原発の感情論と制度論 | xyavのくしゃくしゃブログ

原発の感情論と制度論

原発行政について二つの点をクリアにして欲しい。


一つは感情論。


技術の話として何か素晴らしいモノができ、更に財源として仕分けられずに利用者、事業者、科学者、許可する官庁の全てが了解出来るモノができたとして しかしそれでも感情論の問題で近くに住む人の納得が必要では無いか。


理屈では多分耐震性がありミサイル?攻撃にも耐え防潮堤で波を防ぎ、どんな状況でも電源を失わずに確保するシステムがあって故障さえしなければ安全だ。


しかしその素晴らしい対策を説明するだけならこれまでと同じにしか受け止めて貰えない。


そして本当に近くに住む人の事を考えるのなら今回の避難指示 屋内退避に対するサポートは余りに杜撰でピンチをチャンスに出来ていない。


避難や退避する方々へ そこまでして貰えるのか、と言う援助をしてし過ぎる事は無いのに、命令、だけがあって人は置き去りになってしまった。


「やっぱり地元住民の事など最後になるんだ、使う人や今後の世論の方が大事なんだ」


と感じられてしまったのではないか。


例えば20km圏内の病院では患者さんが次の病院へ入れずにお亡くなりになったりして、今回の事故で世界中の人が 自分の地元に作るのだけはゴメンだ、と感じてしまった。


技術的にクリアになればそれで可能なのではなく、必ず感情の問題としての地元の協力を取り付ける必要があり、その為には何等かの新しい納得を得る為の仕組みが必要だ。


もうひとつは感情論と同時にそれを運用していく仕組み制度の問題。


これによって 「なるほどこれでこれまでとは違う仕組みで担保されるんだ」 と言う安心感と納得を得る。


今の仕組みは多分 事業者を保安院が監視する、という約束だが、言わば保安院は事業者と同じ推進の立場、アクセルである。


と言う事は安全装置がちゃんとできたとしても全くこれまでと何も変わらず、もうこれ以上はいいよね、無駄だよね、で切り捨てられてしまう。


政府や事業者とは別の独立した監視組織がやはり要り、保安院や安全委員会では例えば公正取引委員会が独立と言っても政府内にあるのと同じような事になってしまう。


今原発を作る時事業者は必ず信じられない額の寄付を匿名で地元に行うのが決まりで、多分数十億円 そしてそれは1回きりで安全対策ではなく地元対策に過ぎない。


それとは別に利用料金に例えば1000万軒の利用者に月10円上乗せすれば一億円になり、過疎の地元自治体では大きな力には押されてしまうので連合でこれを安全対策費として活用しよう。


アクセルとは別のブレーキとしての安全対策監視体制が制度仕組みとして絶対に必要である。