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日米間の密約はまだまだ存在する!!
全世界の究極の祈り・願い!!
「No more war!!」
武器よ!さらば!沖縄の米軍基地撤去!
        「怨」

きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)


新しい日本!!

「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任・戦争犯罪を問う。)
(時効なき戦争責任・戦争犯罪)

●731部隊

『731部隊の生物兵器とアメリカ』
(バイオテロの系譜) 2003年発行
(ピーター・ウィリアムズ / デビッド・ウォーレス=著 西里扶甬子=訳 かもがわ出版)

◆ワシントン政府の苦悩

 陸軍省民事局は国務省の提案に以下の点をあげて反対した。

 ・・・メッセージ〔5月6日のマッカーサーからワシントンへの最初の提案〕全体を読むと、必要な情報を入手するためには日本の生物戦部隊に対してもっとも迅速な手配をすることが極東軍最高の司令官(CINCFE)の希望であり、彼の意見によれば、これ〔戦犯免除の保証〕が情報入手を成功させるためこちらからできる最低限の条件であることは明らかだ。
 現政府が後になって重大な困惑に陥るかもしれない・・・ということはわかっている。しかし、陸軍省及び空軍の委員が強く感じているのは、この情報は、・・・・国家安全保障上非常に高い重要性を持っているのだから、特に重大な困惑に陥る危険をあえて犯すことを恐れるべきではないということだ。・・・・最終的判断としては、アメリカの安全保障が最重要事項であると確信している。

 国務・陸・海軍三省調整委員会に対して意見の分かれた報告書を提出するかどうかの検討がなされた。しかし最終的には極東へ出発間近の化学戦部派遣団が、マッカーサーが日本の生物戦部隊と最善の取引を行ったかどうかの判定を下すためにする調査を待つことで合意に達し、問題は先送りとなった。

※日本は本気で生物兵器の開発に力を入れていた。アメリカでは遅れていたこの分野の研究にアメリカはぜひとも日本のデータが欲しかったのであろう。戦争犯罪があったにもかかわらずそれらに目をつむって、アメリカは生物兵器の情報を収集した。もちろんこれは後に禍根を残す行為だろう。戦争犯罪を犯した医学者は誰1人裁かれず、戦後また医学界、製薬会社・研究所の職につき、731部隊で行っていたような過ちをその後も繰り返した。
また、その組織の最高責任者であった天皇は、アメリカと結託してアメリカの日本統治に全面協力し、マスコミは今でも「平和を愛した天皇」ともてはやしている!!
●南京大虐殺   
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
(発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
※私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!
2、日本軍の狂暴な個人的虐殺
目撃された虐殺の凄まじさ
秦傑(男、1926年3月生れ)の証言
 1937年の12月に日本の侵略軍が南京を占領してから、全く人間性を喪失した血なまぐさい大虐殺を南京で行ったことは、もう既に南京市民や国内国外の人々並びに日本の侵略軍の何人かの将兵たちの証言している所となっています。ごくわずかな日本の右翼分子がこの歴史上の事実を抹殺しようと愚かなる企てをしていますが、それは徒労に終わります。私自身が南京大虐殺の生き残りでして、この事件の証人の1人でもあります。
 私は旧もとの名を周長齢と言いました。1937年には、満10歳で、南京の馬道街小学校の6年生のクラスで勉強し、家は南京中華門の西釣魚台63号でした。父は周子純、母は李氏で、家には両親の他に、祖母や兄(耳が聞こえず口が利けない人)や弟3人もいて、母はしかも妊娠していてもう直ぐ生れるところでした。(劉相雲が1993年10月に本人からの手紙に基づいて整理:明日に続く)
●731部隊と天皇
 欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。日本人は、小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。
 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、陸軍軍医少佐の石井四郎は、満州の背陰河で人体実験を重ねながら、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。
 1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他多くの石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。
 1938年(昭和13年)の5月には国家総動員法が発令され、京大や東大の研究者なども上司の勧めや説得により、731部隊に派遣された者もいる。731部隊は国家的プロジェクトだった。そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。
 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。
 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。
 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入っていたはずである。
 莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者(京都帝大・東京帝大医学部が中心)を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊ではなかったか?


