No.5-1~7
刹那、心臓が止まるかと思った。
平澤の腕が。こちらの身体に回されている。
平澤の体温が。背中側から伝わってくる。
熱い。
「平澤」
ゆっくりと後ろを見た。平澤のつむじが間近にあった。
「もう」
「……」
「もう、ダメかと、思ってた。もう佐藤君、一生口利いてくれないんじゃないかって……」
泣いてるみたいな声だった。胸が痛い。こんな風に平澤を苦しめてたんだって。今更ながら実感する。嫌になる。
「……や、ほんと、ごめん」
さっきから、謝ることしかできねえの。見捨てないでとか言っちゃうし。すんげえへたれてね?
平澤の腕の力が強くなった。
「平澤は?」
「……何?」
─── さよなら。
「さよならって。……言ったろ?」
「あれは」
「あれは?」
「あれは勢いで言っちゃってたんだもん。だって、佐藤君が、あんなこと言うから」
はは。と笑った。やっぱ、謝るしかねえの。
「ごめん、な」
平澤がぴたりとくっついてくる。
おそらく。
下着をつけてないだろう胸が。こちらの背中の、肋骨からつづく、ちょう度肉の薄い骨の辺りに当たって、……柔らかい。
やばい。
「平澤」
回された腕を外そうと手を当てた。「俺、ほんと、そろそろ帰るよ」
「だめ」
「だめ、って」
「いや、だめ、まだ帰んないで」
平澤が顔を上げ、見つめてくる。「今日、もう仕事ないんでしょ? どうして帰っちゃうの? おかあさん、言ってたじゃん、ご飯食べてってって」
「や、でも」
さっき。階段の下で会話を交わした平澤のお父さんの顔が頭を過ぎった。
多分、こちらの様子が気になって仕方ないだろう、落ち着かない平澤のお父さんの姿が、容易に想像できるんだ。
「ね、おかあさんに、言ってもいいでしょ? 佐藤君、ここでご飯食べてくって」
平澤が潤んだ瞳で見つめてくる。きっと熱の所為。そんな顔で見つめられたら。断りきれない。
「平澤」
「なあに?」
「さっきさ。平澤のお母さんが言ってた。平澤、熱が出るとわがままになるって。ほんとだな」
に、っと笑うと、平澤が唇を尖らせた。熱で赤い頬が、更に赤く染まった。
「そんなことないもん」
「……いるよ。もうちょっとだけな」
「ほんと?」
ぱっと顔が輝く。回した腕は外れない。柔らかい胸が当たって、そこにばかり神経が集中してしまう。どうにかしてほしい。
間近で見つめあった。にっこりと平澤が微笑む。えくぼが見えた。可愛い。
たまらなくなって、ちゅっと、音を立ててそこに唇を当てた。
平澤の腕の力がさらにきつくなる。目尻に。こめかみに。額に。キスをした。
そのまま唇にも。軽く。向かい合う形になり、自然に平澤の腕が解けていた。
「おかあさんに、言うね」
頬を上気させたまま言う。軽く頷いた。
平澤は少しだるそうにベッドから降りると、机の隅にある子機を手に取り、お母さんと話を始めた。
平澤の抜け出た布団から。少しだけ平澤の匂いがする。甘い体臭。パジャマの胸元はボタンがふたつ外れてはだけてるし。平澤、わかってんのかな、そういうの。
お父さん、何か言ってた? って。平澤が訊いていた。ぴくりと。こちらも反応してしまってた。耳が大きくなる。
「うん。うん。いいけど。……邪魔しに来ないでって言っといてね」
え?
うわ。なんちゅう大胆なことを。思わず平澤の顔に視線を遣った。
「平澤……」
電話を切った平澤に愕然とした調子で話しかけると、
「いいの。病気のときはちょっとくらいわがままになっても」
平澤とは思えない強気な姿勢だ。ベッドに戻ってくると、布団に脚を突っ込んだ。ゆっくりと。行動のひとつひとつがひどくだるそうに見えた。
「熱、何度あんの?」
首を傾げてる。
「わかんない。でも、38度くらいはありそう」
「寝てたほうがいいんじゃねえの?」
「うん」
そう言いながらも横にはならない。ヘッドボードに背中を預けて笑ってる。
あんまり近くにいるとおかしな気分になりそうなので、こちらは平澤のお母さんが出してくれた座卓の前へと移動した。ショッキングピンクの縁取りの座卓。
胡坐をくみアイスティーを飲みながら部屋をぐるりと見回した。
昔。小学生のときに一度来た。あのときより数段可愛い感じの部屋になってる。赤やら黄やらオレンジやら黄緑やらピンクやらの明るい色味の散らばった部屋。机の上にはニンテンドーDS Liteがあった。あれって平澤の?
