそりとそれをのぞき見たという記録がある。それによると、長さ80センチほどで、刃の先は、菖蒲の葉のようで、色は全体的に白かったという。

 つけ加えておくと、神剣を見た人々は原因不明の病に倒れ、そのうち一人がこのことをやっと言い伝えたのだという。


ちなみに、スサノオ命が大蛇の尾から発見した剣は、もとは天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)といわれ、 八咫鏡(やたのかがみ)とともに祀られていた。が、 景行天皇(けいこうてんのう)の時代に、その 皇子・日本武尊(やまとたけるのみこと)が叔母の 倭姫命(やまとひめのみこと)からこの剣を授けられ、尊は東征の際に携えていった。その折、焼津の地で火攻めにあった。
不思議なことに、この剣がひとりでに腰からぬけて、周囲の草を薙ぎはらった。そこで、迎え火をしてあやうく難を逃れたという。
このときから、この剣は草薙の剣といわれるようになったのだ。(転載ここまで)



名古屋市内で一番高い山がこの名古屋市守山区上志段味(かみしだみ)にある東谷山(とうごくさん)で、標高は189.3mである。

東谷山(とうごくさん)には古墳三基存在し、一基は前方後円墳、二基は円墳である。

東谷山の山頂には日本武尊(ヤマトタケルノミコト)のお妃・尾張氏の宮簀媛命(ミヤズヒメノミコト)によって建てられたと伝えられる尾張戸神社(おわりべじんじゃ)が鎮座。

第12代 景行天皇(けいこうてんのう)の第二皇子 日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は、尾張氏の宮簀媛(ミヤズヒメ)を娶り、大和朝廷東方の橋頭堡ともいえる志段味古墳群地域。

宮簀媛(ミヤズヒメ)日本武尊(ヤマトタケルノミコトの東征の帰路、尾張滞在の際に娶られる。日本武尊が能褒野で亡くなると、日本武尊より預けられた天叢雲剣(草薙の剣、三種の神器の一)を奉斎鎮守するため熱田神宮を建立した。日本武尊が尾張連らの遠祖である宮酢媛命を娶って宿泊した時、剣が神々しく光り輝いたため、宮酢媛命にその剣を奉斎することを命じ、そこで建てたのが熱田神宮であるとされる。(ウィキ)


東谷山は霊山と記されている。(ソース:ウィキ)


(以下、転載)東谷山:古来より信仰を集めた霊山。
山頂には延喜式記載の古社である尾張戸神社があり、尾張国造尾張氏の本貫地(加筆:氏族集団の発祥の地)、また熱田神宮の奥の院として古来より信仰を集めた。
また山内・山麓には尾張戸神社古墳(おわりべじんじゃこふん)・中社古墳(なかやしろこふん)・南社古墳(みなみやしろ)・白鳥塚古墳など、東谷山古墳群・上志段味古墳群と総称される尾張地区最大規模の古墳群が存在する。
南山麓には森林浴の森100選に選定されている愛知県森林公園の丘陵地がある。
名古屋市内で東山公園と同様に多くの自然が残る里山で、2010年4月には国の特別天然記念物であるニホンカモシカの生息が確認された。山頂には三階建ての展望台が設けられている。(ウィキ転載ここまで)


同まつりには多くの人々が参集し、また多くの子供達は、銅鏡、勾玉などを作成するブースにて知的好奇心全開で一心にこれに集中していたのは必然といえるだろう。

古(いにしえ)の文化、識見等に触れる同まつりは情操を養い、古の時空に思いをめぐらせ、その連続性の中に自分自身が存在するということをまざまざと体感、歴史を三次元的に認識することは自明の理といえるだろう。

「歴史の里」は整備計画中ではあるが、上志段味の地に確実に存在していた古の日本民族、中には血が繋がっていた祖先もいたかもしれない上志段味の地に足をつけ、古墳群を垣間見る時に生命の連続性、日本民族の連続性、日本国の連続性、
萬世一系の 天皇陛下の御存在を感じるのは必然といえよう。