 マッカーサーは、軍人であった。軍事戦略に長けていた。日本軍の731部隊の細菌戦や、そこで行われている人体実験、また、アメリカ人捕虜に対する残虐行為などの情報はある程度知っていた。しかし、マッカーサーが占領統治に当たって重視したのは、そのようなことを裁くのではなく、円滑に日本統治をすすめ、将来的には日本が、アメリカの傘下に入って、共産主義と対峙する国にしようとしたのではないか?
そのためには、日本人がその当時も今もかもしれないが天皇教に洗脳されていることを利用し、昭和天皇をそのまま在位させて、その力を統治に最大限活用した。
 そして、国家的プロジェクトであった細菌兵器の開発や、731部隊で行われていた人体実験のデータを極秘裏に集め、自国の遅れている生物兵器開発に役立てようとした。
上記のことを実行するためには、天皇や731部隊員の戦犯免責が必要であったため、731部隊関係者には、最初は731部隊員の戦犯免責はマッカーサー自らが与えていたが、ソ連の介入により、アメリカ本国の了解を取るようにした。
 また、東京裁判でこの件が裁かれないように工作し、731部隊のことに関しては報道管制を敷き、天皇はじめ731部隊関係者が法廷に立つことはなかった。
 結果、天皇の戦争責任は問われることはなく、日本の生物戦の戦争犯罪も一切問われなかった。
 そして、東京裁判は、形式的なのものになってしまった。
 
戦後、アメリカのキャンプ・デトリックから細菌戦のことを調査しに派遣された調査官サンダースやトンプソンの731部隊員に対する尋問する前に、GHQのG-2(参謀2部)が先手を打った。*G-2(参謀2部)が、軍事的に価値ある情報(人体実験と実戦データ)を密かに独占することを目的に、731部隊中枢幹部と陸軍高級参謀の一部との極秘の取り引きで、サンダースやトンプソンの尋問に対する供述の内容をコントロールしていた。その背後には、大統領の椅子にまで野心を燃やしていたマッカーサー将軍が、トルーマン大統領にうとまれていた化学戦部隊と共謀して、原爆に匹敵するような秘密兵器を持ちたいという願望があった。
 また、マッカーサー将軍が、8万8千人の将兵を置き去りにして、オーストラリアへ逃げた雪辱を果たし、軍人としての失地回復を図るには、日本占領・統治には失敗は許されなかった。大規模な人体実験と細菌兵器の実戦使用が明らかになれば、当然おりから進行中の東京裁判でも、重大な戦争犯罪として裁かれざるを得なくなる。そして、それはまた、極秘部隊ではあっても、天皇の軍令によって正規軍の一部となっていた細菌戦部隊(防疫給水部)の行状として、天皇の戦犯訴追という結果を招きかねない重大問題であった。それは、日本軍部が、敗戦を目前にして最後までこだわった、国体護持を危うくしかねない問題そのものであった。双方の利害はそこで完全に一致していた。*

731部隊幹部はデトリックの調査官に、人体実験の事実は隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊幹部の尋問を要求した。*この尋問要求をめぐる米ソの協議の過程で、人体実験、ノミや細菌の生産の実態など、731幹部隊員の供述が提示されたことによって、価値ある情報の独占を画策していたマッカーサー及びG-2 は、あわてて戦犯免責取り引きを含めて、ソ連の要求に対する対応を本国からの指示を仰ぐというかたちに切替えたと考えられる*。
 アメリカは731部隊幹部に約束した戦犯免責を保証し、人体実験・生物戦のデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
731部隊の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務局の活動はアメリカ自身の手によって強制的に中止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。
 
 日本政府及び天皇とアメリカは、一緒になって、731部隊の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!)
