• 30 Nov
    • 鹿島茂”悪女入門”/ファム・ファタルとしての星野源

      フランス文学概説を履修した時に、フランスの小説や評論をいくつか読みました。そこで必ず出てくるのが、ファム・ファタル論です。 男を惑わす宿命の女。 こういったファム・ファタル論は、もちろん読んでいて楽しいものですが、物足りなさもありました。当然といえば当然ですが、ここで語られるのは、客体として眺められる女性たちばかりです。というわけで、今回は女性として、男性を勝手に眺めてそのファム・ファタル性を一方的に決めつけて語ってしまおうという独断と偏見に満ちた記事を書きたいと思います。 ファムファタルについての教科書は鹿島茂先生の『悪女入門』。以下、引用はページ数つけます。 そして、今回のファム・ファタルは、星野源さんです。(え、オム・ファタルじゃないのって?ええ、そうなんです。その理由はあとで。)(以下、画像はご本人のofficial twitterより)(*なお、私は洋画ファンではあるのですが、日本の俳優さん事情には全く疎く、星野源という俳優さんを知ったのも今回初めてです。というわけで、以下の文章は私の勝手な想像と決めつけです。とても人気のあるアーティストのようなので、いやいや、源さんはそうじゃないんや、というファンの方いらっしゃったら、ぜひあれこれ教えてください。) 少し前に、職場の若い人たちに「逃げ恥」というドラマを熱烈に勧められて、遅ればせながら鑑賞した。いや、これはずいぶん相当なファム・ファタルをめぐるドラマである。 ごちゃごちゃした設定をすっとばして構造だけを言うと、表面的には、主人公の男女2人が、恋愛に奥手ながらももじもじと距離を近づけていく、という話なのだが、このドラマには裏のシェーマがあるように見える。難攻不落のファム・ファタルである星野源を、我らがエース新垣結衣ちゃんが落とそうとするのを手に汗握って見守る、というのがそれである。 え、こんなに愛らしい童顔の青年がファム・ファタル?と思われるかもしれないが、ファム・ファタルは少女のようなあどけなさをまとった姿であらわれる(P.40)、とテキストにもあるとおり、この容姿や佇まいがまずはファム・ファタルの典型なのである。カルメンシータのように、ファム・ファタル然とした妖艶さで登場するファム・ファタルがむしろ例外なのだ。 また、うちの職場の若い人たちは、星野源は「彼氏感」がある、と言う。いわゆるイケメン芸能人は、高嶺の花、という感じがするが、星野源はごく普通の容姿なので、すぐ隣にいてくれそう、彼氏彼女として付き合えそう、という感じがすると言うのだ。 とんでもない勘違いである。恋愛道場白帯である。 たしかに星野源は、笑うととても優しそうな顔になる。背格好が小柄なのも威圧感がなくて好ましい。しかしそのことと、この男を落とせるかどうかは全く別次元の問題である。女にとって、この手の男はどうにも落としづらい、落とすためのテクニックが通用しない難攻不落の男なのだ。 だが、この「受け入れてもらえそう感」もまた、星野源をファム・ファタルたらしめる要因の1つである。ファム・ファタルはマノン・レスコーしかり、カルメンしかり、娼婦に近い性格を持っている。ここで言う娼婦に近いとは、自分を受け入れてくれそうだ、という感じを相手に抱かせやすい、という意味だ。 星野源が「受け入れてもらえそう感」を持っているのは、その容姿もさることながら、おそらくコメディアンとしてたたき上げの技量を身に着けているからであろう。 コメディアンの文法としての身体表現スキルを身に着けていることは、ドラマの温泉旅行の回を観れば分かる。例えば、慌てふためく演技として、素人ならば身振りや表情で慌てた様子をあらわすだろうけれども、星野源は声のヴォリュームの大小だけでそれを表現している。プロのコメディアンの技術である。 そして、複数の人向けにプレゼンをしたり、大勢の人向けに講演や講義をする人は頷いていただけると思うが、人前でパフォーマンスをして受けるコツは、オーディエンスに対して包容力を持つことと、しっかりサービスすることである。(これは有名なコメディアンのSimon Peggも似たようなことを言っていたので、やっぱりね、と意を強くしたことがある。) コメディアンは包容力があるのだ。  それだけではない。さらに、星野源は歌を歌う。 歌を歌うのは、求愛行動でもあり、それは強烈なexpression(テキスト p.78)でもある。オペラのドン・ホセは、カルメンの「ハバネラ」で完全に落とされるが、ドラマ”逃げ恥”を観ている女性観客は、奥手な平匡さん(役名)が、突如堂々と歌い始めるあのエンディングで、虚を突かれるだろう。ファム・ファタルにはコントラストが必要なのだ(テキスト P.94)。 星野源は基本的に対人関係ではフランクでライトな態度をとりつつ、いざ女性と水入らずになって口説くとなったら、がらりと豹変して抜け抜けと口説いてくるタイプなんじゃないだろうか。(もっと細かく言えば、実際はこういう男は女から迫られるタイプだが、もしその気になれば、本人も堂々とストレートに女を口説けるタイプであろう。)そんなことを想像させるエンディングである。そして、女性はそういう男に弱いのだ。 おまけに歌われる歌は、AメロもCメロも耳に優しい、心地よいメロディでありながら、Cメロ部分では、裏から入るリズムが多用され、巧くタイミングを外してくる。