「佐藤君」
「ん?」
「こっち」
平澤がぽんぽんと、ベッドの端っこを叩いた。「どうしてそっちいっちゃうの? こっち。来て?」
え。
思わず固まって平澤の顔を見た。わがままモードの平澤かれん。
頬が赤いんだけど。それが熱の所為なのか照れてる所為なのか。わからない。見分けがつかない。
「う、ん」
応えつつも、視線を逸らしてアイスティーを飲んだ。氷が解けて。少し水っぽくなったアイスティー。なんか落ち着かない。
さっき。平澤の唇にキスしたときに生まれた罪悪感。
昨日、別の女とキスをした。そのことを思い出していた。
だけど、悪いけど。あのことはなかったことにする。平澤には絶対言わねえしバレないようにする。もう決めた。蓋をする。もうこれ以上、平澤の悲しむ顔、見たくないし。泣かせたくなんかない。
「佐藤君?」
ああ。
えくぼが俺を呼んでいる。
なんつって。
「……あのね、平澤さん」
「はい」
「ボタン、上まで留めてもらえると嬉しいんですけど」
「え?」
ストローを口にくわえたまま振り返ると、平澤はきょとんとした顔でこちらを見ていた。それから自分の胸元を見て。慌ててボタンを留め始めた。やっぱ自覚なかったのか。誘われてんのかと、ちらっと思ったりしたんだけどな。
「あんま近くにいくと自信ない。……やばい」
「やばい?」
「下に、家族の人いるのに、な?」
な? って言われても。平澤も困るだろ、っつー話だ。
平澤が咳き込む。
一度咳が出ると立て続けに出るみたいで、苦しそうに何度も肩を揺らした。こっちまで息が詰まる。
「大丈夫かよ」
「だい、じょう、ぶ」
息を継ぎながら言う。
「まじで寝てたほうがいいって」
近寄ってそう言うと、こくん、って頷いた。
喉を潤したいのか真っ赤な顔で身体を伸ばし、机の上のマグカップを取ろうとしてる。こちらが取って手渡した。
「ありがと」
「俺、ほんと、もう帰ったほうがいいんじゃねえの?」
平澤は冷めてしまったしょうが湯を飲みながら首を横に振った。
「やだ、まだ帰んないで。ご飯、頼んじゃったし」
「だけどさ、休めないだろ?」
「……明日も来てほしい」
マグカップに視線を落としたままそんなことを言う。呆れた。こっちの話、聞いてんのかよ、って思った。
「いいけどさ……」
平澤の横に腰を下ろした。「明日も今日くらいの時間になると思うよ。いいの?」
「え? 来てくれるの?」
頷くと、へへへ、と嬉しそうに笑った。身体中の力が抜けそうになる笑顔だ。
マグカップを受け取って机に戻す。
暫く黙ってぼうっと座っていた。
くすっと。真横で平澤が笑いをこぼした。
「何だよ」
「だって。何にもしゃべんないんだもん。おかしくない?」
「平澤、何かしゃべれよ」
肘で突っついた。平澤も突付き返してくる。
「ええー。こういうときは男のコがしゃべってくれないと」
とても近い距離で平澤が笑ってる。平澤の髪の毛がこちらのむき出しの腕に当たる。くすぐったい。
そっと。掌で髪に触れてみた。頬にも。すんげえ熱い。相当熱、上がってるだろうなって思う。
平澤が。「ん?」って顔でこちらを見上げてくる。
やばいよなあ、と思いつつ。そっと。唇を重ねていた。
平澤は拒絶しなかった。むしろ積極的。こちらを誘うみたいに唇を開いてくるんだ。大胆っ、だな、平澤。
熱い。平澤の口腔内はとても熱かった。
病気の平澤とキスしてるって、意識した途端。すんげえいやらしい気持ちに全身を支配された。やばい。血液がぐるぐる身体中を駆け巡って一箇所に集中してくる。
一旦唇を外したのに、平澤のほうからまた寄せてきた。戸惑いつつ、もう一度触れて、
「やばい、って」
そう言った。
「……やばい?」
頬にかかる息が熱い。
頬と耳許に唇を当てた。こちらの息も平澤の吐息も。少し荒くなってる。首筋にも。唇を這わせた。しっとりと汗ばんだ肌にいやらしい気持ちがさらに膨らんだ。
「止まんなくなる……」
「……いい、よ?」
─── 。
絶句。
ほんとかよ。
平澤の身体をぎゅっと抱きしめた。細い肩だな。身体中がふにゃふにゃと柔らかい。たまんないなって思った。
「誰も……」
「え?」
「誰も、……来ない、よ?」
平澤の掠れた声が甘く誘う。
まじで?
