人気ホームページ「動物園・B級スポット大好き! ~ARAKAWA'S HOMEPAGE~」を運営されていた、友達である荒川聡子さんが今年の4/20に亡くなりました。
http://www.arakawas.sakura.ne.jp/
訃報を最初に聞いたときには、たちの悪い冗談にしか聞こえませんでした。少し前まで元気そのものであり、実際にやりとりをしていたのですから。しかしそれは紛れもない事実であり、残念で、驚き、とても悲しく感じました。そんな荒川さんとの思い出を、つらつらと書いてみます。

荒川さんと初めてお会いしたのは2006年の12月。当時、廃墟と樹海趣味に目覚めたばかりの自分が参加した、週末探検隊の忘年会兼クリスマス探索で、西伊豆にある通称「合宿所」というコテージに宿泊した時のことでした。テンションが妙に上がった中学や高校の修学旅行のようなノリに、さらにアルコールが入った状態で、とてもバカバカしくも楽しく過ごしたのですが、初めてお会いした荒川さんはいつものようにニコニコと早口で様々なB級スポットや廃墟のことを話していたのを覚えています。たしか週末探検隊隊長のBaroさんから「『ワンダーJAPAN』というおもしろい雑誌で連載している人なんだよー」と聞いた記憶があるのですが、まさかその雑誌で自分たちも書くことになるとは、まだ夢にも思わない頃の話です。
早朝からの持越鉱山探索の後に、日本海軍が本土決戦用に構築した海龍(特攻用小型潜水艦)や震洋(爆弾搭載特攻ベニヤ板製ボート)の地下基地を訪れたのは、荒川さんから詳細な場所を教えていただいたおかげでした。

荒川さんと探索をしたのは実はその一回だけで、それ以外は街中でちょくちょくお会いしていました。ジュンク堂書店新宿店などで不定期に行われる廃墟イベントや、廃墟や出版関係者の飲み会で何度もお会いし、比較的近所であり帰る方向も一緒であることから、やはり毎回廃墟やB級スポットの話を熱く楽しくノンストップでしながら、JR中央線に乗って帰ったのをつい数日前に起きたことのように覚えています。

いつもニコニコしている荒川さんでしたが、いざという時の「キラー荒川」を感じさせるエピソードもあります。前回の東京都知事選挙に無政府主義者外山恒一が立候補した時。ニコニコ動画などで「スクラップアンドスクラップ」「もはや政府転覆しかないっ」などの過激な政見放送とその改変動画で実際の外山に興味を持ち、荒川さんたちと高円寺駅前で開票速報をみていたときのことです。野次馬や支持者が集まって和気藹々とした雰囲気の中、突然泥酔して意味不明な発言を繰り返すおっさんが、外山のところに接近。一瞬で危険な雰囲気に。「やべー事件かも」と思い荒川さんを見たら、ものすごく目をきらきらさせて何が起きるかワクワクしながら見て「おーーーっ!」と喜んでいたのが、今でも印象に残っています。本当に危険なものも含めた「面白いもの好き」でした。ちなみに泥酔おっさんは元全共闘の闘士(自称)で、政府をぶっ壊すなどといいながら外山に絡みつづけ、結局また穏やかな雰囲気になりました(ちょっとうざそうだったけど)。

「荒川さんが亡くなったという噂があるけど、何か知っている?」、という話を電話で聞いたのは今年5月の上旬ごろ。まさかと思いながら、インターネットで検索をかけると、荒川さんのバイク仲間と思われる人が詳細な書き込みをしていて、本当に事実だということが分かり、ものすごいショックを受けました。

後日、ご遺族である荒川さんのお母様の承諾が得られたので、週末探検隊のメンバーとお線香をあげにご自宅を訪れました。祭壇にはいつものような荒川さんの笑顔。そして祭壇を埋め尽くす、変わった観光お菓子や変なジュース、そして自分も執筆した『廃線跡の記録2』。本当に荒川さんらしくてついにやけてしまいました。芳名帳もマイミクの友達から、直接会ったことはないその道の著名人などが多数記入していました。その日も、朝から訪問客が絶えることがなく、自分たちが訪れたときもB級スポット仲間の女性と一緒にご自宅を訪れました。

お母様からお聞きしたのは、東日本大震災の被災者をとても心配し、自分も何かできないか考えていたこと。震災以降、計画停電や電車の間引き運転などで、離れた町に変わった職場への通勤時間がかなり延びたり、泊り込みが増えていたこと。そして何よりも、疲れがたまっていたこと。そんな中、4/15の勤務中にくも膜下出血で倒れ、そのまま20日に亡くなったということでした。
「頑張り屋だからつい無理しちゃったんでしょうねえ。疲れても『患者さんが待っているから』って。ずっと健康で休みのたびに、バイクで走り回っていたぐらいだから、過信しちゃったんでしょうね」。そう荒川さんのお母様はおっしゃっていました。広い意味での、震災犠牲者だったと言えるかもしれません。
最後に荒川さんのご遺影に心の中で別れを告げ、マンションのエレベーターに乗り込もうとした瞬間に、どうしようもなく悲しみの感情があふれ出てきました。「ああ、もう荒川さんとは会えないんだ」という。

荒川さんは自分よりも年長でしたがいつも「かもすくん」と呼んでくれ、誰でも分け隔てなく接していました。そして異常なまでのバイタリティと、面白がりの精神で、きっと100歳ぐらいになってもそのまま面白いばあちゃんとして、バイクで走り回っているんだろう、と確信にも近い思いがありました。その人がもういない。生き残った人間は荒川さんの分も生きて、面白い経験をして発表することが、遺志を受け継ぐということなんだろうと荒川さんと交流のあった自分は思います。

荒川さんはネットの百科事典Wikipediaにも掲載されていましたが、ほとんど何もない状態でした。しかし亡くなってから、自分も含めた様々な人が毎日のようにエピソードを書き加えていき、今ではどんな人だったかよく分かるようになりました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%92%E5%B7%9D%E8%81%A1%E5%AD%90_%28%E7%8F%8D%E3%82%B9%E3%83%9D%E3%83%83%E3%83%88%E6%84%9B%E5%A5%BD%E5%AE%B6%29

最後に、私は荒川さんのことを悪く言う人を見たことがありません。本当に人望のある人だったと思います。荒川さんのご冥福をお祈りしたいと思います。

※この記事は自分の記憶を元に書いています。ご了承ください。