No.7-1~3
ごめん─── 。
向かい合うなり佐藤君はそう言って頭を下げた。深々と。背の高い佐藤君の頭のつむじが眼前にある。そのことが不思議。
昼休み。いつものように屋上にやって来てた。風が強くて、頬が痛い。真冬にこんなとこに来るもんじゃないね。肩を竦めながらじっと寒さに耐えた。震えてるのはその所為。別に、佐藤君に対して身を震わせるほど憤ってるわけじゃない。
でも。
やっぱり怒ってる。
メールの返事もくれないで。
電話にも出ないで。かけ直してもこないで。
いきなりごめんだなんて。
一体、佐藤君はどういうつもりなんだろう。
どうしてあんなことをしたんだろう。
「ひどいよ、佐藤君……」
滅多に見られない佐藤君の頭のてっぺん。その形の良い頭が、身体全体が、こちらの言葉に固まった。
暫しの間を置いて、
「うん。だから、ごめん」
頭を上げない状態で、そう言った。
何、その態度。ずっとそうしてるつもりなの?
「どうして、……行かなかったの?」
恐る恐る訊ねた。だけど。本当に訊きたかったことはそれじゃない。
どうしてわたしを部屋に呼んだの─── 。
とても大事な仕事を放り出して。どうしてわたしと会ってたの?
「あんなことしちゃ、いけなかったんじゃないの?」
「うん」
「事務所、……えみりさんのお母さんだって、大変なことになるんじゃないの?」
「うん」
「あたし、昨日の帰り、マンションの一階で品川さんに会ったんだよ。あの、いつもひょうきんな品川さんが、すごく青い顔して慌ててた」
「うん」
「どうして?」
「……」
「ね、顔、上げて。お願いだから」
「……」
少しだけ上げた佐藤君の顔は暗かった。
合わせた瞳の色も悲しみに沈んでるみたいに真っ暗だ。こちらまで、深いところへ一緒に落ちてしまいそうになる。
やだな。いまそんな顔、しないでほしい。
佐藤君はゆっくりと折っていた腰を伸ばしはしたけれど。まだ、そっぽを向いて俯いたままでいる。顔を見られたくないみたいに。
「どうして?」
「わか、らない……」
ぼそりと言う。
「わからない?」
「うん」
「あんなニュースになるくらい大事なことなのに、その仕事を放棄してて、その理由がわからないの?」
「うん」
「うん、うん、って。さっきからそればっかりじゃん」
「……」
思わず佐藤君の両肘を掴んで揺さぶっていた。
「ねえ、ちゃんと答えてよ、佐藤君っ」
「自分でもほんとわかんないんだ。……だけど。平澤には悪いことしたって、そう思ってる」
「あ、たし?」
「うん」
ゆっくりと。佐藤君の肘から腕を離した。触れてる部分からじんじんと。佐藤君の痛みが伝わってきて辛かったから。
─── 平澤には悪いことしたって、そう思ってる。
わたし?
どうしてわたし?
