No.4-1~8 | アキヨシとカレン  ・・・少女漫画風恋愛小説・・・

No.4-1~8

 久しぶりに事務所へと遣って来た。

 品川とふたり。革張りのソファに座ってる。

 レイさんから呼び出しがあったのだった。仕事の前に必ず事務所へ寄って行くようにと。なのに。呼び出した本人は留守なんだ。

「何なんでしょうねえ。急ですからねえ。アキさん、何かやっちゃいましたか?」

 写真、撮られたり、してないですよねえ?

 じいっと。探るような目で品川に見つめられる。

「してねえよ」

と。思う。

 品川の視線が更に強くなる。じっとりと。疑いの眼差し。

「やめろ。うぜえよ。そんな目で見るなって。つか、近寄るな」

「アキさん、もう軽はずみな行動はやめましょうよー。心臓に悪いじゃないっすか。さっきから心臓バクバクっすよー」

「何だよ。大丈夫だよ」

フツーにホテルで会ってるだけじゃねえかよ。何も。怒られるようなことはしてねえよ。

 ……とは言えないのが芸能人の辛いとこなんだよな。やっぱ。写真、撮られたのかな。レイさんの凍えるような雷が落ちんのかな。やだね。すっげえやだ。

 事務所の扉が開いた。

「ただいま」

レイさんの声。品川と同じタイミングで顔を上げ振り返った。

 視線を合わせたレイさんが微笑む。妖艶に。

 あれ?

「怒ってはいないみたいですね」

品川がそっと耳打ちしてきた。

「だな」

「よかったっすね」

「ああ」

って。

 これじゃまるで組長の機嫌を窺ってる舎弟ふたり、みたいじゃねえかよ。

「待たせたわね。ごめんなさい」

 レイさんは、秘書に、

「例の書類」

とひと言言い、何やら薄い書類を受け取った。にこにこしながら向かいに腰を下ろす。こんなご機嫌なレイさんは珍しい。

「アキ。あなた覚えてる? 山田笙太監督」

「覚えてるよ」

忘れるわけない。俺のこと散々生意気な顔してるだとか、老けてるとか言いやがった。だけど。あんな屈辱。いまはどうってことないな。あれからいろんな経験を積んだからだ。もっと痛い目にあってきたからだ。

 それでもこの仕事を、俺はどうしてつづけているんだろう。

「山田監督、今度またメガホンをとるそうよ」

「ふーん」

 レイさんは聞いたことのない小説の題名を口にした。もの凄く有名な賞を取った小説。聞いてもわかんねえや。平澤ならわかるんだろうけど。

「で? それが何?」

「いいから聞きなさい」

 レイさんは。その小説の内容を話し始めた。

 主人公はずっと優等生だった十七歳の少年。両親共に医者で。特に世の中に不満もなく敷かれたレールの上を言われるままに歩いて生きてきた。そうすれば世の中は何事もなく自分を受け入れてくれることを少年は知っていた。それを幸せだと感じていた。ただ。何をしていても楽しいと感じたことは一度もなかった。何もかもが彼にとっては簡単過ぎた。全てが退屈だったのだ。

 その少年がひとりの女と出会う。臨時採用の美術教師。

 これがやばい女で。

 内縁の夫が暴力団員なのだった。

 少年は少しずつ女に惹かれていく。廃退的で無口で無愛想で、なのにどうしようもなくうつくしい女。死んだような生き方をしていながら描く絵は驚くほどに情熱的で。ふたりは女が学校を辞めた夜に結ばれる。

 少年は女に溺れ学校を休みがちになっていく。

 傍から見れば明らかに堕ちていく少年。けれど、彼は生まれて始めて生きるとはこういうことなのだと実感する。

 やがてふたりの関係は逆転する。少年のほうが女と一緒に堕ちていこうとするようになる。少年の一途さに恐怖し尻込みする女。

「あ」

思わず俺は声を上げていた。「それって……」

「何? アキ」

 レイさんの口許が嬉しそうにほころんでいる。

「オーディションのときの台本の役。多分、それだったと思う」

 そうだ。そんな話だった。恋に溺れいかれてしまった男。

「よく覚えてたわね」

「そりゃね」

 学校のお勉強は覚えが悪いんだけどさ。過去に演じた役はどんな端役でも忘れない。

「実はね。あれ、今回の主役のオーディションも兼ねてたそうよ」

「……え?」

「寧ろ。そちらが本命だったんだと思うわ」

「……」

 言葉をうしなっていた。そういうのって有り?