その結果、裁判で国民の前に731部隊の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任を問う声は国民からはあがらなかった。
※*~*【『生物戦部隊731』(アメリカが免罪した日本軍の戦争犯罪)西里扶甬子著 :草の根出版】より引用。
※パウエルの記事と森村の本は、日本で政府が見解を出さざるを得ないほどの騒ぎを巻き起こした。政府は国会で731部隊の存在と、731部隊の戦争犯罪について初めて認めた。議論の中で政府は、石井の細菌実験について知りながら石井にかなりの軍人恩給を給付していたことを全く偶然に露呈してしまった。【 『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳 193頁】
●国の公式見解
731部隊について国会で取り上げられたことがある。
1982(昭和57)年4月6日、国会議員が「生体実験を行った731部隊の規模・配置状況」について質問したのに対し、厚生省(当時)は内部資料をもとに、部隊員総数(3599人)などを回答した。日本政府が公式に731部隊の存在を認めたのは、この時が初めてである。しかし731部隊の人体実験と細菌戦の実行については認めず、今もその態度を変えていない。さらにアメリカからの関係資料の取り寄せと、調査が要求されたが、外務省は拒否している。(『731部隊展 1993.7-1994.12』:731部隊展全国実行委員会編集より)
●マッカーサー
※(…)は【『731』:青木冨貴子著:新潮社】のページ番号
・「天皇制を旧来の形のままで存続させようとする(日本の)支配者のもくろみを許さなかったのは、ソ連だけではなかった。アメリカの世論調査では、天皇制廃止の主張が71パーセントを占め、中国の国民政府も、天皇制の存否は国民投票によるべきだとしていた。国内でも天皇制問題は大きな関心の的となり、新聞、雑誌、ラジオで盛んに討議されていた。」(『昭和史』:遠山茂樹ほか著より)
・マッカーサーは日本に到着する前から、石井の機関が細菌戦の準備や、人体実験をしていたことなどの報告を受けていた。
・バージニア州ノーフォークにあるダグラス・マッカーサー将軍記念資料館には「日本軍の戦争法規違反」と題する報告書が保管されてある。
 終戦前の1945年6月23日付けの報告書には、「連合軍捕虜に対する残虐行為」など、戦争犯罪に問われるべき罪についての詳細があって、細菌戦についてばかりか、石井四郎の名前もしっかり明記されてある。これを見ると、マッカーサーが自分だけの判断で石井部隊に戦犯免責を与えたことがワシントンに発覚すると、元帥の地位も危なくなるほどの綱渡りだったに違いないと思えてくる。それだけの危険をおかしても、マッカーサーは石井部隊の実験結果入手にこだわった。(233)
・「ル―テナント・ジェネラル・イシイはどこにいるか」
厚木飛行場に降り立った時、マッカーサーが側近にこう訊いたと春海(石井四郎の長女)は証言。続いてこう語っている。
「マッカーサーは非常に科学的に方で、イシイなら分かるはずだから聞きたいことがあるということだったのに、側近が誤解して、警察から召喚状が来たもので、石井が巣鴨に拘禁されると、大変だということで、服部参謀などの陸軍省が父を隠した訳なの。それからは私にも分かりません。加茂にも確かにいましたね。何カ所か移ったと思います。日本特殊工業の宮本さんの東北沢のお宅にもいたと思います。その間の根回しは服部参謀がすべてやっていました。」
 石井四郎をめぐって生じた日米トップの誤解が目に浮かぶような証言である。厚木飛行場で先遣隊を迎えた有松精三はマッカーサーの言葉を聞いて驚き、早速、石井四郎を占領軍から隠す画策をした。根回しは服部卓四郎に任せ、その間に有松はウィロビーを通じてマッカーサーと交渉していた様子が手に取るようである。(290)
・ しかし問題は、日本の敗戦後、「禁断の兵器」に取り憑かれた妖怪たちが退治されることなく温存されたことである。細菌兵器のあらがいがたい誘惑が次には戦勝国の軍人たちに乗り移って行った。
 石井四郎は細菌戦に手を染めたからこそ、生き延びたことを知っていただろうか。権力を握るものにとってあらがいがたい細菌戦の誘惑がマッカーサーに取り憑いたため、厚木飛行場に到着した時、彼はこう発したのである。
「ル―テナント・ジェネラル・イシイはどこにいるか」
