この世界を創り続けているのも、運営しているのも・・・
〝わたし〟
なのだとしたら?....
〝あなた〟
なのだとしたら?....
そう宣言するなら、わたしは完全にキチガイ扱いされるに違いない。
だがもし、本当にそうなのだとしたら?
ニール・ドナルド・ウォルシュは言う~
「神さまが私達に言う言葉は、常に〝その通り!〟なのだ・・・」
っで、あるならば!?・・・・
「神さま? ・・・あなたは私なんですね?」
っと尋ねるのは、究極的な神への問いかけとなるだろう。
ニール・ドナルド・ウォルシュのいう言葉が正しいのならば
やはり、
っと神は返答するはずだ。
「そう!キミは、実はボクなのさ!」・・・っと。
その瞬間、あなたと世界は初めて融合する、いや、融合していたことを思い出す。
『ザ・シークレット』ではヘンリーフォードの言葉を引用する・・・
「〝出来る〟と思っても、〝出来ない〟と思っても、両方正しい・・・」
わたしは、これは一般にとらえられているよりも、
非常に重要な言葉だと思っている。
この言葉が正しいならば、
この延長線上で言えば、
人間と同じ数だけ、真実があると言うことで、
人間と同じ数だけ、別の宇宙が存在すると言うことだからだ・・・・
それ程までに、〝個人=インディビディアル〟とは、無限の価値があると言うことだ。
60億人の創造神がひしめく惑星、地球・・・
もちろん、混乱が生じないわけはない、
でも、私達人間は、こころの根底で望んでいることにそんなに大差はない。
そして、私達の〝創造神〟というレベルは、その〝根底〟においてなのだから・・・
その〝根底〟のレベルではなく、〝海面〟のレベルであるエゴが・・・
無責任にジブン勝手な願望や恐れに混乱しているがゆえに、
この世界は混乱しているように見えているだけだ。
そしてこの無責任さの根底とは、「私は創造神ではない」であり、
それこそが
〝静かなるすべてがつながった根底〟と
〝荒れ狂う海面〟との分離をもたらしているわけだ。
つまり、創造神が60億人いても、
その世界が混乱しているとしたら、
その原因は、
その人数なのではなく、そのひとりひとりの無自覚さなのだと言える。
「この世界を私が創っているなんてとんでもない!」
「この私が創造神だなんて、とんでもない!」
「神よ!わたしはあなたではない!」
そうしたらこれもまた神は答えるだろう。
「そのとーり!(あなたはわたしではない)」
だから、わたしが
「創造神は、わたしであり、あなたなのだ!」
っと宣言して、キチガイ扱いするあなた・・・
そう、そこのあなた!
あなたは、正しい。 〝ユー・ライト!〟 そのとーり!!
確かにあなたがそう思うなら、〝あなた〟は〝創造神〟ではない!!
かくして、あなたは、創造神とは分離した存在となる。
あなたにとって、世界を創造した神は<どこか><別に>存在し、
その〝誰かさん〟が造った、この巨大な空間の、
あなたは〝ひとりの住民〟として、
この世界に対して、
ホンの世界の片隅(職場、家庭)の、僅かな、僅かな、責任しかもてず、
・・・そしてこの世界はよそよそしく、
・・・そしてこの世界で降りかかるってくることに
あなたは常に被害者であり、奴隷であり、たえず恐れおののき・・・・
そういう、あなたが認めている通りの世界の、あなたはいち住民なのではないだろうか?
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バシャールは言う。
「あなたが見ている世界はホログラフのようなモノだ」っと
しかし、そのホログラフ世界を演出している〝光源〟の存在こそ
本当の〝あなた〟なのだとしたら、あなたはその自分の作品である立体映画に
完全にのめり込んで、それを自分なのだと思いこんでいることになる。
これはあんまりにもありふれた話である。昔からよくきく話ではないか?
古代インドのヴェーダの時代から、〝この世はマーヤ(幻想)である〟と
あなただって何度も聞いたことがあるだろう? ホログラフというのも同じ意味だ。
バシャールとおんなじハナシではないか?、映画「マトリックス」のまんまじゃないか?
ところがところが!
やはり「わたしは創造神だなんてトンでもない!」っと思うのならば、
やはりあなたは、〝この世はマーヤ(幻想)である〟ということを
理解していなかったのだ。 知らなかったことになる。
この二つの事柄は、ワンセットで、究極の真理になのではないだろうか?
この三次元映画の世界に、あまりに没入してしまって、
笑ったり泣いたり恐れたり威張ったり渇望したり落胆したり・・・・
つまりはこの三次元映画にのめり込んで
自己同一化しすぎていたとするならば、
〝この世はマーヤ(幻想)である〟という言葉は、
あなたは何度、転生輪廻し続けても、
単なる神話上の空論、仮設であり続けるだろう。
あなたが目覚めるまでは....