「国籍」というのは明確でわかりやすい概念ですが、「国(国家)」というのはやや曖昧でわかりにくく、「民族」というのはもっと曖昧でわかりにくい概念です。
「国」と「国家」というのも本来は別ニュアンスの言葉だと思いますが、ここではよりわかりやすくするため、「国家」という言葉は使わず、「国」に絞って話してみたいと思います。
さて、最近ツイッターで天皇制についての議論をすることが多いのですが、この件に関しては主な立場はだいたい三つです。
① 皇位を継承するのは天皇の家系の男系男子でなければならないという立場(男系男子派、男系男子主義者)
② 女性・女系天皇を容認してもいい、容認すべきだという立場(女系容認派)
③ 天皇制廃止派
①と②は天皇制存続派であります。
あたしの見た所ですと、特に①の立場の人に「天皇制がなくなればand/or男系継承が途絶えれば日本が日本ではなくなる、別の国になる」という主張をする人が多いように思います。
「別の国」って何でしょうか。
そもそも大日本帝国と日本国は(繋がってはいるが)同じものではありません。「日本国」は憲法が施行されてからまだ七十六年しか経っておりません。よって「別の国」であります。
①の論客は要するに「その繋がり、連続性を担保しているのが天皇制(男系皇統)だ」という考えなんだろうな、と想像する所であります。
「王朝≒国」とするならば、世界最古の王朝を擁する我が国は世界最古の国と言えるかも知れません。
この辺りがナショナリストたちの琴線に触れるのでしょう。
しかし「国(の連続性)」を定義づけるものは王朝だけではないはずです。
それは他の国を見ればわかるでしょう。
例えば中国人が「中国四千年の歴史」と言う時、「中華人民共和国はまだ始まってから七十四年しか経っていない」とか子供の屁理屈レベルの茶々を入れるのはよほど大人げない人だけでしょう。
つまり「王朝=国」なんかではないことは割と人類普遍の意識としてあると思います。
洋の東西を問わず、「王朝の交代」というのは一般に王家の姓が変わることを以てそう言いますので、そりゃ王家の苗字が変わったくらいである国が別の国になるわけないでしょ、そもそも「別の国になる」ってどういうことなんだよ、って話です(日本の天皇家には苗字がないけどね)。
とするならば、「天皇制(男系皇統)=日本」なんてことはないはずなのです。
というかほとんどの人はそんなこと思ってないと思うんですが、一部の人は頑なにそう信じています。
少なくとも、その人たちの思う「そもそも私たちの日本という国は~」の中に天皇制(男系皇統)が非常に大きなウェイトを占めていることは間違いありません。
その人たちにとっては、日本という国は(父方から天皇家の血筋を引く男の)天皇がいてナンボなのです。
でもあたしはぜんっぜんそう思わないのです。仮にそうだとして、それで何が嬉しいのかぜんっぜんわからないのです。
「少なくとも千五百年くらい前からずーっと王朝が交代してない」ってそんなに嬉しいことですかね。
個人的には、そもそも民主主義の国なのに王家が存在するのがおかしい、そういう意味ではイギリスもオランダもスペインもベルギーもデンマークもスウェーデンもみんな間違っとる、としか思わんのですが。
中国の話に戻すと、「中国四千年の歴史」という認識だから溥儀が「ラストエンペラー」なのです。
王朝ごとにてんでんばらばら、滅亡ごとに清算されるんなら「ラストエンペラー」は溥儀だけじゃなく何人もいることになります。
「ファーストエンペラー」は誰かというと始皇帝ということになるでしょう。
「China」の語源も秦だと言われています。
「中国史上唯一の女帝・則天武后」という言い方もします。
中国歴代各王朝と「中華民国」、そして「中華人民共和国」とは(同じものではないが)繋がっています。
ユーラシア大陸の東の方に遥か昔からあるデッカイ「国」。その「繋がり」「まとまり」の基礎を築いた人が始皇帝なんでしょう。
秦という王朝がとっくに滅びて王朝や政治体制が色々変わっても、中国(China)は中国という「繋がり」「まとまり」を数千年間維持しています。個人に置き換えると「自我同一性」(アイデンティティ)みたいな感じでしょうか。
畏敬の念を持つとしたら、「王朝が変わってない」なんてことではなくて、そこだと思います(※個人の感想です)。
(男系)天皇がいなくなったら日本が日本でなくなる、別の国になる、なんてことはないのです。
例えばイギリスがこの先、曾てのフランスやドイツやイタリアのように王室を廃して共和国を名乗ったからといって、我々の知っている「Great Britain」という国じゃなくなって「別の国になる」とはとても思えないのと同じことだと思います。
仏独伊だって、王様なり皇帝なりを追放して、(それ以前の繋がり、連続性と切り離された形で)「別の国にな」ったとはとても思えないですからね。だって同じ土地に同じ人たち、またはその子孫が住んでるわけじゃないですか。
変わったのは国の体制だろ、って話でして。国の体制ってのは国の一部であって国そのものじゃないわけです。
で、「何を以て『国』とするか」「『国』の本質とは何か」「時を超えた『国』の繋がり、連続性を担保するものとは何か」というのは実はめちゃくちゃ難しい問題なのです。
とりあえず「国」の本質は国土と国民、つまり「だいたいおんなじ土地にだいたいおんなじような人たちが代々住み着いているのが『国』」ってことでよくはないだろうか。
そもそもあたしは「国」というものをそれほど大事なものだとは思っておりません。
「自分たちの(ものだと思っている)土地を戦争で侵略されるのを防ぐために人々が団結したのが国である。つまり戦争というものがなくなれば国というものは要らなくなる。国などその程度のものだ」
と信じているからです。
「おまえは自分の国が好きじゃないのか」「国を愛さないのか」と言われたら、「郷里が好きです」「故郷を愛します」と答えようと思います。
また、自分の先祖や自分の先祖の土地には愛着や畏敬の念を持っていますし、他の人もそうだと思います。
以上で今回のお話は終わりです。
だから以下は余談なんですが、イスラエルとかどういう扱いになるんでしょうね。聖書読みとしてはどうしても気になっちゃう所です。
ここでは「国」に絞って話をしたため、「民族」や「民族」を定義づける重要な要素である「言語」「文字」「宗教」などには全く触れられずに終わりました。
もちろんそれらの内のどれも、「国」とは切り離して考えられない概念であります。