 その後、マッカーサーが、石井が自宅に戻ることを許し、彼を匿い続けたのは、「禁断の兵器」の強い誘惑のせいだった。
「ジェネラル・イシイの研究はどうしても手に入れたい」
マッカーサーがこう思ったことは疑う余地もない。
一方、本国では終戦とともに終了するはずだったキャンプ・デトリックでの細菌戦の研究続行が決定された。
「小国がいつ何時細菌戦に手を染めるかもしれないからである」
 調査に当たったジョージ・マークは彼の報告にこう記した。小国とは紛れもなく日本のことであり、日本のようなちっぽけな国がこれほどの実験を秘密裏に行っていたのだから、研究を終了すればどれほどの損失がありうるであろう、というのが研究続行の明らかな理由である。
「禁断の兵器」の誘惑に取り憑かれたのは、マッカーサーばかりでなく、トルーマンや国防総省の高官、さらには平房の破壊跡に足を踏み入れたソ連軍とスターリンも同様だった。レオン・N・スミルノフ大佐を東京へ送って731部隊の研究を手に入れようとしたソ連はこれに失敗すると、抑留した12名の石井部隊員を起訴して「細菌戦裁判」を開いた。(356)
・サンダース・レポートにはペストノミに関する記載が一切見当たらない。ペストノミは細菌の運び役として有効だった。風船爆弾やウジ型爆弾への搭載、特攻隊員のバラ撒きなど攻撃の幅が広がったからだ。・・・
さらに驚くべきことに、田中少佐の尋問そのものがワシントンに全く報告されてない。サンダース・レポートに田中の「た」の字も載っていないのだ。・・・・
ここで筆者はある仮説を提示したい。それは田中が提供した情報の価値があまりにも大きかったため、GHQサイドがあえてその内容をワシントンには報告せず、自分たちのチャンネルに情報を閉じ込めてしまった可能性である。
マッカーサーがサンダースに免責付与をあっさり認めた経過についてはすでに触れた。マッカーサーの真意はわからないが、彼がそれなりに細菌兵器を重視していたことの証左と考えられよう。・・・・・一方、3年前の日本軍によるバターン半島攻略戦で、約8万人の米フィリピン軍を置き去りにしてオーストラリアへ脱出、“I shall return”の名文句の残したマッカーサーは、ある意味で追い詰められていた。これ以上の失敗が許されなかったからだ。したがって日本の占領統治は、大統領にも野心を燃やす彼の「復権」を占う重要な試金石だった。そしてワシントンに対して自分の威信を高めるには、占領をスムーズに行うだけではなく、米ソ冷戦の文脈で、軍人らしい成果を示す必要があったはずだ。マッカーサーはその成果のひとつを731部隊の細菌兵器に見出したのではないか。当時はワシントンで細菌兵器の有用性をめぐる議論が続いていた。そして田中の尋問でペストノミという新事実が発掘された。それはサンダースにワシントンに持ち帰られてしまうにはあまりにもったいない成果だった。だからマッカーサーはサンダースとの間で、ペストノミの実態解明を後任者への引継事項とするよう話を進め、結果的にはGHQによる情報独占をもくろんだのではないだろうか。なおサンダースの後を引き継いだアーヴォ・T・トンプソン獣医中佐も結局、ペストノミに関する情報をワシントンへ報告していない。・・・(『731免責の系譜』太田昌克著:日本評論社)
●東京裁判(極東軍事裁判)
・もっとも、東京裁判ではここで裁かれたことばかりが問題なのはなかった。裁かれなかったことの方が、却って問題なのである。その筆頭が石井部隊の細菌戦であったということはいうまでもない。(234)
・トマス・モロウにとって、日本軍の細菌戦は南京虐殺事件に勝るとも劣らぬ、あるいはもっと卑劣な非人道的行為だと考えたのだろう。モロウは中国滞在中、日本の細菌戦の証拠集めを試みた。検察官補のサットンが中国衛生署署長の金宝善博士に面会して関係資料を入手した、と報告書には記されてある。
 サットンはいったいどんな関係資料を入手したのだろうか。私は国際検察局が証拠として集めた膨大な資料の中に、法廷への未提出資料の1つとして、731部隊の支部である中支那派遣軍の防疫給水部、つまり南京の栄1644部隊(通称「多摩部隊」)の細菌戦活動を示す文書が保管されているのを見つけた。
 日本語で書かれたこの文書は、栄1644部隊から脱走し、中国に身を寄せた元部隊員、榛葉(はたば)修が1946年4月17日に記した6枚の文書と栄1644部隊の見取り図である。
