『七福神の創作者』   一休さんの「モノにココロあり」大発見!

一色史彦 全国七福神連合会顧問  三五館    2007/6/22

 

 

 

・では、人間の切なる欲望を保証してくれる、しかも仏典にも出てこない「福神」を、いったい誰が、いつ、創り出したのでしょうか?

 

<「創作者」を探しつづけた三年間>

・私は大学教員という職務のかたわら、三年間にわたり国会図書館に通い詰め、七福神に関するあらゆる文献を逍遥しました。

 

・また、七福神は中国や台湾から伝わってきたといわれていたことも関係があります。しかしどの仏典にも七福神は出てこない。私には、七福神は日本で生まれたという思いが常にありました。だからこそどうしても、誰が何のために、そしてどのようにして、七福神を作り出したのかを、知りたかったのです。

 そうしたある日、あの頓智名人で知られる一休さんの次の歌を知ったのです。この瞬間。私は七福神の誕生には、一休さんが深く関わっていることに確信を持ちました。  

  

仏法を 神やほとけに わかちなば

      まことのみちに  いかがいるべき

 

 一休さんが七福神を考え出したことは、どの文献にも出ていません。肝心の一休さんの本人も、何も書き残してはいないのです。したがってこれは、一般の歴史家が扱えるテーマではないということになります。しかし、世界史上初の「福神」が登場した歴史的背景を知れば、一休さん以外にこれを創造し得た人は考えられないのです。

 

<そしてついに、福神強盗、登場!>

・さて、当時の京の庶民の間では、個人の幸せを願う福の神信仰が流行していたことは、見逃せない事実です。その代表的なものは、西宮の夷三郎、叡山の三面大黒天、鞍馬の毘沙門天、竹生島の弁財天女などでした。

そして古文献には、なかでも特に人気のあった七つの福の神の仮面をかぶった盗賊集団が登場します。この奇想天外な盗賊集団は、「福神強盗」と呼ばれました。

 

・「福の神が来ました。福の神です」

 仮面を被り、手振り足振りよろしく、囃しながら京都の富商の屋敷に押し入る盗賊たち。

しかも当時の富商たちは、「七福神とは縁起がいい」と、福神強盗を喜んで迎えた、と記録にはあります。

 これこそ、史上初めての七福神の衝撃的デビューです。そして私は、その背後に一休さんがいたと確信しています。

 

・一休さんを語るエピソードに、よく遊女町に出入りしていたとか、酒池肉林の生活を送っていたなどとありますが、とんでもない話です。

 師匠の薬を買うお金欲しさに、人が一番集まる色街に出入りしていたのです。しかしそこで目にしたのは、窮乏にあえぐ人民の現実・・・・

 居ても立ってもいられなくなった一休さん、福神に目をつけたのでしょう。それらを一堂に集め、富商に押し入らせたのです。それは意味深な「徳政」の詩からも伺えます。しかも商人たちは喜んで(?)金品を差し出しました。一休さんはそれらを貧者や難民に提供したのです。

 

・福神と盗賊の組み合わせの妙。――前代未聞、という言葉はこうしたときに使うべきでしょう。ときに一休さん、二十五歳。

 世界史上初めての「七福神」の登場がいきなり盗賊としてであったとは、いかにも頓智にあふれ聖と俗を超越した一休さんならではの着想ではありませんか。

 

<紙上「七福神巡り」>

<恵比寿――七福神の神々①>

・恵比寿さんは、七福神のなかで、唯一の日本の神様です。生業を守護し、福をもたらす神として、わが国の民間信仰の中で広く受け入れられてきました。

 

・恵比寿は、イザナギ・イザナミの大神の第三子・蛭子尊である。あるいは大国主命の子・事代主命、そしてあるいは少彦名命のことである、ともいわれています。

 事代主命は、父・大国主命に進言して国土を国譲りの神に献上させた後、自分も隠退してしまったお方です。

 少彦名命説も面白いものです。体が小さくて、すばしこい上に、忍耐力がありました。大国主命と協力して国土の経営に当たり、医療とまじないの法を始めたのだそうです。

 

・日本の伝統的な住まいでは、一番太い柱を大黒柱と呼びますが、二番目に太い柱は恵比寿柱といって、やはり重要な柱ですし、恵比須顔といえば、いつもニコニコの福相のことです。笑う顔には福が来る、ですね。

 

<大黒天――七福神の神々②>

・米俵の上に乗って、左肩に大きな袋を背負い、右手には打出の小槌を持った福々しいお姿は、いかにも福神そのものであります。

 しかし本来の姿は、聞くも恐ろしい暗闇を支配する大王です。インドのヒンドゥー教では、破壊神とされるシバ神(大自在天)の別名であり、仏法を守護する戦闘の神とされています。

 

・サンスクリット語でマハーカーラ、すなわち「偉大な黒い神」の意味です。欲望に目がくらんだ人間は、何を聞いても耳に届かず、何を見ても目に入りません。私たちも日常生活の中で経験することです。大いに反省しなければいけません。こうなると手探りで暗黒の世界に迷い込むことになります。大黒天はそこに真っ赤な口を開いて待ち受けていて、この人間を食い殺してしまうのです。

 

<毘沙門天――七福神の神々③>

・甲冑に身を固め、右手にやりか鉾、左手に宝塔を持ち、身体は黄色に彩られ、お顔はいかにも恐ろしげな憤怒の形相、とくれば、その前に立つ人は誰しも身が固くなるでしょう。

