雪村と観音菩薩(2) | 柔ら雨(やーらあみ)よ 欲(ぷ)さよ

 うそかまことか、スケールの壮大さではアレクサンダー大王級なのが、仏教における仏像礼拝の始まりです。

 地中海世界を支配下に置いたアレクサンダー大王の軍隊はアジアに進出し、遠くインドにまで遠征しました。大王は、その進出地点にギリシャ型の古代都市を次々と建設していきました。そのため、多くのギリシャ人がアジアへ移住していったそうです。そうしたギリシャ型都市建築は、多くのギリシャ彫刻で飾られもしました。

 インド西北部に建設されたギリシャ型都市は、必然的にインド人仏教徒との交流を持つに至りました。その交流の中で、ギリシャ人の彫刻家がブッダの像をつくって仏教徒に贈ったところ、それが仏教徒から大変喜ばれて、以後、仏教における仏像礼拝が始まったのだそうです。(事の真偽については、私からは何とも言えませんが。)

 言いかえるなら、仏像とはギリシャ彫刻であり、そのアジアへの伝播だったわけです。言われてみると、確かに多くの要素で似ている点があるように感じられますね。そして、日本の仏像にもやはり古代ギリシャ彫刻との連続性が感じ取れるように思うのは私ひとりだけでしょうか?

 仏教が仏像礼拝を信仰の形として取り入れる以前、大乗仏教の信徒たちは、もっぱらストゥーパ(仏舎利塔)に礼拝を捧げていました。日本の寺院でも、三重塔や五重塔が寺院建築の構成要素となっていますが、あの塔がストゥーパです。ブッダの遺骨や所持品(と看做されたもの)がこの塔には納められていて、いわば、生前のブッダの代理物の役割を果たしていたわけです。

 大乗仏教が、仏像礼拝以前の時代にストゥーパ礼拝をいかに重視していたかは、例えば、法華経に「見宝塔品(けん・ほうとう・ぼん)」という章が立てられていることからもうかがい知れます。
 漢訳の法華経はストゥーパを「宝塔」と呼んでいますが、その塔が「宝」であるのは、そこにブッダの遺物=宝が納められていて、塔それ自体がブッダの代理物だからです。
 法華経によれば、この宝塔は地中から出現したというのですから、いよいよもって、ブッダの墓の墓標のイメージをもこの宝塔は担っていることになります。

 とはいえ、経文の実際の記述は、そうした理屈は横に置いておいて、この宝塔の見事さを賛美することのみに熱心です。岩波文庫の梵語訳ではこんなふうです。


 そのとき、世尊(ブッダ)の面前に、集まっていた会衆の真ん中に、高さ五百ヨージャナ(1ヨージャナ=7.3km)で、幅もそれにふさわしい七宝(しっぽう)づくりの塔が地中から出現した。色とりどりで美しい塔は地上に現われ出ると、空中に高くそそりたった。塔は花の咲き乱れた五千の欄干で飾られ、幾千という多くのアーチが設けられ、旗や吹き流しが幾千本も垂らされ、宝石の環が幾千となく吊るされ……(下略)



 宝塔の賛美はまだまだ続くのですが、いいかげんにしろと言いたくなる前に、この辺で切り上げておきます。
 引用中には、既に死んだブッダが生きて登場していますが、このブッダは、悟りを開いて生死を超越した、いわば霊体(?)のブッダです。それに対し、遺品を納めたストゥーパを礼拝することで信徒に想起されているのは、生きて悟りを開き、そして死んでいった、なま身の人間ブッダでしょう。
 霊体ブッダへの信仰は、その地上的な根拠として、人間ブッダが存在したことの証しであるストゥーパへの礼拝を要請したのでしょう。

 琵琶湖南岸に古く建立された石山寺には、鎌倉時代初頭、多宝塔が建てられました(下写真)。



 日本で一番古く建立された多宝塔がいつの時代になるのかわかりませんが、法華経を根拠とする塔ですから、広く日本社会に法華経が普及して以後のことでしょう。平安時代のどのあたりか……。あの著名な石山寺でさえ鎌倉時代初頭だとすると、平安時代後期と見るのが無難でしょうか。

 さて、法華経の「見宝塔品」では、宝塔が地上へ出現した後、この塔の管理人さんみたいな如来が登場します。その名を多宝仏といいますが、実際の役割は墓守なのでしょう。
 多宝仏は、地上に出現した宝塔の中からブッダを呼んで、「自分の横へ座るように」と、ブッダを宝塔の中へ招き入れ、ブッダと多宝仏は行儀よく並んで座ります。
 このシーンの印象が強かったためでしょう、多宝仏が仏像にされたり絵画に描かれる際は、多宝仏とブッダが並んで座る「並坐像(びょうざぞう)」がほとんどなのだそうです。

 まず、仏像で見ていきますと、「なぜ、そこにあるの?」と不思議な気持ちにさせられるのが、東大寺の戒壇院に建立当初から安置されていたという銅像釈迦多宝如来坐像です(下写真)。




 左が多宝如来、右がブッダです。像の高さはわずか25センチ。これは、戒壇院内に小さな多宝塔が置かれて、その塔の中にこの2仏が並べておさめられたものと想定されています。

 もう一つ、大阪は和泉市の妙泉寺に、室町時代につくられたという多宝塔と、その中に彫り込まれた2仏。




 これ、すばらしいですね! ぼくはこの塔、大好きです。簡素に図形化された2仏と、素朴な感じの塔全体が、法華経「見宝塔品」の物語をまざまざとよみがえらせてくれます。

 次に、絵画では雪村の「観音拝宝塔図」を見ていきましょう。この作品も前回の「瀧見観音図」と同様、雪村の初期作品の一つです。
 下に掲げるのは、この絵の宝塔部分の拡大図です。