 この部隊は一般兵士の健康維持や伝染病予防、居留民に対しての防疫検査などのために設置されたが、コレラ、チフス、ペスト、赤痢などの細菌を秘密に製造し、これらを1942年6月から7月にかけて浙江省金華を中心とした地域に撒布した、と榛葉は丁寧な筆跡で記している。
 その結果、中国軍が急いで撤去し、そこへ進軍した日本軍が撒布地域で小休止、または宿泊したため、中国住民ばかりでなく、日本軍にも多数の被害者が出た事実を明らかにしている。さらに、1943年9月中旬、自分は杭州陸軍病院に赴いたが、同病院には日本軍兵士の伝染病患者が充満し、毎日5名ないし3名の死亡者があり、8月頃には病院の営庭にむしろを敷いて、数千の患者を収容した、と記録している。
「自分は昭和17年5月より18年3月まで防疫給水部防疫科に勤務していたが、聖戦などと云う美名の下に、右の如き非人道的行為を行うのを知りて、部隊を脱走せる者である」
 と彼は脱走理由を明記している。
 サットン検察官補は異常に暑い1946年の夏の東京で孤軍奮闘した。
・続いて、検察側が日中戦争における「南京虐殺事件」に関する立証を開始すると、裁判は再び活気づいた。サットンは現場にいた中国人やアメリカ人宣教師などの陳述書を朗読、証拠として提出した。8月29日午後3時に再開された公判で、サットンは、突然、思わぬ発言をした。彼は「その他の残虐行為に関する件」と言って、次の報告を朗読したのである。
「敵の多摩部隊(筆者・栄1644部隊)は、俘虜となった我ら人民を医薬試験室に連れて行き、各種有毒細菌を彼らの体内に注射し、その変化を実験した。この部隊は最も秘密の機構であったため、この実験によって死亡した人数は明白ではない」
 サットンは単調な低音で朗読し続けた。彼が読み上げた冒頭部分は、栄1644部隊の人体実験に関する調書だったのである。
 ウィリアム・ウエッブ裁判長は途方に暮れ、困惑した。彼はこう尋ねている。
「あなたは有毒細菌による反応を試した試験所の実験について、証拠を提出するのですか。それは、我々判事にとっては全く新しいことで、これまでに聞いたこともありません。あなたは陳述しているのですか?」
 これに対するサットンの反応は意外なものだった。
「我々は、引き続き、この問題に関する証拠を提出しようとは考えておりません」・・・・・・・・・
サットンにすれば、南京事件の陳述の中で、栄1644部隊について朗読する以外、この法廷で日本軍の細菌戦について発言できる機会はない、と考え抜いた末、思い切ってこの調書を朗読したのだろう。いわばゲリラ的にこの問題を裁判記録に残す以外、何もできないと判断したサットンは、裁判長の問いかけに素直に応じ、それ以上の証拠提出を控えたのである。
 ウエッブ裁判長が石井部隊について、さらには日本の細菌戦について、全く知らなかったとしても不思議ではない。まして、栄1644部隊のことなど、彼の頭には全くなかった。しかし、市ヶ谷台での法廷でサットン検察官補の意図を正確につかんでいた人物が1人いた。ほかならぬ首席検事ジョセフ・キーナンである。彼はこの陳述をどんな顔で聞いていただろうか。当然、裁かれるべき日本の細菌戦を取り上げなかったことに、一抹の良心の呵責を覚えただろうか。あるいは、自らの力量の限界を改めて思い知らされたのだろうか。(252)
●昭和天皇と731
・連合国の中には昭和天皇の退位・訴追に対して積極的な国もあったが、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の最高指令官ダグラス・マッカーサーが当時の日本の統治において天皇の存在を必要と考えたため、天皇の退位・訴追は行われなかった。
・裕仁は1926年に皇位に即位する前でさえ、化学兵器や細菌兵器に強い関心を示していたので、これらの部隊がどのようなものになろうと意図してのか知っていたはずである、と議論をする人もいる、軽く見てはならないのは、石井と若松の部隊は、裕仁の勅令によって設立された部隊であるという事実である。他の多くの部隊は、必要とされた時に陸軍の内部で適当な司令官によって設立された。
・裕仁は、熱心な科学の学生であった。彼の海洋生物学への情熱は、よく知られている。批評家は彼の科学的な関心が海洋生物学をはるかに越えたところまで進んだと非難する。彼らは天皇が、そのキャリアの初期において病気を持った菌や細菌、さまざまな培養組織の研究に興味を持つようになったと主張する。