「あのときの審査員のなかに原作者がいたらしいの。自分の気に入る役者が見つからない限り、映画化は承知できないって言ってたらしいのよ。なのに。即決だったんですって。笑っちゃうわね」

 あのとき。どんなやつがいたっけ。全然思い出せない。男四人と女がひとりいたことは覚えてる。だけど。それぞれの顔は頭の中で曖昧模糊としていてはっきりしない。俺の記憶力なんてそんなもんだ。

「アキのこと。もの凄く気に入ったみたいよ」

「あのとき」

俺は言った。少々躊躇いがちに。

「小野と喧嘩した後だったから、顔、すんげえ腫れてたよな? あんなんでいいわけ?」

 隣でぼうっと、狐につままれた風だった品川が、頭を何度も縦に振った。レイさんは笑った。

「普段の顔はテレビで見ればわかるじゃない。あなたの演技力とか存在感とか。そういうの。気に入ったらしいの」

 演技力とか存在感。

「よかったわね」

 煙草を取り出すと口に銜えた。

 よかった?

 いや。だけど。

「え。その映画に、俺、出んの?」

 レイさんは火を点けようとしていた手を止めた。じっとこちらの顔を見たかと思うとその目が眇められる。嬉しそうだった笑みは消えていた。

「何言ってるの?」

「だから。出ないといけねえの?」

「当たり前でしょ」

 相手にしてられないとでも言いたげな仕草で煙草に火を点けた。

「じいさんから。話、聞いてるんだろ?」

 祖父は。そう言っていた。まず電話をかけて。それからこの事務所まで出向いたと。そしてレイさんに俺の意向をきちんと伝えたと。言っていた。

 レイさんはちらりと視線だけをこちらに向けた。少し緩めた唇から紫煙が立ち昇る。この事務所。禁煙にして欲しいよな。イマドキ常識だろ? 誰もレイさんに文句言わねえの?

「話ね。そうね。佐藤さんから聞いてるわよ」

「学校。マジでやばいんだって」

「だから?」

 へ?

「だからって……」

 言葉がつづかない。

「やめちゃいなさいよ」

「は?」

 目が。点になった。隣で品川も同じ反応、してる。

 軽すぎる口調に、むかっときた。

「何言ってんだよ。うちのガッコーは全国的に知名度があるからいいって、だから大学まできちんと行っとけって、レイさん、前にそう言ったよな」

「そうね」

「じゃ、何で」

「前と今じゃ状況が全然違うでしょ? そんなこともわからないの」

「何だ、それ」

「アキさん。社長相手に、何て口の利き方を」

 殆ど喧嘩腰になってるこちらの肘を品川が押さえる。俺はそれを乱暴に払った。

「ふざけんなよ」

「断るつもりなの?」

「……」

一瞬言葉に詰まってしまった。「当たり前、だろ」

 無理だよ。無理なんだ。佐藤明良という人間はひとりしかいないんだよ。学校も仕事もなんてこと。物理的にとても無理。

 レイさんが不敵に笑う。

「自分でもよくわかってるくせに」

バカにしたような口調でつづけた。「あなた、出るわよ、この映画。というか。出たいはずよね、そうでしょう?」

「出ねえよ」

 きっぱり言ってそっぽを向いた。品川は隣でおろおろしてる。

 レイさんは気持ち良さそうに煙を吐き出している。余裕のある表情、仕草。こちらをイラつかせる。わざとそうしてる。

「どうしてそんなに学校に行きたいの?」

 静かな声で訊ねられた。

「どうしてって……」

「勉強なんて、好きじゃないんでしょう?」

 うるせえなあ。

「平澤かれんちゃん。あのコがいるから。それだけよね、アキ?」

 確かにそれもある。でも。

「それだけじゃねえよ」

「そうなの?」

斜め目線でこちらを見た。「例えば?」

 例えば? だと。

「俺、まだ高校一年生なんだぜ? もっと、学校と関わっていたいって思っても、全然不思議じゃねえだろ?」

「へえ」

レイさんは感心したみたいに頷いた。でも本気で首肯してるわけでもなさそうだった。

「アキがそんなこと言うなんてね。意外ね」

短くなった煙草を灰皿に押しつけた。「じゃあ、いいこと考えたわ。学校をかわりなさい。芸能関係者をちゃんと引き受けてくれる学校があるでしょ。そこなら卒業まできちんと面倒を見てくれるし。問題ないわ」

