~これまでの経緯など~5 | ★小細胞肺癌の父と家族の物語★

★小細胞肺癌の父と家族の物語★

2013年5月に小細胞肺癌(Ⅲb)と診断され、その後脳転移、そして2014年6月には、骨転移と癌性髄膜炎にもなり、同年8月7日父自身の誕生日が命日となりました。最悪な状況の中でも、最期まで前向きに諦めなかった父と、その家族の日々の出来事などを綴っていきます。

★2014年3月31日・・・今日は検査の結果日。

そして脳に転移してると、先生から告知される日でもある。


とにかく気が重い。


母は精神的にやられてしまい、先生に呼ばれるまでの間、お腹を壊し何度もお手洗いを往復。


30分ほど待って、ようやく呼ばれてまずは肺の方の説明。


腫瘍が小さくなってるどころか、ほとんどなくなってる状態で驚いた!!



そして脳の転移について・・・


脳の腫瘍の数は、見える所では全部で10個。

   

でもかなり大きなものもあって、片方の脳の3分の1を覆う感じで、もう片方の脳に、2個の大きなのが圧迫してるようだった。


大切な機能の部分を、大きな腫瘍が邪魔してしまってる為、繊細な部分で傷つく可能性が高く・・・


手術は出来ないと言われた。

今回も父は治療を頑張りたいと言ったので、抗がん剤で治療することになった。

脳はバリア機能があるので、もしかしたら効かないかも知れないけど


少しの可能性にかけて

シスプラチン+エトポシド

でやる事になった。


もしこれで効かなかったら薬を変えてやってみましょうと!!



先生は

『今日から入院した方がいいです!すぐに治療が始められるから』

と言ってくれたものの、準備をして家でゆっくりと過ごしたいという父は

『月曜・・・来週の月曜日でビックリマーク

と約1週間後でお願いする。



母も旦那も『え?』って言う顔をしたが、私は進行が心配だったが、今まで頑張って来た父の気持ちを尊重させてあげたいと思い、先生にお願いしたら

『家でのんびり、好きな事をして過ごしてもいいと思います。でも何かあったら、すぐに病院に来て下さいね』

と言われ今後の治療の事なども話して、病院を後にする。


父は帰りの車の中で、初めて泣いた。

私も泣いた。




★2014年4月1日・・・私と旦那、妹夫婦で先生との話し合いが始まった。


余命とか知りたくない!!

とずっと言ってたのを、もし言ってしまえば性格上自暴自棄になってしまうと、みんな分かってるので、今後も父には言わない方向でお願いした。


やはりこの状態だと、圧迫がされて悪化すれば、数週間~1ヶ月ぐらいだと・・・



1ヶ月・・・もう時間がない。


腫瘍が脳幹や小脳に、かぶさるようになってるので、抗がん剤も脳の腫瘍への期待は、ほとんど出来ないだろうと言われた。


『でも今まで抗がん剤がよく効いてくれてたので、万が一脳の方にうまく入ってくれたら、多少延命に繋がってくれるかも知れないです。確率は少ないかも知れないですが、○○さんはまだ体力もあるし、ご本人のやる気があれば、可能性にかけてみるのもいいかも知れないですね。』



これ以上苦しい治療を続けさせるのは、もう止めた方がいいと私は正直思った。


でも父にはどんな治療でも、積極的に続けたいと強く思う理由と、目標があった。


父が溺愛する孫である、妹の子供(7月で2歳の男の子にひひ)が、小学校に入学するまでは、絶対に生きたいと!!

 


そして好きな色のランドセルを、買ってあげたいという目標がある


少しの可能性にかけてみようビックリマーク




先生とみんなの意見は一致で、脳への抗がん剤治療をする事が決まった。



~6へ続く~



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