兵庫県の高校生自殺事件で学校側がいじめを認めた。隠蔽した例の大津の事件に比べれば早めに公開できてよかったとは思う。
その際、校長が被害者性と遺族に「『いじめ自殺』とすると第二・第三の犠牲者が出るかもしれないので『不慮の事故』という事にしてくれないか」と電話したことが物議をかもしている。
遺族側は「第二・第三の犠牲者を防ぐのは学校の責任だ」と断ったという。
この場合の「第二・第三の犠牲者」とはどういう事なのだろうか?そこまで言葉尻を捕らえて問題にすべきことだろうか?もちろん遺族側にとっては「加害者にも学校にも責任はありません」と誓約書を書けと言われたようなもので納得できるものではないと受け取り、反発するのはもっともだ。
「第二・第三の犠牲者」が事情を知る証人が「消される」ようなマフィア絡みのアメリカアクション映画みたいな内容ならともかく。この場合は「脅迫」と受け取られ事情を知らない報道を見た読んだだけの第三者たるその他大勢は学校を非難するだろう。
しかし、この場合校長が言うところの「第二・第三」は「加害者とされた少年たち」のことであろう。加害者少年たちはそのつもりもなかったのに「被害者」に自殺され「人殺し」の汚名を着せられ大変傷ついているはずだ。更に被害者遺族や報道を見たその他大勢が追い込むと、それこそ責任を感じた彼らが「第二・第三の犠牲者」になることを防ごうとした校長の配慮であろう。
学校長は一人二人の善悪ではなく全校生徒を平等に見なければならない立場の人間だ。全員に配慮しなければならない。学校の教師が加害者生徒に「お前らのせいで!」と責めては彼らにも居場所は無くなってしまうのだ。
しかし、一つのイジメ自殺事件が発覚すると、あちこちでで同じような「自殺」が起きる。
。日々子供の様子を観察し言葉に耳を傾けようとしない親の責任もあるのであろう。いざとなれば学校に責任を押し付ければ良い!加害者家族や自治体から金が取れると。最近の子供は弱くなったものだ自殺してわかってもらおうなんて甘えるな!と言いたい。
死ぬ気になれば何でもできる!たとえ腕力でかなわなくても立ち向かって戦おうという気概はなかったのか?まあ事情はどうあれ暴力は両方傷つくはずで、平和主義者の私は賛成はしない。
たとえ腕力じゃなくても「戦う方法」はいくらでもある筈ではなかったか。
「なぜそんな事をするの?」と真顔で真剣に問いかければ彼らだってわかってくれるはずだが、彼らが「ふざけ気分」でやっているのならそう真剣になるのも馬鹿らしい。
こう書くと「上海さんみたいな人はイジメられないからいじめられる側の気持ちを理解できないだろ」と言う人もいるだろうがとんでもない!私もかつていじめられっ子でここを読む誰よりも地獄を見てきたつもりだ。
「ははは、何やってんだよう!そんな事されたら僕困っちゃう!」とこちらも笑いかけてはどうだろうか。嫌がる顔、怒った顔を見たいから余計面白がってやるものだ。
「おやこいつ何やっても笑ってる。こんなヤツに何やってもつまらないからやめよう」となるだろう。これぞ平和的解決である。何もしなくなったらことらから話しかけよう。
「こいつなかなか面白いし、やるじゃあないか」と親友になれる要素ができるのではないか。私はこうして自身のイジメを見事に乗り越えた。
とにかく昨今のイジメ問題にせよ国際問題にせよ「相手を憎み徹底的にやっつけるべきだ」という報道の仕方には疑問を感じるのだ。
他のところで公開された事情を知ってると思われる方の意見です。
10 ■お言葉ですが・・・

誤解があると思うのですが、これは自殺の直後で、
いじめの事実があったという調査結果が出る前の話です。

・こういう死因を故人の身内に無断で公表する訳に行くはずもなく、亡くなった生徒の保護者の意向を電話で尋ねた。

・学校としては「人の死」を生徒に伝えるのに極力動揺の少ないように配慮したいと考えており、この電話の際にそれを遺族に伝えた。

・遺族がありのまま公表して欲しいと考えていることが分かるとその意向に従った。

一体何が悪いのでしょうか?

隠蔽ありきで考えていたら不毛な批判しか生まれようが無いと思います。

」(小木ママのブログコメントより)

皆さんはどう思いますか?