No.3-1~2
平澤のうちのドアホンを押すのに門の前で五分以上を費やした。優柔不断な俺。押したのは近所に住んでいると思しき中年の女性に、不審者を見るような目を向けられてしまったから。通報されたら敵わないので仕方なく、押した。これって、カメラつきだろ? こっちの顔、向こうに見えてんのかな。
押してから暫く沈黙があった。レンガ造りの塀からつづくガレージはシャッターが開いていて、中の車が二台見える。真っ赤なアルファロメオと濃紺の小振りなベンツ。日本人なら日本の車に乗れよな。なんてことを思ってるとスピーカーから、
『はい』
と、柔らかな声がしてそちらを向いた。
「あの、……佐藤、です」
『あら』
ちょっと待ってね。
言うなり、スピーカーは切れた。
ドアが開いた。平澤によく似た女のひとは、にこにこと近づき門を開けてくれた。わけもなく心臓がどきどきした。すっげえ優しそうな笑顔。母親ってみんなこんな感じ?
「いらっしゃい」
こちらもぺこりと頭を下げてこんにちは、なんて挨拶をする。優等生な俺。今日は服装だってポロシャツに綿パンだ。仕事を終えてから一旦着換えにうちまで帰った。全然似合わなくて鏡の前で呆然としたね。
「あらあ、佐藤君、大きくなったわねえ」
丸い顔でにこにこと見上げてくる。平澤のお母さんは小さい。平澤よりももっと小柄だ。
「この前事務所でも会ったわね」
「はい……」
「でもあのときは遠目にちらっと見ただけだったから。こんなに大きいなんて感じしなかったわ。それにね、テレビで見る佐藤君はこんなにちっちゃいでしょう?」
と、縦長二十センチくらいに両手を広げる。
思わず目が点になった。
え、と。どう答えたらいいんだ。ここは笑うべきとこか。いや、真面目に言ってんのかもしれないし。わかんねえや。
「あの、平澤……さん、具合どうですか?」
平澤のお母さんは一瞬見開いた目をすぐに細めて笑った。
「それがね、今日少し熱が下がってたんだけど、またお昼から上がっちゃったのよ」
「会えない、ですか?」
あら、と。驚いたような目になる。
「ごめんなさい、そうよね、お見舞いにいらしたのよね。さ、どうぞ」
と、玄関のほうへと導いてくれた。「大丈夫だとは思うけど、どうかしら。ご機嫌ななめじゃないといいけど。あのコね、病気になるとちょっとわがままになるのよ。佐藤君、知ってた?」
わがままな平澤? 知らない。どんなんだろ。
「お客さん?」
低い声にどきっとした。平澤のお父さんだ。こちらと同じようなポロシャツを着ている。
「こんにちは」
頭を下げた。なんかぎこちない動きになる。っつーか、すんげえ緊張するんですけど。
「佐藤君よ。あなたも覚えてるでしょ、かれんが小学生のときに一度うちに来たことがある……」
「あ、ああ。あの……。へえー、あの佐藤君か。大きくなったねえ」
平澤のお父さんは、こちらへ驚いたような視線を向けた。口許は笑ってるんだけど、なんか目が笑ってない。大きな目だ。
「かれんのお見舞いに来てくださったのよ。佐藤君、どうぞ」
平澤のお母さんが階段を昇りながら話す。こちらも後をついて行こうとしたが、
「おい。かれんはまだ熱があるんじゃないのか」
平澤のお父さんがそう言って呼び止めた。思わず足が止まった。すんげえ嫌そうな声に聞こえたから。俺と平澤とを会わせたくないって感じ。汗が出そうだ。いや、暑いからとかじゃなくて、冷や汗。
「大丈夫ですよ。かれんにちゃんと聞いてからにしますから」
お母さんのほうは冷静におっとりと返す。
「しかし」
「あなた」
強い口調でぴしりと言われ、平澤のお父さんはう、っと言葉に詰まった。
「……ま、まあ、短い時間ならいいだろう」
急に弱々しい口調になった。でも、いいだろう、というあたり。何気に威張ってる。
階段を昇りきったところで平澤のお母さんは、
「だめねえ、父親は。なかなか娘から離れられなくて。気にしないでね。誰が来てもきっとあの調子だと思うから」
声を潜めてそう言った。こちらは笑うしかない。引きつった笑いだ。手に汗を掻いていて、持ってきたケーキの箱の持ち手が気になった。マルメゾンで買ったプリン。こういうのってどのタイミングで渡せばいいんだ?
平澤の家は広い。大豪邸というほどではないけど、でも成城にこれだけの家があるなんて、やっぱ平澤家はお金持ちだ。さっきのお父さんが医者だから? 資産家? わかんねえけど、平澤だけ見てるとそんな感じは全然しないんだよな。
さっきのお父さんのことといい、この立派な家といい、ちょっとだけ気後れ。
「かれん、起きてる?」
平澤のお母さんがドアをノックした。
うん、起きてる、なあに?
ドア越しに平澤の声が聞こえた。
久しぶりに聞く声だった。