縋るような気持ちで佐藤君の胸元あたりを見つめてた。
他の誰か、例えば事務所の社長であるえみりさんのお母さんだとか、真っ青な顔で慌ててた品川さんだとか、制作発表の会見で終始にこにこしてた山田監督とかじゃなくて。どうしてわたし、なんだろう。
「ごめん」
ほんとにごめん、と佐藤君は二度謝った。
「俺、……」
「……」
「俺、平澤のこと、利用した」
大きく目を見開いた。
視線の上にある佐藤君の喉仏。それが、ごくりと音を立てて上下するのがわかった。極度に緊張してるひと、みたいに。
利用。
そうか。
あれはそういうことなのか。
キスもしたし。いつもどおり抱きしめてもくれたのに。
しんしんと。胸のうちが冷え込んでいくのがわかった。
「どうしても昨日はあの場に行きたくなかったんだ。もう仕事をやめようかとも思ってたし。最初からすっぽかすつもりだったんだ。だけど。ひとりじゃどうしようもなくて」
平澤と一緒にいたくて。それで。─── 呼んだんだ。
佐藤君の声が風のように耳を通り抜けていく。
「ごめん」
「あ……」
「……」
「謝らないで」
「え?」
「利用されても、いい。あたしは、いい。だから謝らないで」
佐藤君の顔がひどく強張っている。こんな佐藤君、見たことないよ。きっとわたしにひどい言葉を投げつけられるのが怖くて、その所為で怯えた顔になってるんだね。何だか悲しいよ。謝りながら怯えてる佐藤君を見るのは悲しい。
「お、怒らないよ、あたし。ただ、ちゃんと話して欲しかった、って」
「平澤」
「そ、それだ……け……」
言ってる途中で喉が詰まって、もうそれ以上喋ることができなくなった。
佐藤君の顔が滲んでる。
自分が泣いてることに気がつくまでに。少し時間がかかった。
「佐藤君」涙を拭いながら笑ってみせた。こんなことくらいで泣いちゃダメだ。いまは佐藤君のほうがずっとずっと辛いはず、だから。
「戻ろうか? 寒いよね。佐藤君、鼻、真っ赤だよ?」
「平澤……」
ものすごく辛そうな顔でこちらを見る佐藤君。いやだな、そんな顔しないでよ。そんな顔されたら、懸命に作ってる強がりな自分が嘘だって佐藤君にバレてるみたいで、バレてるんならいっそ泣き出しちゃってもいいんじゃないかって、全部を吐き出しちゃってもいいんじゃないかって、何だか楽なほうへ楽なほうへ流されていっちゃいそうになるんだよ。だけど。いまは絶対泣きたくない。
背中を向けて歩き出す。扉を開き屋内に入った。扉が閉まると当たり前だけど全然風が当たらなくて、それだけでうんと暖かくなった気がする。凍ってた頬と耳が溶けてく感じ。階段を降りながら喋った。
「具合悪いことになってるの? だったら今日学校、休んだほうがよかったんじゃないの?」
「うん。……いや、いいんだ。なんか急性の腹痛ってことになってたから。そんな大した病気じゃない、だろ……」
言葉を濁らせながら喋る佐藤君。歯切れが悪いのは何でだろう。あんまりそのことに触れてほしくないからかな。
「すごく怒られた、でしょう?」
「うん、まあ」
「……やめちゃうの、ほんとに?」
振り返って目を合わせる。
佐藤君が泣きそうな顔でこちらを見ていたので驚いた。
機嫌を窺うみたいな。腫れ物に触るみたいな。許しを請うみたいな、顔。
わたしの知ってる佐藤君じゃない。
そう思って呆然とした。
前はもっとふてぶてしくて。こっちの機嫌なんか全然気にしてなくて。初めて屋上で言い合いしたときだって。もっとずっと強気だったはず。
いつから佐藤君はこんな顔をするようになったんだろう。
「……そんな顔、しないで」
「え?」
「そんな顔で、見ないで」
「平澤?」
「そ……」
言ってる途中で下を向いた。制服の右ポケットが震えたから。携帯電話を手に取り表示された番号を見て考え込んだ。登録されいない固定電話の番号だ。誰だろう。間違い電話かな。
普段なら、出ない。
だけどこの状況から逃げ出したかったわたしは、佐藤君に背中を向け、通話ボタンを押し、耳に当てた。
「もしもし」
『……平澤かれん、さん?』
聞き覚えのある声。澄んだアルトの声だった。声の主の顔が浮かぶ。完璧な顔立ちの、でもちょっと冷たい氷みたいな表情しか見せない女のひと。
「はい。平澤です」
『真山です。わかるかしら?』
「……わかり、ます」
『ごめんなさい。いまちょう度お昼休みなんでしょう? 話がしたいの。放課後でいいから、お時間、いただけないかしら?』
ぎゅっと。携帯電話を握る手に力を込め瞼を閉じた。
「……はい」
『ありがとう』
耳の向こうで、妙に優しいえみりさんのお母さんの声が響いてる。
崩れる─── 。
春から少しずつ佐藤君と一緒に積み上げてきたふたりの時間が。がらがらと音を立てて崩れていく─── 。
そんな予感がした。