No.2-1~8 | アキヨシとカレン  ・・・少女漫画風恋愛小説・・・

No.2-1~8

 クリーム色の幅広いドアを開く。それはとても軽く、すうっと開く。

 どかどかと。足音も激しく病室に入った。

「何だよ、あれはっ」

入るなりドアの向こうを指差し言った。「あの頭いっぱいお花畑みたいな、あの男はいったい何なんだっ。ほんとにあいつ、あいつが─── 」

そこで言葉に詰まった。いきなり尻すぼみに小さな声になる。

「……ほんとにあいつが。俺の父親、なのかよ?」

 祖父と平澤は怒り狂った俺に暫しきょとんとしていた。が、すぐに正気に戻る。

「佐藤君、顔、真っ赤」

小さく平澤が言うのが聞こえた。ああ。赤いだろうよ。怒りと羞恥で頭に血がのぼってんだからな。

「なあ、どうなんだよっ」

 ふうっと。祖父が大きく嘆息した。

「残念ながら。……事実だ」

 残念ながら、って。

「嘘だろう」

 悄然と項垂れた。

 あれが。

 あれが俺の父親。

 うわーっと。発狂したみたいに首を横に振った。

「信じらんねえよ。何だよ、あれは。俺、あんな大人見たことねえぞ。何で、何で、あんなことになってんだ」

「昔は神経質な子供だったんだが……」

「神経質っ?」

ばっと反応し顔を上げた。有り得ない。あの男にこれ程遠い言葉もないだろう。

 口に出し言いたい放題に言うと、そうだな、と、祖父は微笑んだ。何が嬉しいのか、昔を懐かしむような顔になった。

 平澤が。小さな目をくりくりさせてこちらの顔を覗き込む。大丈夫? と、そういう顔。全然大丈夫じゃねえよ、と。目だけで返す。ありゃりゃと。平澤の口許が動いた。

 平澤の頭も。少しだけ花が舞っている。

「小さな物音ひとつに怯えるような子供だったな。手に泥がつけばすぐ水道で洗い流すような。クレヨンの汚れひとつを気にするような。男のコのくせにこれでいいのかと、わたしも当時はずい分悩んだよ。それが。気づいたらあんなとんでもない人間になっていた」

そう言ってから祖父は苦く笑った。「ちょうどあいつの成長過程と、わたしの仕事が忙しい時期とが一緒で、栄子ひとりに子育てを任せていたからな。何であんな風になったのかはわたしにもわからない。だが。わたしも悪かったんだ」

 そんなに。

 と。平澤が遠慮がちに口を挟んだ。

「そんなに悪いひとには見えなかったんですけど」

 な。

 何を呑気なーーっ。

 祖父もまたそれを請け合う。

「ああ。まあ悪い人間というわけではないんだ。ただ、何と言うか。だらしのないとこが多分にある。大学を出てからも定職を持たずぶらぶらして、今でこそそういう人間は多くなったが二十年前だと、もう近所でも有名な異端児あつかいだった。社宅に住んでいたということもあるし、わたしも古い人間だから。ずい分衝突したもんだ」

 衝突?

「衝突って。あの男とぶつかり合うことなんかできんのかよ。想像もつかねえぞ。どうせ暖簾に腕押し、糠に釘だろ」

「まあ、それはそうなんだが」

「─── 佐藤さん」

薄いピンク色の服を着た看護師が顔を覗かせた。初めてここへ来た日に落ち着いた感じで対処してくれたあの中年の女性看護師だ。

「あ。お孫さんもいらっしゃるわね。ちょうどよかったわ。先生がお話があるそうですよ」

 話。

 ぴりりと反応するこちらをよそに、祖父は平然とした顔で、

「ああ。そうですか」

と頷いている。「息子も来てるんですが。一緒にいいですか?」

「あら。息子さん、いらっしゃるの? お孫さんとふたり暮らしだって聞いてましたけど」

 看護師が怪訝な顔になる。祖父は困ったような顔を作って見せた。

「お恥ずかしい話なんですが、事情があって、孫と息子は別々に暮らしてましてね。ですがわたしが入院となったら報せないわけにもいかないので」

「あら、まあ。そうなんですか」

 看護師は神妙な顔で、一緒でも構いませんよと言い、祖父に車椅子は必要かと訊ねた。祖父はいえ結構です歩けます、と答えている。気丈夫だな。だけどそれと身体とは別な話だ。ほんとに大丈夫なのかよと心配になる。

 祖父がベッドから降りたところであの男がふらりと部屋に戻ってきた。

「あれ? 親父、どうしたの? もう家に帰れんの?」

 どこまでも平和でマヌケな男だな。

 看護師が笑いながら男に説明を始めた。

「佐藤君」

平澤がそっと話しかけてきた。大人たちの会話の隅で。こそこそとふたりで話をした。

「あたし、帰ったほうがよくない?」

「は? なんで?」

「だって。お父さんとまだ話があるんじゃないの? 家族水入らずのほうがよくなあい?」

「ない。いろよ。ってか、いてほしいんだけど」

 こちらの言葉に平澤は少し考えてから、

「うん。じゃあ、いる」

と言った。頬が少し赤く染まってる。あれ? いてほしいって言葉に反応してんの?