やめといたほうがいいって。平澤のお父さん、怖くねえの? って。気弱で優等生な俺が言う。
かまやしないって。娘が邪魔しに来るなって言ったら、父親は絶対来られないもんなんだよ、って。ブラックでケダモノな俺サマが言う。
平澤の腕の力が強くなった。ぎゅっと。
「好き、佐藤君……」
耳許で。平澤が囁いた。ぞくっとするような艶かしい、でも可愛いらしい声なんだ。
そりゃもう呆気なく。優等生な俺は白旗を揚げていた。
平澤の唇をもう一度奪った。
手加減なしで。
口づけた。
唇を。食べ尽くすみたいに貪った。
平澤の、こちらの服を握ってた手が、さすがに震え始めてた。大丈夫?、って気遣う余裕なんかまるでない。
さっき。パジャマのボタンを留めさせた。あれは失敗だったと姑息にも悔やんでた。後悔しながら、胸元に触れた。
平澤が顔をこちらの肩に埋めて抱きついてきた。やっぱ怖いのか。いや、でも、さすがに最後まではしないよって思う。肝心なもの持ってきてないし。何つったって。平澤、病人なんだし。こっちだってそこまでは鬼畜じゃない。
そっと。ぼたんに指をかけた。もたもたと。不器用に外していく。すぐ近くにある赤い唇に。時折口づけながら。
よっつ外しただけで充分だった。
平澤のまっしろな胸の膨らみが、視界を支配した。眩暈がしそうだ。
そっと。掌で包み込む。
柔らかい。
いつも触れているふくよかな頬よりも。ずっとずっと柔らかいんだ。熱くて長い吐息が、首筋にかかった。
ブラックでケダモノな俺様はとっくに姿を消していた。頭はぐちゃぐちゃだった。もう何にも考えられない。
鎖骨のあたりに唇を這わせた。
と。
そのとき。
かれんちゃあん。
と呼ぶ声がした。
多分。階下から。
つづいてどたどたと、階段を駆け上がってくる足音。
平澤の身体が一瞬にして石みたいに固まるのがわかった。
こっちも。
「もういい加減DS返してよねー」
平澤ががばっと、横になり布団を被ったのと、俺が身体の向きをかえ、勢い余ってベッドからずり落ちてしまったのと、平澤の部屋のドアが開いたのとが殆ど同時だった。
平澤よりも背の高い、平澤の妹が目を丸くして立ち尽くしていた。土曜日なのに中等部の制服を着てエナメルのスポーツバックを斜め掛けにしている。部活だったのか?
「や。……ど、どーもー」
片手を挙げて挨拶なんぞ試みてみる。
だけど。こっちがたった今まで何してたかなんて。空気だけで丸わかりだ。
平澤の妹の顔がみるみる真っ赤になるのがわかった。
「ご」
ご?
「ご、ご、ごごごごご、ごめんなさいっ」
言うなりばたんっ、と乱暴にドアが閉じられた。つづいて聞こえてくるのは、
「きゃあー、おかあさーん」
という悲鳴のような声。階段を降りていく足音。
これからどんな会話が階下で繰り広げられるのか。それは考えないことにした。
─── 誰も、……来ない、よ?
「……来たじゃねえかよー」
ぽつりと。立てた膝の間に顔を埋めて呟いた。
布団の中にその身を隠してしまった平澤が、後ろでくつくつと笑っていた。
その後。平澤は疲れたのだろう、すぐに眠ってしまった。
暫くその寝顔を見つめてから部屋を出た。名残り惜しい気持ちはいっぱいで。全く際限がない。
「佐藤君」
リビングの扉を開けると平澤のお母さんがエプロン姿で近づいてきた。
「平澤さん、寝ちゃったのでこれで帰ります」
「あら? かれんったら、寝ちゃったの?」
どこへ行ったのか、平澤のお父さんの姿はリビングにもキッチンにも見当たらなかった。大いに安堵。だけど。平澤の妹はソファに座ってて。怒ったみたいな顔でテレビを睨みつけていた。こちらを見ようともしないんだ。顔、真っ赤になってるし。なんか怒ってる? お姉ちゃんを取られたとか、そんな感じ? もしやこの家は。……敵だらけなのか?
結局、晩ご飯は平澤の家では食べないで持たせてもらった。ハンバーグとサラダと青菜のおひたしと、それからトマト味のスープまで。
ありがとうございます。って。何度も頭を下げてから平澤家をあとにした。
夜。九時を過ぎた頃に平澤からメールが来た。
どうして勝手に帰っちゃうの? だってさ。青筋立てた絵文字つきだ。
思わず笑ってしまった。
今頃起きて何言ってんだよ、って話だ。