 しかも、インドにおられたことは、バイシュバナと申され、暗黒界を支配する悪霊の主であった、と聞きますとなおさらです。しかしその一方では、ヒンドゥー教でも財宝・福徳をつかさどる神として崇敬されていたのであります。

 

・その財宝は天三界に余るほどの膨大な量で、善行の人にその宝を分かち与え、名利のみの人には与えずといいます。善人が少ないため、毎日毎日須弥山三つほどの宝の山を焼き捨てているそうです。何とももったいない、と思うか、いや自分にはまだまだその資格がない、と思うか。あなたはどちらですか。本当に難しい選択を迫られそうですね。

 

・ところで、毘沙門天とは何を隠そう、仏教あるいは国家の守護神・四天王のお一人、多聞天のことなのです。多聞とは、多くの説法を聞いた、という意味です。

 

・仏教世界の中心にそびえ立つ高い山を須弥山と申します。頂上には、帝釈天がお住まいになり、その中腹を四天王が守っています。東方に持国天、南方に増長天、西方には広目天。そして、北方には多聞天、これぞまさしくわれらが福神、毘沙門天であります。

 

・それにしても須弥山というのは凄いところです。古代インドの雄大な構想力には本当に脱帽せざるをえません。お釈迦様と同時代、紀元前6世紀から5世紀の人によって創始されたジャイナ教の宇宙論では、世界の中心に聳えるのが須弥山なのです。サンスクリット語では、メールまたはシュメールといいます。須弥という音訳はここから出ています。その後、仏教にも取り入れられて仏教宇宙論の中心となりました。

 

<弁才天――七福神の神々④>

・ところで、七福神に女一人では不公平なのではありませんか、と質問されることがあります。実は江戸時代には、もうお一人、毘沙門天の妃とされる吉祥天を加えていたことがあります。しかし、女神はお一人のほうが良かったのでしょう。

 

・弁才天は、弁財天と書かれることも多いようです。金に糸目をつけない、という人もいるようですが、これは明らかに間違いですね。

 

・弁天さまのお姿といえば、すぐに目に浮かぶのはその手にした琵琶です。目を閉じて、その前に座ってご覧なさい。この世のものとは思えない妙なる音が聞こえます。別名を妙音天、美音天ともいわれます。

 

・元来はヒンドゥー教の女神です。サンスクリット語では、サラスバティと申されます。「水を有するもの」という意味だそうです。要するにインドの大河に住む女神なのです。

 

・一説によりますと、弁才天はあの見るだに恐ろしい閻魔大王の本当の妹らしいのです。真にインドの神は私たち日本人の想像を超えています。

 

<寿老人――七福神の神々⑤>

・長い杖を手にして、その脇にはいつも愛らしい鹿が付き添っています。

 この方は中国から来られた福神で、長命・延寿を司っています。

 

・次に登場する福禄寿とともに、南極星から生まれた双子といいます。九百年の中国の宗代に実際にいた方を偶像化したお姿とも、伝えます。

 

・桃源郷の語源は、陶淵明の「桃花源記」にあります。漁師が舟で川を遡って、桃の花が咲き匂う林に迷い込みました。水源の奥の洞窟を抜け出ると、そこには戦乱を避けた人びとが数百年もの間、俗世の移り変わりも知らずに平和な生活を営んでいたと、詠まれています。何度聞いても楽しいですね。七福神の世界もそうありたいものです。

 

<福禄寿――七福神の神々⑥>

・福神、としてもっとも似つかわしいお名前ですね。幸福と封禄と長寿。皆さんの望む幸せを、すべて兼ね備えておいでなのですから。

 寿老人とは双子の兄弟とされていますので、よく間違えられます。ご当人たちはさぞかし困っていることでしょう。この方の特徴は何といってもその頭にあります。なにしろ長いのです。

 

・福禄寿も長い杖をついています。寿老人の場合と同じように、この杖にも人の寿命を書き記した経の巻と、二つの桃の実が結びつけられています。そして、その傍らには鶴がいます。鶴の肉や卵を用いた料理は、中国でもとりわけ美味で、しかもすこぶる健康によいものとされています。ここでは桃の実と鶴が、不老長寿のシンボルなのです。

 

<布袋尊――七福神の神々⑦>

・七福神の最後にご登場するのが布袋さん。このお方は七福神中で唯一の実在の人物で、西暦916年の没年まで知られているのです。

 本命を契此(かいし)、号を長汀子と申します。いつも大きな袋をかついで、町の中を歩き回っては、人がくれるものは何でもあれ、一寸その匂いを嗅いでは、袋に投げ込んでしまいます。

 

・この人がこともあろうに、かの弥勒菩薩の生まれ変わり、であったのです。釈迦の救いから漏れてしまった人びとを、改めて救済するために、お釈迦さまの入滅後、567千万ごとに、この世に姿を現すお方なのであります。未来志向型の菩薩さまとでもいうべきお方です。

 

・日本では、中宮寺の弥勒菩薩像のように、うら若き乙女とも見まがうばかりのお姿ですが、中国ではまさに布袋さんそのものです。デップリとした、大きなお腹を見せています。32相を備えているのだそうですから、いろいろなお姿で現れるのも当然のことでしょう。