・天皇裕仁は、明らかに、2度にわたって石井の実演を目にしている。1度目は1933年に陸軍軍医学校を視察した折、もう1度は恒例の天皇訪問の際の、海軍の艦船上においてである。石井が濾水機の1つに放尿し、その濾過水を飲み干すよう天皇に恭しく差し出したとされているのは、天皇が視察したそうした折のことだった。・・・天皇はその申し出を断り、そして石井は尿を濾過したその水を見るからに嬉々として飲み干したという。
・軍医中将で元関東軍軍医部長の梶塚隆二によれば、石井は「天皇の軍令」によって1936年に平房の実験を開始する許可を与えられたと言う。・・・・梶塚によれば、その後1939年に、天皇は、石井の特殊部隊を再編成するようさらにもう1つ軍令を発布した。・・・・ 石井が東京の高い地位のところに、ひょっとすれば最も上のところに味方を持っていたことは明らかである。
・軍事細菌研究のさらにもう1つの拠点が長春の第100部隊(部隊長:若松有次郎)であった。作戦任務のための資金供給は莫大かつ無制限だった。部隊は2つの経路から資金を得ていた。すなわち、東京の陸軍省と、関東軍司令部の第2部である。(陸軍省から人件費60万円の予算が、100万円が関東軍司令部の第2部から攻撃的生物戦の研究のために支出された。731部隊の予算総額は1000万円、人件費300万円、20万から30万が各支部の運営費、600万円が細菌製造、実験、研究費用である。しかも731部隊の予算は国会の場で細部を発表されることはなかった。関東軍の獣医将校は、生物戦の資金は底なしだと自分は理解していたと語っている。)
・石井はノモンハン事件の間に彼が行ったサービス業務に対する褒美として、天皇の玉璽の押してある大変名誉な政府表彰を受けた。彼の部隊は、同じ戦闘中における英雄的な行動に対して、天皇から価値ある表彰状を贈られた。このことも、またしても無二の名誉だったのである。他の医療部隊も日本の戦争において勇敢に働いた。それなのに、20世紀において他の医療部隊が天皇の表彰状をその業務に対して受けたことはない。裕仁が、これらの名誉ある賞を与える前に、いくらかの調査を行ったのではないかと疑ってもおかしくない。(非常に多くの秘密の事業に従事しているこの組織のために、陸軍省が、コントロールしていた報道関係者にそのニュースを流す許可を与えたことが、その感状(戦功をたたえる賞状)の件をさらに有名にした。1940年5月23日、『東京朝日新聞』は、石井の写真とともに、部隊の授与された感状の長ったらしい本文を全文掲載した。その感状には、次のような興味深い表現が含まれていた―「同部隊は、あらゆる苦難を克服し〔細菌兵器を使用することによって?〕、以て大兵団の作戦を有利ならしめたるものにして」1940年4月29日、石井は個人的に功三等金鵄勲章および旭日賞を、彼がこれまで日常的に日本に奉仕してきたことを評価するものとして、授与されている。)
・『731部隊-天皇は知っていたか?』と題されたそのドキュメンタリーは、2人のベテランのテレビジャーナリストによって製作された。・・・アメリカ、イギリス、その他の連合国軍の西洋人捕虜が、人体実験の犠牲になったことが暴露された。その上、ドキュメンタリーの製作者・ナレーターは、天皇が満州での細菌戦の人体実験を知っていたことを強く示唆している。
・1930年代において、くるくる替わった日本の内閣においては役目を果たすように〔大臣職に〕任命された軍部のリーダーたち〔石原莞爾、植田謙吉、東條英機、木村兵太郎、南次郎、小磯国昭、畑俊六、梅津美治郎、山田乙三、荒木貞夫、板垣征四郎、土肥原賢二等〕は、誰もが満州で起こっていることを認識していた。参謀本部のスタッフ〔立案者〕とその上司たちは、石井、若松、北野のプロジェクトに精通していたし、細菌兵器の開発研究を助けた。・・・・
 何千人もの、もしかしたら何万人もの陸軍の軍医や獣医、生物学者、化学者、微生物学者、技術スタッフその他の似たような職の人々が、定期的に交代で満州や〔その他の〕中国占領地に派遣されている。(731部隊には専用の飛行場があり、専用の飛行機も複数持っていた。東京⇔ハルピン間を何度も往復して情報交換や物資の輸送などをしていた。また、他の部隊との連絡にも使った。)
・軍部を除けば、外務省が平房での秘密の任務について認識していたことは確実と思われる。それは、ハルピンの日本領事館の地下室がマルタの留置場として使われていたことからも言える。【『731部隊の生物兵器とアメリカ』:ピーター・ウイリアム/デヴィド・ウォーレス=著 西里扶甬子=訳 65頁】
