No.5-2
わたしは俯いた。
本当はちゃんとごめんなさいと言いたかった。
でも。上手く言えない。それに謝ったりしたら。よけい先生を傷つけるだけだろう。
先生に惹かれ始めていたのは本当だ。もし。佐藤君からの連絡がなければ。わたしは今頃、先生との結婚を決めていたに違いない。佐藤君への思いを。胸の奥に仕舞ったままで。
先生もそういうこちらの気持ちに気づいていたはずだ。
期待させてしまった─── 。
「まだ佐藤明良とは会ってないんだろう?」
わたしは俯いたまま首を縦に振った。
「やめとけ、平澤」
静かで。真摯な声だった。本当にこちらのことを思って言ってくれてるのが、痛いくらい、わかる声。
「あの男はやめとけ、平澤」
わたしは何も答えなかった。
「悪い奴じゃないっていうのはわかるよ。何度か話したこともある。きちんとした印象の男だった。あの佐藤さんに育てられたんだからな。ガキ臭いとこはあったけど、しっかりしてる」
そこまで言ってから先生は一旦口を噤んだ。指を首の辺りにもっていき、ネクタイを緩め、コーヒーをひとくち口に含んだ。そうしてから、また話始めた。
「俺は昔の平澤とあの男のことを全然知らないからな。平澤にとってのあの男が、どんな存在なのか、俺にはわからない。だけど、芸能人なんだぞ? 近くで見ても圧倒されるほど綺麗な男だったよ。華やかっていうんだろうな。とても平澤の手に負えるような男だとは思えなかったね」
「……」
「高校生の頃のあいつがどんなに誠実なやつだったとしても、でも、結局別れたんだろう? なのに今更どの面下げて電話なんかかけてくるんだ。……こんなことは言いたくないけどな、ちょっと昔の女に会って、アソんでやろうとか、その程度のもんだったらどうするんだ? 仮にそうじゃなかったとしても、芸能人となんかつき合ったって、ロクなことにはならねえよ。断言してもいい。俺は……」
わたしはそっと顔を上げ、先生の顔を見た。
「俺は平澤が泣くとこなんか見たくねえんだよ」
拗ねたような口調で言った。先生のわたしへの気持ちはわかる。嬉しい。でも─── 。
「……です」
「……何?」
「いい、んです」
「いい?」
先生が怪訝な顔で訊き返す。わたしは、はい、とうなずいた。
「いいって何だ」
「たとえ泣くことになっても。あたし、それでも、いいんです」
声が震える。睫も。小刻みに震えてる。殆ど。泣いてるのと変わりない状態だった。
先生は黙り込んでしまった。きっと。呆れてるんだろう。バカな女だと思われてるに違いない。
夜のカフェは静かだ。アルコールと煙草の匂い。天井を這うように流れる音楽。こんな時間にこんなお店でコーヒーを飲んでるのなんて。わたしと先生くらいのものだ。
「バカだな、平澤は……」
ほら。やっぱり呆れられてる。でも。いいんだ。もう決めたから。
「先生」
「何だ」
「あたし、高校生の時に、佐藤君の事務所の社長に呼び出されたことがあったんです。ほら、この前、佐藤君のおじいさんの葬儀の時にいたでしょう? あの背の高い女の人」
「……」
「佐藤君と別れてほしいって、そう言われました。それが佐藤君の為でもあるし、ふたりの為でもあるって言われて。あたし、悩んで、でも納得して、佐藤君と別れました。前に先生はあたしのほうが捨てられたって言ったけど。でも違うんです。あたしのほうから別れようって言ったんです」
速水先生の表情は変わらない。冷めたような、呆れたような目で。こちらを見てる。
「自分のしたことは間違ってなかったって。それは今でも自信を持って言えます。あの時は辛かったし佐藤君のことも傷つけたけど。でも、佐藤君の為にはなったって。それは今でも思ってます」
でも。
「……」
「だけど、正しいことをしたからって、後悔してないとは言えない。あたし、あの時の自分の選択をずっと後悔してました。どうしてあんなに簡単に別れちゃったんだろうって。もっとちゃんと自分の気持ちに正直になればよかったって。佐藤君の為にならなくても、相手のこと嫌いになるまで、どちらかに他に好きな人ができるまで。普通のコイビト同士のように、みっともなくてもいいからとことんまでつき合えばよかったって。いつもどこかでそう思ってました」
「……」
「もう、後悔したくないんです」