自由訳 般若心経 新井満 | 今、考えていること

自由訳 般若心経 新井満

新井 満
自由訳般若心経

宗教といっている宗教を信じないことにしている。人が宗教と呼ぶのは自由である。仏教はお釈迦さまの教えである。智慧といってもいい。哲学といってもいい。思想ともいえる。しかし宗教ではない。少なくともお釈迦様は宗教だとは考えていなかったはずだ。


柳澤桂子さんの『生きて死ぬ智慧』の時と同じく、本屋で立ち読みさせていただいた。お金が惜しかったわけではない。その時に早く読みたかったのである。10分で読める。それぞれが、それぞれの般若心経を書ければいいと思う。


お釈迦様は29歳の時、出家するのだが、今のご時世で言えば女房、子供を捨てての家出である。だから、もしお釈迦さまが悟りを開かなければ、お釈迦様とも呼ばれないだろうし、もちろん仏陀(悟りし者)ではない。ただの我儘な王子様だ。その出家に至る原因は、老人、病人、死人、苦行者の出会いだとされている。四苦八苦の、四苦、生老病死、この人生の根源的な苦悩を解決する、『解脱』を求めての修行のために出家したとされている。


そしてお釈迦様は、悟りを開くのだが、その悟りのエッセンスがこの『般若心経』では、ないかと思う。もっと簡単にいえば、『色即是空 空即是色』である。新井さんは『空哲学』と名付けていたが、『空』がわかればすべてが解明される。つまり『悟り』の境地に至るのである。ところが、凡人にはなかなかこの『空』がわからない。わからないというのは、イメージできないのだ。


このブログで書くようになってから、以前よりは考えるようになってきた。書くためにはわからないと書けない。人の言葉を引用することはできる。しかし、自分の言葉で書くには「わかっていない」と書けない。それがよくわかった。わからないことが、わかったという段階だ。「考える」という作業も、実は結構しんどい作業であることがわかった。たとえば、『空』という概念を考える時、以前だったら、考えようとしなかった。わからないと思い込んでいるからだ。この世の社会生活が長くなると、無駄なことをしなくなる。近代合理主義である。しかし最近は、考えることぐらいしかやることがないから、考えるようになってきた。しかし、考えてもわからないものはわからない。考えるのに疲れてくるのだ。こんどやってみようと思っているが、どのくらい考え続けられるか。THINKING Marathonである。これは、時間が長いほうが勝ちである。まあ、参加するのは池田晶子さんぐらいしかいないかもしれないが。


悟りを開くとはいったいどういうことでしょうか。それは、きっと『わかった』ということではないかと思うのです。それでは何が『わかった』のか。それが『空』なのです。『空』がわかるためには、何度も何度も『般若心経』を読むしかないのかもしれません。そう簡単に悟れたら、お釈迦様のありがたみが減ってしまいます。