 色が薄れていて見にくいのですが、ここまでお読みいただいた皆様には、何が描かれているのかおわかりいただけますでしょう。
 多宝塔は、上に見てきた石山寺、妙泉寺と同様に二重塔で、これは日本独特の多宝塔の建築様式なのだそうです。その下部に、ブッダと多宝仏が仲よく並んで座っています。そして、それらの背景が葉っぱ形に白くくり抜かれています。多宝塔と2仏全体の光背と見えないこともありません。

 さて、雪村のこの絵では多宝仏とブッダが主役なのではなく、空中に浮かぶこの多宝塔をはるか下方から見上げて、2仏への賛仰の心を捧げている観音菩薩が作品の中心になっています(下図:全体)。



雪村「観音拝宝塔図」


 この観音さまは女性ですね。前回見てきた雪村の瀧見観音図では男性でしたが、観音は女性として描かれることも多い菩薩です。
 特に法華経の「見宝塔品」には、龍女という少女が悟りを開くに至る、いわゆる変成男子(へんじょうなんし)・女人成仏の有名な物語がありますから、宝塔を仰ぎ見る観音菩薩が女性として描かれるのには最もふさわしい場面と言えます。

 観音菩薩が多宝塔の2仏を仰ぎ見るこの瞬間は、観音経(=法華経「観世音菩薩普門品」)の物語のクライマックスをなすシーンです。(観音経は、「見宝塔品」の舞台設定をそのまま引き継いで、その続編のような形で物語が展開します。)
 多宝塔の中に2仏が並んで座ると、塔の周囲に参集していた多数の者の中から無尽意(むじんに)菩薩が立ち上がり、塔の中のブッダと質疑を交わします。すなわち、無尽意が観音菩薩の志や行いについて尋ねると、ブッダは、観音菩薩のすぐれた点を数え上げて称賛します。
 それを聞いて大いに感動した無尽意は、観音菩薩に真珠の頸飾りを贈ろうとします。


「勝れた偉丈夫(=観音菩薩)よ、わたくしが捧げ奉るこの供養の進物(=頸飾り)を受納されよ」
 しかし、彼(=観音菩薩)はそれを受納しなかった。
 そこで、無尽意菩薩は観音菩薩にこのように語った。
「良家の息子よ、われわれに憐れみを垂れたもうて、この真珠の頸飾りを受納したまえ」
 そこで、観音菩薩は、無尽意菩薩に憐れみを垂れ、またここに参集している者や人間・鬼霊たちを憐れんで、真珠の頸飾りを受け取った。そして、それを二つに分けて、その一つをブッダに贈り、他の一つを多宝仏の塔に懸けた。



 観音菩薩は、無尽意菩薩から贈られた頸飾りを二つに分けて、ブッダと多宝仏のふたりに捧げるんですね。
 では、雪村の描いた観音を拡大して、その点を確認してみましょう。




 よく見ますと、右手にも左手にも頸飾りを持っていることが確認できます。雪村が描いたのは、ちょうど観音が頸飾りを二つに分けて、ブッダと多宝仏に捧げようとした瞬間だったのです。
 雪村はこの絵で、観音経の物語を忠実に再現していることがわかります。

 ところで、前回見た「瀧見観音図」では、下方に小さく描かれた善財童子が補陀落山の断崖に座る観音菩薩を仰ぎ見ていましたが、今回の「観音拝宝塔図」では、立場が入れかわるようにして、善財童子と同じポジションから観音菩薩が2仏を仰ぎ見ています。
 それが意味するのは、観音菩薩が今もなおこの世にとどまり続けているということです。なぜなら、この絵の観音がひざまずいている蓮台とそれが浮かぶ水面は、前回見てきた滝見観音が、灼熱地獄のような大火坑〔かきょう〕に滝の水を注いで浄土の蓮池に変えたその池であり、それは現世のことなのだからです。

 さらに、前回の善財童子や今回の観音菩薩が天を仰ぎ見る姿は、雪村の人物画の最大の特徴をなすものですが、この姿の経典上の根拠も、観音経に求められるように思います。
 以下に引くのは、観音経の末尾に近い一節です。


真観清浄観(しんかん しょうじょうかん)
 (観音菩薩には)真(まこと)の観・清浄の観

広大智慧観(こうだいちえかん)
 広大なる智慧の観

悲観及慈観(ひかん ぎゅう じかん)
 悲の観及び慈の観あり

常願常瞻仰(じょうがんじょうせんぎょう)
 常に願い常に瞻仰(あおぎみ)るべし。

【大意】観音菩薩は、五観といって、真・清浄・智慧・悲(=衆生の苦を抜く)・慈(=衆生に楽を与える)の観をこの世で修行し続けておられるのだから、観音(の偉大な力)によって生かされている私たち衆生もまた、観音への信を通して、五観を体得することを常に願い、常に観音を仰ぎ瞻(み)るべきである。

 これはほとんど観音経の結語に当たると言ってもよい箇所ですね。そして、上の漢文引用の最後の行が、雪村の人物画が多く天を仰ぎ見ていることの根拠になっているように感じられるのです。


常願常瞻仰


 人物画において「常瞻仰」を実践し続けた稀有の画家が、雪村だと思います。





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