No.8-3
「いや、謝らなくてもいいんだけどさ。こっちだって、何もずっとフリーだったってわけでもないし」
とりなすように言ったけど。平澤は青い顔で黙りこくってしまった。沈黙が重い。ずしんと頭の上からのしかかる。
オフが終わったら、もうなかなか会えなくなる。だから今日は喧嘩とかそういうの一切なしで過ごしたかったのに。いつでもここに平澤が来られるように、合鍵を渡そう、とか、ちょっと口では言えないようないやらしいことを試してみよう、とか、色々たくさん、考えてたんだけどな。うまくいかねえな。
「後悔、してんの?」
長く重い沈黙のあと、もうパスタも残り僅かになった頃、ようやく口を開いて訊ねてみた。平澤が驚いた目をこちらに向ける。
よくよく考えてみれば、向こうは医者だ。あんまり話したことはないけど優秀なドクターって感じはしたよ。あらゆる意味で自信に溢れた男だった。
平澤の気持ちとは別のところで、結婚相手として考えたなら、明らかに条件ってやつが、こっちより数段いい気はする。こういういじけた考え方は、ほんとはあんまりしたくないんだけどさ。
この前会ったときの、むっつり唇をへの字に曲げた、平澤の父親の顔が思い出されて仕方ない。例えば相手が速水だったら。あの父親だって。きっと手放しで歓迎したに違いない。
だから。平澤が自分の選択を後悔してたとしても── 。
平澤が泣きそうな顔を横に振った。
「そういうこと、言いたかったわけじゃないの」
「じゃあ、何?」
どうしてこんな問い詰めるような訊き方しかできないんだろう。もっと。大人になりたいと思ってるのに。
「佐藤君にさっき、何泣いてるのかって訊かれて、あたし、何も答えられなくて。だけど、佐藤君、それ以上訊いてこなかったでしょ? ちゃんと、説明しなきゃと思ったの」
「……そう」
「あたし、後悔なんかしてないよ。佐藤君からおじいさんの散骨のことで電話がかかってきたとき、もうその瞬間に決めてたもの。速水先生にちゃんと断ろうって。佐藤君とどうなるかわからないけど。ちゃんと断ってから佐藤君と会おうって」
「……平澤」
「速水先生のことは好きだったけど。でも違うの。佐藤君への好きとは全然違うの」
思わず手を伸ばし、平澤の頬に当てていた。親指で涙を拭うと、くすぐったそうに左目を細めた。いつもの平澤の仕草だ。
「ごめ、ん。泣かせるつもりなんかなかったのに」
って。いつもこうだよ。
「怒らないで」
「怒ってないよ」
「嘘。佐藤君、怒ってる」
平澤はこちらの手を握ると、歪みそうな唇をきゅっと閉じた。これ以上は泣くまいという風に。奥歯を噛みしめた。
椅子から腰を上げて、平澤の傍に立った。平澤の頭を抱きしめると、平澤の腕がこちらの腰へぎゅっと回された。コドモみたいだと思った。
「あたし、佐藤君にあたしのいろんなこと知っててほしかったの。だけど、佐藤君が聞きたくないならもう言わないから」
「平澤」
くぐもった平澤の必死な声を聞いてると、愛しさと同時に、なんつーか、自分の懐の狭さを改めて自覚させられて自己嫌悪に陥った。
ダメだな俺は。
何にも変わってない。成長してない。
そして。
これは九年も平澤のことを放っておいた罰なんだろうな、と思った。
速水の存在は。そういうことなんだろう。