「だからっ」

俺は歯噛みしながら言った。「ふざけんなって言ってんだよ。そういうことじゃねえだろ」

「じゃあ、何?」

「俺は、日本に来てからずっと、あの学校で過ごして来たんだよ。これでも、ちゃんと友達もいるんだよ。転校なんて、簡単に言うなよな」

 レイさんは懐疑的な目でこちらを見ていた。じっと。何もかもを見透かしてやろうとするみたいな目で。見ている。

「アキ、あなた、あのコと寝たんでしょ」

「……は?」

「それで骨抜きにされちゃったのね」

 ぐっと。拳を握り締めた。何言ってんだ、このばばあ。

 いや。口には絶対出せねえんだけどさ。

 レイさんはまた煙草に火を点けた。ヘビースモーカーにも程がある。

「大好きな女のコが相手なんだものね。アソビでするのとは全然違ったんでしょう?」

 答えたくもない。大きく脚を組んでそっぽを向いた。

「アキもまだまだコドモね。恋愛に夢中になったって、まあ、仕方ない年頃よね」

「それとこれとは別だって。さっきから言ってるだろ」

「甘いわよ。アキ。いまこの映画の仕事を断るってことがどういうことか、あなたちっともわかってないでしょう」

「知らねえよ」

「こんないい話。二度と来ないわよ。断言してもいいわ」

「……」

「仕事には波があるのよ。これを断ったら他の仕事もがくんと減る。間違いなくね」

「……」

「人気も急降下。芸能界ってそういうところよ」

 こちらはただ黙ってそっぽを向いていた。レイさんはつづける。

「これまでにもいたでしょう? 英語の勉強をするからって、海外留学してしまった歌手だとか、あと、自分の所属する事務所とトラブって、一旦どうしてもメディアから姿を消さなくちゃいけなくなった女優だとか。みんな戻ってきたときには以前の人気のほんの欠片も取り戻せないまま消えて行った」

「……」

「そういうものよ。ここはそういう世界。生半可な気持ちじゃやっていけないの。あなたがいまもし勉強の為にって何年も休んでごらんなさい。半月も経たないうちに世間から忘れられちゃうから」

 それくらいのこと。こっちだってわかってる。

「仕方ねえよ」

「仕方ない?」

「そうなったら、俺は、この仕事をやめる」

「……」

レイさんはきょとんとして、それから笑った。「何言ってるの? あなた、芸能界をやめて、大学まで行って、将来何をするつもりなの? まさかサラリーマンになりたいなんて言わないわよね」

「悪いかよ?」

 世の中の大半の人間はサラリーを貰って生きている。一番まっとうな生き方なんじゃねえの?

「できるの? あなたに?」

レイさんはバカにしたみたいにけらけら笑う。「毎日満員電車に揺られて? あなた、くだらない上司に頭なんか下げられるの?」

「っるせえなあ。いまは無理でも大人になったらできるかも知んねえだろ?」

「無理ね。無理」

レイさんは断言した。「あなたにそんな真似できるもんですか。いくつになったって、ひとの性格なんてそんな変わるもんじゃないでしょう? もしそんなことになったら、あなた、一生あのコを恨むことになるわね」

 平澤かれんさえいなければ。あのとき芸能界から身を退いてさえいなければ。俺は今頃─── 。

「やめろよ。アホくさい」

「そう?」

 レイさんはまた煙草を揉み消した。ぐいぐいと灰皿に押しつける。乱暴な所作だった。

 視線だけを、そっと、その手許から顔へと移した。

 冷静に見せてはいるけれど。

 案外焦っているように思えて、こちらも少なからず動揺した。

 何でだ? どうしてレイさんがここまで焦る?