霊山・東谷山(とうごくさん)を構え点在する古墳群は、日本民族の魂に確実に共鳴することだろう。

上志段味古墳群「歴史の里・秋まつり」、今まさに歴史を垣間見る。

上志段味の地を治め、その地で生活していた古の日本民族の魂の輝きを一身に受けながら。



画像

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古墳案内の方曰く、この時期、白鳥塚古墳の敷地、東谷山にはスズメバチが活動しているようなので、気を付けた方がいいようです。



おおす新聞 2673(25)-10-18 05:11 配信 







第96代 後醍醐天皇 縁の大須(名古屋市)


大須は尊皇の街 萬世一系乃皇統護持

古事記1300年 大須観音展



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(追々記)

日本のメディアが報道しない支那(china)の事実

http://ameblo.jp/yamap888/entry-11584663765.html





外務省「尖閣諸島」Senkaku Islands
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/senkaku/


外務省 尖閣諸島→資料コーナー→尖閣諸島について(平成27年3月16日更新)(PDF)
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/senkaku/pdfs/senkaku.pdf


尖閣諸島が日本固有の領土であることは歴史的にも国際法上も明らかであり, 現に我が国はこれを有効に支配しています。したがって,尖閣諸島をめぐって解決し なければならない領有権の問題はそもそも存在しません
日本は領土を保全するために毅然としてかつ冷静に対応していきます。
日本は国際法の遵守を通じた地域の平和と安定の確立を求めています。





外務省「竹島」Takeshima
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/takeshima/
竹島の領有権に関する日本の一貫した立場
竹島は,歴史的事実に照らしても,かつ国際法上明らかに日本固有の領土です。
韓国による竹島の占拠は,国際法上何ら根拠がないまま行われている不法占拠であり,韓国がこのような不法占拠に基づいて竹島に対して行ういかなる措置も法的な正当性を有するものではありません
日本は竹島の領有権を巡る問題について,国際法にのっとり,冷静かつ平和的に紛争を解決する考えです。
(注)韓国側からは,日本が竹島を実効的に支配し,領有権を再確認した1905年より前に,韓国同島を実効的に支配していたことを示す明確な根拠は提示されていません





外務省「北方領土」the Northern Territories
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/hoppo/
1855年2月7日日本ロシアとの間で「日魯通好条約」が調印され択捉島とウルップ島の間に国境が確認されました。それ以降も,択捉島国後島色丹島及び歯舞群島からなる北方四島は,一度も他国の領土となったことがない,日本固有の領土です。しかし,1945年に北方四島がソ連に占領されて以降,今日に至るまでソ連・ロシアによる不法占拠が続いています。
政府は,北方四島の帰属の問題を解決してロシアとの間で平和条約を締結するという基本方針に基づき,ロシアとの間で強い意思をもって交渉を行っています。









吉田松陰先生士規七則(しきしちそく)」


http://blog-imgs-67.fc2.com/n/e/z/nezu621/20140924101946977.jpg


士規七則

披繙冊子 嘉言如林 躍躍迫人 顧人不讀 即讀不行 苟讀而行之 則雖千萬世 不可得盡 噫復何言 雖 然有所知矣 不能不言 人之至情也
古人言諸古 今我言諸 今亦詎傷焉 作士規七則

一 凡生為人 宜知人所以異於禽獣 蓋人有五倫 而君臣父子為最大
  故人之所以為 人忠孝為本
一 凡生皇國 宜知吾所以尊於宇内 蓋 皇朝萬葉一統
  邦國士大夫 世襲禄位 人君養民 以續祖業
  臣民忠君 以継父志 君臣一體 忠孝一致 唯吾國為然
一 士道莫大於義 義因勇行 勇因義長
一 士賢以質實 不欺為要 以 巧詐文過為耻 光明正大 皆由是出
一 人不通古今 不師聖賢 則鄙夫耳 讀書尚友 君子之事
一 成徳達材 師恩友益居多焉 故君子慎交遊
一 死而後已四字 言簡而義廣 堅忍果決 確乎不可抜者 舎是無術也

士規七則 約為三端 曰 立志以為 萬事之源 選交以輔 仁義之行 讀書以稽 聖賢之訓 士苟有得於此 亦可以為成人矣。