と。

「あー。えーと。初めまして」

いきなり横槍が入った。「明良の父です。佐藤紀史のりふみといいます

あんぐりと。呆気にとられる俺には気づかない。男はにっこり微笑むと平澤に右手を差し出した。

「君、名前は?」

「あ……」

平澤は俺の顔をちらりと見てから男に答えた。「平澤といいます。あの、佐藤君とは同じクラスで……」

「平澤? 平澤何さん?」

 俺は、はあ? と目を見開いた。

 男は。平澤の手を取り勝手に握手なんかしちゃってる。平澤は明らかに戸惑ってるし、俺はその手を睨みつけたけど、男のほうはそんな細かいこと気にしちゃいないんだ。

「……かれん、です」

「かれん?」

男は大袈裟に眉を上げ、くしゃりと相好を崩した。途端、コドモみたいな顔になる。俺の父親って年齢には見えない顔。こいつが俺の父親だなんて。どう転んでも信じられない。絶対何かの間違いだ。

「かれんかあ。可愛い名前だね。いいね。すごく似合ってる」

 平澤の顔が真っ赤になった。真っ赤になったまま吸い寄せられるように男の顔を見返している。

 だーーっ。

 ダメだダメだダメだ。平澤。そういう男にころりと参ってんじゃない。

 未だ握り合ってる手と手を引き離そうと一歩踏み出したそのとき。

 ぽかりと。祖父の拳固が男の後ろ頭に命中した。

「ばかもんが」

「あったーっ……。何だよー。俺はただ挨拶を」

「平澤さんは明良のガールフレンドだぞ。お前は女と見れば見境がない」

「見境がないとは失礼だな。好みはあるんだ。可愛くないコには話しかけないよ」

ね、かれんちゃん。

 なあんて言ってるし。

 か。

 かれんちゃんっ?

 うわあ。マジで全身鳥肌立った。馴れなれし過ぎだ、この男。

 ぶすっとした顔で、祖父とその息子の後ろをついて歩いた。気にいらねえよなあ、この男。なんて睨みをきかせつつ。

「佐藤君」

「あ?」

「あたし、出かけてくるね。帰るとき、ケータイに電話して」

小さく話しかけてくる平澤に、俺はむっとした顔のまま頷いた。



 医者の説明はわかるようでよくわからないものだった。

 祖父は元々不整脈のうちの頻脈という病気を持っていて。でもそれは本人が苦しくなければ全然治療の必要のないもので。祖父も昔はそうだったんだけど。最近になって症状が出始めたと。そういうことらしかった。

「明日か明後日には退院されて結構ですよ。お正月は自宅で迎えたいでしょう」

 のほほんとした口調で言う医者。

 口を半開きにし。言われるまま一方的に聞いていたけれど。

「え。ほんとに? ほんとにもう退院できんの?」

もしかして俺、騙されてない? なんて。つい。懐疑的になってしまった。周りはみんな大人ばかりだから。本当は心臓の癌か何かで、だけどコドモの俺には知らせまいと。実は色々口裏合わせてんじゃねえのって。そう思った。つーか。心臓に癌なんかできんのか?

「何だ、明良。不満なのか?」

「あら。おじいさんにもう少し病院にいてほしかったの?」

 そう聞かれて。

「そんなはずねえじゃん」

と不貞腐れ気味に呟いた。

 そんなわけない。

 だけど。あの日の朝の。色をうしなった祖父の顔を思い出すと。本当に家に連れて帰っていいものかどうかわかんなくなってくる。

 また発作が起こったらどうするんだ。

 例えば俺が仕事に行ってる間とか。学校だってそのうち始まるんだぞ。

「心配性だな」

「心配、するよ」

「そんな簡単にはくたばらない」

「くたばる、とか言うな」

 小さな声で口喧嘩する俺と祖父を微笑ましそうに見る看護師と医師。

 その隅で。俺の父親である男はずっと黙ったままでいた。案外真面目な顔で。茶化すことなく。医師の話を聞いていた。



「じゃあ。俺はこれで」

 男は部屋を出るなりそう言って右手を挙げた。あっさりしたもんだ。

「じゃあな、明良。またな」

「……」

 俺はちらりと視線を合わせただけで何も言わなかった。いや、言えなかったんだ。何でだろうな。言葉ってやつが容易には出てこなかった。

「親父も。また何かあったら連絡して。いや、こんな、入院とか、そんな話じゃないときでもさ」

「ああ。そうだな」

 祖父がこちらの顔を窺うようにして見ているのも。痛いくらいわかったけど。それさえシカトしてた。

 艶々に磨き上げられたクリーム色の床の上をぺたぺた歩く男の足。ぼうっと見つめていただけだ。エレベーターの昇降口がある角を曲がって消えるまで。ただ見ていただけだった。