 俺なんかいなくたって。この事務所ならちゃんと遣っていけるだろ?

「とにかく。家に帰ってもう一度よく考えなさい」

 考える? 何を?

「頭、少し冷やしたほうがいいわね」

「……」

「あのコだって。まさかあなたがこの世界から身を退くことを望んでるわけじゃないでしょう?」

 平澤。

 平澤はどうなんだろう。そういえばちゃんと聞いたことなかったな。

「冷静になりなさい」

「冷静なつもりだよ」

 俺は、ね。

「アキさん、そろそろ行かないと」

 隣から目茶苦茶動揺した声が聞こえてきた。品川のほうが俺よりずっと狼狽えている。

 頷いて立ち上がった。

 見下ろしたレイさんの顔に疲れが見えた。毅然としているけれど。それでも隠しようのない徒労感が見える。俺の所為?

 だけどこっちだって人形じゃないんだ。ちゃんと意志を持ってるんだ。どれほどダメだと言われても。できないものはできないのだ。



「映画。ね……」

 後部座席で呟く俺に、品川が反応した。

「アキさん。まじで蹴るつもりなんっすか?」

「……」

 レイさんの前ではついムキになってしまっていたけれど。

 全く惹かれなかったわけじゃない。

 あの山田監督作品なのだ。

 自分の中の芯の部分が。敏感に反応してる。好奇心を刺激されてる。

─── 自分でもよくわかってるくせに。

─── あなた、出るわよ、この映画。というか。出たいはずよね、そうでしょう?

 くそう。

 きりっと。親指を噛んでいた。ガキみてえ。

 半分以上はレイさんの言うとおりだ。だけど何でなんだ。俺はいつからこっちの世界にどっぷり浸かるような人間になってしまったんだ。

 悔しかった。

 他人の思い通りになんか。

 動きたくないんだよ。

 自分を見失いたくない。

「佐藤君」

「うん」

「これ。見た?」

 平澤が。制服を着たまま鞄を探ってる。

 今日はホテルなんかじゃなくて。俺んち。祖父もいるよ。平澤が制服を脱いでいないのはだからってわけでもないんだけど。

「じゃ、じゃーん」

と。もったいぶって開いた雑誌には見たことある男の写真。片面顔のどアップで。もう片面は全身が映ってる。

 って。俺だよ。

「何だよ」

「え。Aki、だよ? かっこいいでしょ?」

「じゃなくて。何でそんなもん買ってんだよ」

「えー。だって。買うよ。こういうのちゃんと切り抜いてファイルしてるんだから」

「は?」

はいい? 「マジで? マジでそんなことしてんの?」

目が点になった。平澤と話してるとしょっちゅうこんな風になる。目が、点。

「うん。してる」

自慢そうににっこり笑うと平澤はその雑誌に視線を落とした。

「そんなことする必要、ある?」

ホンモノを、いつだって見られるのに?

「だって。これはモデルのAkiだもの。あたし、ファンなの」

「え。じゃあ、こいつは?」

何だか焦って自分を指差し訊いてみた。

「それは佐藤君、でしょ?」

「違うの?」

「うーん。違わない気もするけど」

平澤は首を傾げてる。「でも、やっぱ、何か違うかな」

 思わず平澤の横に並んで一緒に雑誌を覗き込んだ。いや。フリをしただけ。ついつい髪に触れたり、頬に唇を寄せたりしてる。なんか。ただのスケベなオヤジみたいだな。

 平澤はくすぐったそうに。首を竦めてる。でも笑ってるのかな。頬に。えくぼが見えている。

「そいつと俺と、どっちが本命?」

髪に唇を当てたまま訊くと、平澤はくすくす笑った。

「変なの」

「変?」

 こちらに顔を向けて言う。

「本気で心配してるみたい、だよ?」

 笑う平澤の顎のあたりで髪が揺れていた。垂れた目尻も。浮かぶえくぼも。全てが愛しい。

 込み上げてくる感情をどんな風に表現したらいいのかわからない。

 ただ。幸せだなと思った。

 平澤とこうしていられる時間は例え僅かであったとしても。

 本当に。

 幸福な時間なのだ。