No.2-1~2
廊下のベンチにひとりぽつんと座る俺の前に。ペットボトルが差し出された。
青いラベルに“AQUARIUS”の白い文字。
頭を上げるとものすごく有名な俳優さんがこちらを見下ろしていてぎょっとした。うわっと。思わず背筋が伸びる。露骨だな、俺も。
「大変でしょう。初めてのお芝居があの監督じゃ」
にこやかな笑み。
さっきは。監督と一緒に渋い顔、してたのに。
稽古中じゃないときは。ころっと態度が変わるんだな。
「いえ……」
確かに大変。だけど。口には出さない。
ありがとうございますと頭を下げて、ペットボトルを受け取った。
「大変だけど。すごく勉強になると思うから。負けないで頑張りなさい」
男は隣には座らず、こちらにくれたのと同じ飲み物を口に含んだ。こっちは。ペットボトルの蓋を開ける気力もなかった。正直気持ちはぼろぼろだ。自尊心とかそういうの。俺にも一応あったらしいそういうもんが。そりゃもうずたぼろ。
「君ね。発声、頑張る気があるんだったらもう少し腹筋鍛えたほうがいいね。若いんだから。いくらだって出来るでしょう? それからもう一回ちゃんとした訓練受けなおしたほうがいいと思うよ。コツっていうものもあるんだから。このままだと喉、潰れるよ。それから。身体も柔らかいに越したことはないから。ストレッチもつづけたほうがいい。君、いま人気あるから忙しいかもしれないけど。ずっとこの世界で生きていく気があるんだったら。そういうの、大事だよ」
唇をきゅっと噛み頷いた。
言われてることがあまりにも基本的なこと過ぎて。顔が火照る。
「まあ、あまり落ち込まないようにね。みんな通ってきた道なんだから」
俳優さんは優しい声でそう言うと、別の女優さんにやあやあと声をかけ、こちらの前から姿を消した。
─── ど素人っ。
監督の声がまだ耳に残ってる。
その通り。
俺はドシロウトだよ。初心者だもん。
だけどそっちだって。知ってて指名、したんじゃねえのって話だよ。
くそう。
八つ当たりするみたいにペットボトルの蓋をきつく捻った。
─── 間が悪いんだよっ。間がっ。何度言ったらわかんだよっ。センスねえなあ、ったくよう。
─── 他の役者の一挙手一投足見てみろっ。みんな生きてるだろうがよっ。お前のはただの人形だっ。そりゃ芝居とは言わねえんだよっ。
─── ぼけっ。かすっ。ああ、もう、やる気がないならやめちまえっ。
思い余って睨み返したら。
─── なんだあ、その目は。
とすごまれた。やっちゃんみたいに怖かった。
怒鳴られれば怒鳴られるほど。どうすりゃいいのかわかんなくなる。
なんか。泣けてきそうだよ。
この仕事に就いて。初めてだな。こういうの。
みんな通てきた道って。さっきの役者さん、そう言ったけど。じゃあ、いつか俺もなれるのか。素人じゃない。生きてる役者に。他のみんなみたいに。本当になれるのか。
スポーツドリンクが。喉を通り身体に浸透していく。
蓋を閉め立ち上がった。
首に巻いたタオルで顔を拭う。
やめる気ないんだったらやるしかねえじゃんって。そういう話なんだよな。結局ね。
運転席の品川は、今夜はとても大人しい。
芝居の稽古のあとはいつもこんな感じなんだ。
普段はうるさいくらいよく喋るくせに。それだけ俺の落ち込みようがひどいってことかね。
品川は立ち稽古につき合ったりはしないけど。でも。こちらの表情で、初心者の俺がどんな目にあってるのかはさすがに察するところがあるんだろう。
ぼんやりと後ろから。運転席に座る品川のいがぐり頭に目を当てていた。
平澤は今頃何をしてるだろうか。
塾の日だったっけ今日は。どうだったかな。わかんねえな、もう。ここんとこ、あんまりゆっくり話もしてねえからさ。
このままマンションの部屋に帰ったら。平澤が居ればいいのにと。最近はそんなことを思うようになった。
もういっそ。学生結婚しちゃおうか。なんつって。
そしたら学校、辞めたっていいや。あ。平澤は勉強できるから。それはなし。
じいさんと三人で暮らすのも悪くないけど。別に部屋を借りたいね。家賃を払えるくらいの、ふたりで生活できるくらいの収入はちゃんとある。
平澤があのふっくらした頬にえくぼを刻んで、おかえりなさいって、そう言ってくれるだけで、辛いことなんか吹き飛んでいくんだ。絶対だ。
平澤の学費はどうしようか。
平澤は大学、医学部狙ってるみたいだし。ハンパじゃないお金がかかるな。もっと働かないと、いけない?
っつーか。
俺。まだ十八歳にもなってないし。日本の法律じゃ結婚は無理。
それに。
あの平澤のお父さんに、お嬢さんをくださいなんて。言おうものならどうなることか。
怖いね。
鬼監督とおんなじくらい。いやそれ以上。怖いや。
だけど。
高校卒業したら。まじで一緒に暮らしたい。結構本気。
無理?
そんなこと口にしたら。周りの人間はみんな一笑に付すだろうな。若いくせに何言ってんだって。青臭いって。バカにされるに決まってる。
だけど構わない。
平澤が首を縦に振ってくれればそれだけでいいんだ。他のやつらは関係ない。全然。関係ない。それにもうひとり。じいさんだって。ダメだとは言わないはず。もしかしたら応援してくれるかも。
「─── アキさん」
「あ?」
「寝てるんですか?」
「……寝てねえよ」
「大人しいから。寝てるのかと思いましたよ」
「あー、そ……」
「もうじき着きますからね。起きててくださいね」
「わかってるって」
車の窓にこつんと側頭部を当てた。そこここで煌びやかな色が瞬いている。
都会の夜は明るいね。今更だけど。そう思う。