「明良」

祖父が、ベッドに横たわりながら俺の名を呼んだ。声に何がしかの意味合いが含まれている気がして身構えた。

「何?」

「すまなかったな。突然自分の父親に会って、お前も驚いたんだろう」

「うん。……いや、それもそうなんだけど。あの人柄に更に驚かされたっつーかさ」

 明るく言うと、祖父は弱々しい顔で笑った。

 それ以上こちらが喋らないので病室は何だかしんとなってしまった。帰ろうかどうしようか。正直迷っていた。

 祖父がゆっくりと口を開いた。

「覚えてるか。お前が小学生の頃、何度かわたしがお前に訊いたことを……」

「うん。ちゃんと覚えてるよ」

─── お父さんに会いたくはないか?

 祖父は何度か俺にそう聞いたんだ。

「俺のほうがあのひとに会うことを嫌がってたんだ。中学生になってからは、もう聞くなよ、何度言わせんだよってつっかかったんだよな。……よく。よく覚えてるよ」

「そうか……」

 だから何だって言うんだ。

 あいつが。いや、あいつらが。俺を捨てたことに変わりはないじゃないか。

─── これから先も。言うつもりはない。

 ぐっと。喉元に込み上げてくるものがあった。顔が歪みそうになる。醜く。

「俺、帰るよ。平澤待たせてるし。明日また来るから」

 早口に言って立とうとした俺の手首を祖父の手が掴んだ。強く。六十過ぎた病人の手とは思えない力だった。その手や指は痩せて節くれだっていて、驚くぐらい細いのに。

「何?」

「座りなさい。話しておきたいことがある」

「何の話だよ」

「いいから聞きなさい。明良ももう十六だ。今日父親と顔を合わせたのもひとつのきっかけだろう。そろそろちゃんとした話をしてもいい時期だと、そういうことだ」

「何だよ、それ。勝手に決めつけんなよ」

「明良」

 祖父に諌められ俺は中腰だった尻を渋々座面に落とした。

 祖父は膨れっ面のままのこちらをよそに、昔を思い出すような、どこか遠くを見る目になって話し始めた。

 あの紀史という男が大学を出てもちゃんとした職に就かなかったこと。それがこの話のハジマリだ。やっぱサイテーな男なんだよな、あいつは。

 そう。そんないい加減な男だったにもかかわらず、どういうわけか紀史は女にモテた。─── まあ。何となく。それは納得できるんだ。女はああいうタイプに弱いんだ。─── 大学を出てから暫く経つと、当時仕事の都合で地方にいた祖父母からの仕送りを断たれた紀史は、金も住むところもなく忽ち困窮し、女の家を転々として暮らすようになったのだという。俺の母親と暮らすようになったのもそういう流れのひとつだったのだ。そうして。同棲中のふたりに子供ができた。それが俺。

 え? 俺? 俺ってそんな風にできた子供だったわけ。いい加減の象徴の極みみたいなもんじゃん。

 いや。何も祖父がそういう露骨な話し方をしたわけじゃない。祖父はもっとソフトに真綿でくるみ、宝物を扱うみたいに丁寧に、昔話をしてくれたんだけど。俺の頭で変換するとそうなった。

 俺ができてからのあいつは心を入れ替えて、小さな会社ではあったけれど正社員として働くようになった。らしい。だけど。それも長くはつづかなかった。やっぱりあいつは筋金入りのロクデナシだ。

 綺麗なひとだったよ。と祖父は言う。

 俺の母親だった女のことだ。

 ハーフだった女は本当に綺麗で。英語にも日本語にも長けていて。俺がお腹にいる間も産まれてからも、翻訳の仕事をしたりツテを辿って通訳の仕事をしたり。頼りにならない夫のことなどさして当てにもせず。それはそれは立派な母であり、一家の柱であったのだという。

 紀史に愛想を尽かすのはまあ時間の問題だったというわけだ。愛に冷めてしまった女は俺を連れて自分の両親のいる祖国へととっとと帰ってしまった。

 そのあとのことは。

 祖父にもよくわからないのだと言った。

 どうして俺が母親の元を離れ向こうの祖父に育てられていたのか。

「再婚した当初は一緒に暮らしていたはずなんだが……」

─── A poor child.