・東久邇は早い時期に、平房の施設を旅先で訪れている。
・1939年2月9日に、裕仁の弟である活発な秩父宮は、陸軍省の大会議室で、2時間半にわたる石井の「雄弁な」講演に出席した。
・天皇の一番下の弟である三笠宮は、施設の多くに立ち寄った。
・竹田宮は関東軍の首席主計官として、満州におけるすべての細菌戦の関連施設に割り当てられる金を扱った。・・・また、平房〔の施設〕に立ち入る際には竹田宮・宮田が発行した通行証を求める必要があった。関東軍司令官もしくはその直属の部下が731部隊を訪れるときは、竹田宮自身が彼らの一行に混じって彼らをエスコートした。
・天皇は、その倹約〔の精神〕でも知られていた。彼は常々、役に立たないもしくは取るに足らないプロジェクトのために、政府の支出が無駄に使われないよう懸念していると表明していた。細菌戦のプログラムは、国の資源の大規模な乱費であった。第2次世界大戦中、平房、長春、奉天、南京の主要な基地および多くの支部施設は、少なくとも1500万円から2000万円、多分それ以上の年間予算を食い潰して機能していたに違いない。天皇が軍事予算を詳細に調べたなら、満州やその他の中国における何千もの人員の滞在は、天皇にとって関心事だったはずである。裕仁はまた、特別の武器研究にその使途を限定された秘密の帝国予算を持っていたが、それが満州や中国において細菌戦の研究に使用されていても何の不思議も無い。
・裕仁は細菌戦の研究については知っていたのだろうか。おそらくイエス、であろう。このプロジェクトは、単純に、天皇の目から隠しおおすには、大規模すぎた。費用も、天皇の政府費用に対する鋭い関心から逃れるには巨額すぎた。・・・・最終的に、大日本帝国において、政策決定は政府の最高レベルで行なわれるべきものであって、陸軍の将軍たちの気まぐれでできるものではなかったのである。
・しかし、第2次世界大戦の多くの参戦国のなかで、細菌戦および化学戦(毒ガス)の双方を戦場で行なった国は日本だけであるという事実はあまり知られていない。これらの兵器は、本国だけでなく占領地のあちこちに設立した研究施設で開発されたのである。首都東京でも例外ではなかった。東京には細菌戦研究施設の本拠地の1つがあった。研究所は実質的には死の工場であった。国の内外を問わず、いくつかの研究所では強制的に人体実験が行なわれたのである。そうした行為は、日本軍を有利に導く兵器を是が非でも開発するという強い使命感によるものだった。これらの実験のために、何千人というさまざまな国籍の人々が拷問にも等しい苦痛を強いられたのである。そして、細菌戦・化学戦の研究に役立たなくなった被験者は「いけにえ」(「殺す」の婉曲表現)となり、検屍解剖が行われた後、穴の中に捨てられるか、各実験施設に併設された特殊焼却炉で焼かれた。人体実験の被験者には戦争捕虜も含まれていた。彼らは本国及び占領地で、医師や研究者によってさまざまな病原体実験を施されたのである。
※イタリアは1935年のエチオピア侵略で毒ガスを使用。ナチスドイツもスペイン内戦(1936年-1939年)で毒ガスを使用した。(以上『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳より抜書き)
※ハリスは天皇は絶対的君主ではなく、軍部に対して受身的な役割を演じたと述べている。
また、天皇は人体実験については知らなかったであろうと言っている。
 私自身はこの見解に大きな疑問を感じている。
・731部隊の組織犯罪については、関東軍という日本陸軍の一駐留軍の指揮命令系統下にあった。部隊そのものは関東軍司令官の直轄であり、あらゆる人体実験も形式上は司令官の命令無しには行なわれえなかった。また、731部隊以外の「防疫給水部隊」(北京、南京、広東など)も日本陸軍の中国派遣軍の指揮下にあった。日本陸軍を統括していたのは陸軍省であり、その上には天皇がいた。したがって731部隊の人体実験の最終責任者も天皇である。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第3文明社)
・終戦 (ウキペディアより)
