It became it so why

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VF5Rブログではなくなりました。

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 手フェチの子に「あなたの指が食べたい」と言われてから早3、4年経ったろうか。
私はある程度付き合う前にその相手との終わりの画が見えてしまう、だいたい相手が泣いて終わる。
実際に泣くパターンもあるし、泣きを見たっていう意味もある、あからさまに泣かすような鬼畜な事をしてる訳ではないし、そんな遊び人でもないが。

どっちにせよ相手を不幸せにして終わる、ある意味私から離れる事は幸せな事かもしれないけれど。

そもそもは自分が幸せになる画が見えない、そもそも自分が幸せになるという事は画で予見するモノなどではなく、結果論で「幸せだな(だったな)」って相手と共に創り上げていくモノなのかも知れない。そういう意味でも私は常識が無い、社会性、公共性、他者とのコミュニケーションの取り方の根本なんかに何か問題があるとも思う。
勿論普通に社会生活はしているけれど何か欠けてるんだと思う。





その一端に【正論を受け入れられない】というモノがある。

ど客観的に見て正論というモノは倫理的に正しい、一部ダメな世界ではそうでもないとしても、一般社会においては、一万円のが千円より価値があるってぐらい不動な正しさだ。



じゃあそれが絶対なのか?

いや絶対だとして何故万人がその絶対を受け入れなければならないのか?

そう決まっているから?

それを破ると世界の原理原則が崩れるから?


この時代に「じゃあ聖人君子をのたまうあなたは一度も赤信号無視した事ないんですか?」とは言わないけれど、私のへばった脳では、人を人が殺してはいけないって事以外、本当に何が悪で本当に何が正義かなんて説明できないし証明もできない。

はっきり言えば今愛する人が居たとして、私はその相手が嫌がる事はしないだろう、その一点のみが私の倫理になり正義になる。社会の中に自分達がいるからそのルールは守る、守るけど絶対であると認めるのは別の話だ、極端な話何かいろいろ法的に許されてる国とかもある訳だし。他人を傷つけなければおおよそOKくらいの感覚というか。

にも関わらずだ、その感覚でありながら相手はどう思ったかは今や解りようもないけど、自分なりに何人かの相手を傷つけてきてしまってる自覚はある。そして今度こそは傷つけまいって強く誓えない自分もいる。

意思の弱さ?
無知?
心がオカシイ?



たぶん全部だ、いやもっと問題だらけだ、でも人間なんてそんなもんじゃないの?
ソレを知っていくのが人生でソレを理解していく為にいろんな人との出会いがあんじゃないの?
その過程で人を傷つけるっていうのはお互い様で誰が悪いとかじゃないような気がする。
ついでに自己正当化する訳じゃないけど正論に対応すべき適正年齢があるとかはナンセンスだと思う訳です。70だろうが80だろうが二十歳だろうが未熟は未熟で、完熟な人間って何だよ?って。



だからこそ死ぬまでにその未熟さを共有して生きていく相手がたった一人見つかれば、それはとても幸せだと思う、でももし見つからなかったとしてもそれは不幸せとは言えないとも思う。


生きていけば途中途中に失敗や成功はあって、失敗を嫌い成功を望むのは人それぞれだろうけれど(私は失敗が100%嫌だとは思わないが)人生が終わる時には正解も不正解もないと信じているから。