 すうっと。血の気の引く音がした。

 俺は。その頃のことをぼんやりとだけど。覚えていた。薄闇のなかで手探りで歩くみたいに。時折。頭を掠める記憶。

─── What a poor boy.

 その頃。母方の祖父に預けられていた頃。

 俺は祖父の知人が遣って来るたびそんな風に言われていた。

 何てかわいそうな子供なんだと。

 哀れまれていた。

「俺、新しい父親と折り合いが悪かったんだってさ」

 祖父はこちらを見ないままに問うてきた。

「そのことを、明良自身は覚えているのか?」

 まさか。

「いや、全然。だけど。周りの大人たちの話で、何となくわかった」

「そうか……」

 そう。

 大人は子供を見縊っている。何を言ってもわからないと思ってやがる。

 哀れまれる度。惨めになった。

─── The boy whom his parents did not take care of and left.
 じっと。俯き。自分の掌を見ていた。あの頃。俺の掌はどうだった。いまよりもっとずっと小さかったはずだ。その手を放したのは。誰だ。

「明良」

「何?」

「お前がわたしのところへ来ることになったとき。わたしはずい分悩んだんだ。本当の父親と暮らしたほうがいいのかどうか。いや、それが一番いいのはわかっていた。ただ紀史にはもう新しい家庭ができていたし、あいつにしては珍しく落ち着いていたんだ。紀史はお前を引き取りたがったが、お前はお前で父親に会いたくないと言い張った。……色々考えて。暫く自分が面倒を見ようと、そう決めたんだ」

─── いや、知らないよ。これから先も。言うつもりはない。

 しれっと言った。あの男の顔。

「……だから?」 

「だから。お前の父親と母親を恨んだりしてはいけない」

「別に。恨んでなんかいねえよ」

「誰もお前を蔑ろにはしていない」

「……」

 そうだろうか。そうは思えなかった。現に母親は。自分の父親が死んだあとでさえ、俺を日本の祖父に押しつけてしまったではないか。葬儀のときに会ったらしいが。俺はその輪郭すら思い出せないのだ。

「どれだけ離れて暮らしていたって。子供のことを気にかけない親はいないんだぞ、明良」

「どうかな……」

わざとらしく首を傾げて口許を歪めた。醜い顔で笑ってんだろうな、俺。

「明良……」

「何?」

 祖父は。顔をこちらへ向けた。真摯な目をしていた。

「紀史と。……お前の父親と、一度一緒に暮らしてみないか?」

─── 。

 心臓が。凍りついていた。

 束の間祖父の顔をじっと見入っていた。

 硬く強張る唇を動かす。

「なんだ。あんたも結局俺を捨てんのか」

 聞こえてきたのは。冷たい氷塊のような声だった。

 言った途端。もう後悔していた。

 祖父を。

 八歳のときから。ここまで育ててくれた祖父を。

 あんた呼ばわりしてしまった。

 それから。

 捨てるなんて情けない言葉を。

 口にした。

 俺は可哀相な子供なんかじゃないと。あれほど自分に言い聞かせてきたのに。ふたりの祖父は俺を心から大切に育ててくれたと、育ててくれていると。いまでもちゃんと思っているのに。

 祖父の顔に悲しみが広がるのがわかった。深い深い悲しみの色だ。

 視線を逸らした。

 胸が痛い。

 恥辱と。悔恨と。

「明良」

「違う」

首を横に振った。「いまのは違う。本心じゃない」

 火で炙られてるみたいに頬が火照った。

 もう何が何だかよくわからなくなっていた。

「明良、誰もお前を捨ててなどいない。わたしは、三人で、あのマンションで暮らさないかと言ってるんだ。紀史が、こっちにいる間だけでもいいじゃないか。いや、お前が嫌だと言うのなら、無理強いはしない」

「……」

 祖父の言いたいことはわかるけれど。何しろ俺は自分の失言のことで頭がいっぱいだった。額に冷や汗が滲む。混乱していた。

 平澤は今頃何をしてるだろうか。

 猛烈に。平澤に会いたかった。

 顎の震えを、きつく奥歯を噛むことで何とか止めた。

「無理だと、思うよ」

「……」

「あの男。俺たちとは一緒に暮らさないだろ」

「どうしてそう思うんだ」

「俺のこと。向こうの家族に話すつもりはないって言ってた」

─── 言うつもりもない。

 あのとき。

 俺は。

 自分の存在を全否定はされた気がしたのだ。