1945年8月9日にソ連軍が満州に侵攻すると、大本営作戦参謀の朝枝繁春は、731部隊の石井四郎隊長に8月10日新京で会い「人間を使って細菌と毒ガスと凍傷の実験をやったことが世界にばれたらえらいことになり、(戦犯訴追が)直に天皇に来る。貴部隊の過去の研究ならびに研究の成果、それに伴う資材、一切合財を完璧にこの地球上から永久に抹殺・消滅・証拠隠滅してください」と告げたと1997年のテレビ朝日のザ・スクープの取材に答えている。 そのため撤収作戦が実施され、施設は証拠隠滅のため根こそぎ爆破、400人を超える人体実験のため収容されていた捕虜は全員が毒ガス等で殺され、死体を焼き、その灰は川に流された。
・(参考)第731部隊を撤収する時、上官の命令は「貯金通帳などはもはや紙切れも同然だ。731と確認されるようなものは一切焼却せよ。一切痕跡を残してはならない」「引上げ荷物はなるべく身の回りのものだけにせよ。荷物は2つだけ」。そう言われて私たちは家具や調度の大事なものは一切残すか焼却し、つましい生活で貯蓄してきたお金も捨てた。釜山だったと思うが、朝鮮銀行で千円渡されただけであった。さらに、新京と釜山でも、「731の痕跡をとめるな」の厳命のもとに、手に持っているものを2度に渡って焼却させられた。私たち夫婦に残ったものは、着のみ着のままのほかには、息子憲一の骨箱1つと憲次のおむつが残っただけであった。
 これが8年間にわたる軍への奉公の総決算であったのだ。ところが、金沢から東京・千葉へのトラック輸送で、私たちが危険を侵してまで運んだものは、焼却を命じた最高幹部の豊かな私財と、貴金属を含む高価な実験用具などだったのである。
 その後幹部は、帰郷すると一切言わざる、見ざる、聞かざるで、すべてノータッチであった。内々の連絡はあるようだが、幹部内の情報は私たち下々の者には一切伝わってこない。
 私たちに与えられた任務は、今にいたるも次の3項目で、その後解除することもなく、今日に続いている。
 1、郷里へ帰った後も、731に在籍していた事実を秘匿し、軍歴をかくすこと。
 2、あらゆる公職には就かぬこと。
 3、隊員相互の連絡は厳禁する。 
である。今でも私の目にこびりついているのは、平房を去る前、石炭山に軍刀を抜き、仁王立ちになった石井隊長の鬼気迫る形相である。隊長は全身を震わせ声をはりあげた。
「秘密は墓場まで持っていけ、もしバラすような事があったら、この石井はどこまでも追いかけるぞ」と。(越定男著『日の丸は紅い泪(なみだ)に』より
●太平洋戦争中のアメリカの声明
・フランクリン・D・ルーズヴェルト大統領が、1943年には、日本の細菌兵器及び化学兵器による攻撃を非難する声明を出した。
もし、日本がこの非人道的な戦闘方式を、中国に対してでも他のどこの連合国に対してでも採用し続けるならば、当政府はそのような攻撃を、アメリカ合衆国に対して行なわれたものとみなし、全身全霊をかけて最大限の報復を日本に対してなすであろうことを間違いなく明確にしておきたいと心から願うものである。
●53年目の入国拒否
98年6月25日、アメリカ・シカゴのオヘア空港。ピーっという電子音が突然、入国審ゲートに響き渡った。成田発のユナイテッド機で到着したばかりの731部隊元少年隊員、篠塚良雄(1923年生まれ)のパスポートが識別装置を通った瞬間だった。・・・・このナチス戦犯対策の法的根拠が96年になって、日本の戦犯犯罪にも適用されることが明確に打ち出された。米司法省は12月3日、731部隊の元隊員、関係者と従軍慰安婦施設の維持・管理に関与した関係者など70-80代の男性16人について、過去の非人道的行為を理由にアメリカ入国を禁止する、と発表した。
半世紀を過ぎての断固たる措置だった。日本軍を対象とする研究者や人権団体の調査が90年代に入って進み、司法省が追随したと言うのが表向きの理由だ。・・・・・・・・731部隊を免責したのもアメリカ、篠塚の入国を拒否したのも同じアメリカだ。戦犯免責して見返りにデータを根こそぎ独占、内藤らとは戦後も友好関係を結び、多くの関係者の入国を平然と認めてきた。そして主要な部隊元幹部が何も語らないままこの世を去った今になって、中国で罪を償った下級隊員が法の名の下に制裁措置を受ける。
憤った日本人支援者の1人は彼の帰国後、ローゼンバウム部長に国際電話をかけた。「アメリカは石井ら部隊幹部を免責したじゃないか」。この問いかけに対しローゼンバウム部長はきっぱりこう答えたそうだ。
過去の政府の判断は、現在の政府の判断を左右しない。(『731免責の系譜』太田昌克著:日本評論社より)