最初は優しく誘われて、うっとり心地よくさせられながら、だんだん盛り上げられてくると、随所でタイミングを外され翻弄され、ファルセットで高みに押し上げられた末に、最後のメロディの解決で、しっかりと抱き留められ、優しく抱擁されるのである。 「星野源なんて、どこが良いの」と男性が女性の前で言うのは、よほどじゃない限りよした方がいい。そういうあなたは、これほどうまく女性を抱けるだろうか。あなたの仕事ぶりや、ちょっとした他者への接し方、何気ない日常会話の端々からもれる価値観から、どういうセックスをするのかなど、丸見えなのだ。 とはいえ、男性が星野源がなぜモテるのかと不思議がる気持ちも分かる。男性は、同性との競争の優劣がそのまま異性への魅力のバロメータになると思う(p.136) そうだ。星野源の華奢な身体つきや、へらへらした態度を見れば、男性は、こいつになら喧嘩で勝てそう、と本能的に感じるのではないだろうか。 男同士の喧嘩で負けそうな星野源が、なぜ女性にモテるのか、納得いかない、というわけであろう。男性としての自己愛が傷つくのである。 その点、糸井重里がほぼ日の中で、星野源のセックスアピールを解説していたのはさすがである。モテる男は、女性が男性のどこに欲情するのかを知っている。 一方、星野源がモテているのを見て自己愛が傷つく男性は、その時点ですでに星野源にビハインドをとっている。なぜなら、星野源は、そういう男性の、どっちのファルスが大きいかなどという単純な自己愛などとっくの昔に捨て去っているからだ。(でなければプロのコメディアンになろうなどという必然性が生まれない。)そういうちっぽけな自己愛を捨て去っているからこそ、星野源は堂々と女を口説くのである。そして女性は、日々うんざりさせられ続けている男の自己愛がない男性に堂々と口説かれて、落ちないわけがないのである。 そういうわけで、星野源のファム・ファタルらしさは、その「受け入れてもらえそう感」を感じさせる垣根の低さと、一転して水入らずになった時には男性らしい押しの強さを持っているだろうと思わせる、そのギャップである。 ただ、それだけではファム・ファタルとは言えない。手に入りそうなのに、なんなら、付き合うこともできたのに、本当の意味では手に入れることが出来ないタイプの男である、ということ。(通俗的に言えば、たとえ付き合っても結婚まで至らず、長い春で終わるタイプ。結婚したい女性には命取りの男だ。)これが星野源がファム・ファタルである真の意味である。 いわゆるイケメンだからTVに出てる、みたいなタイプの男性は、モテることは間違いないが、女性にとっては落とす道がないことはない男性である。別に芸能人に限った話ではないが、イケメンなりエリートなりは、落とす方法がないわけではない。女性の方も見た目を綺麗にして、清潔感を保って、いつも明るく落ち着いて、男性の自己愛と自尊心を満たすような女であることを演じればいいのだ。自分が優良物件であることを示すのである。男の自己愛の満たし方は、教科書では90頁あたりで解説されているし、第9講「スワンの恋」は、男の幻想の満たし方について、事細かく解説されている。 しかし、星野源みたいなタイプは違う。先述のように、そういう表層的な自己愛はとうの昔に捨て去っているのだから、そこにアプローチしても無駄なのである。別な言い方をすれば、彼の持っている"物語"が通俗的ななそれ(勤め先を見つけて、適齢期になったらいい人と結婚して、家庭を築く)とは違う、ということが、星野源を女が落とせない決定的な理由である。 星野源はイケメンだからスカウトされてTVに出るようになったのではない。他者から全く求められていない人生を生き、むしろ拒絶され、孤独の中でどうしても歌を歌わずにはいられなかった、いろいろな人生を演じずにはいられなかった、そうしなくては生きていけなかったのである。そういう人が心の奥底に深く丁寧に隠してしまっている傷口と、生きることに対する乾いた諦めと、それでも捨てきれない今生のいのちへの切ない愛を感じられるだろうか。 そういう男は、そろそろ適齢期になって来たな、というわけで、見た目が良くて賢くて気が利いた女性と出会ったら、よし結婚を決めよう、というようなタイプの人生の選択をしないのだ。そういう選択の典型例。 星野源は、女性にとっては、落とす手立てがない男のである。 しかしそれではつまらない。ファム・ファタルが目の前にいるのに指をくわえてみているだけでは、気持ちがおさまらない。そこで、私たちの期待の星として、新垣結衣ちゃんが星野源を落とそうと奮闘してくれるのを、我々が応援する。それが、”逃げ恥”の裏のシェーマである。 ++++ところで、ここまでずっと星野源をファム・ファタルと呼んできたわけだが、それはドラマの中で星野さんが演じている役がいわゆる「ヒロイン」枠だからである。ドラマの中では、恋愛に奥手な男女が、と先に書いたが、より奥手な方が男性の登場人物である「平匡さん」で、比較的積極的で相手を落としにかかるのが、新垣結衣演じる女性の登場人物「みくりさん」である。伝統的な意味での「ヒロイン」に、男性キャラクターが配置されているのは、最近のアメリカのブロックバスターではよく見かけますが、日本でもあるんですね。 「平匡さん」がヒロインであることは、演技でも示されている。「平匡さん」と「みくりさん」が2度目にキスをする前に少し目をそらして恥じらいを見せるのも、キスをした後に軽く唇を噛んで、緊張に耐えるのも「平匡さん」の方なのである。こう書くと、気持ち悪い男のように感じられるかもしれないが、星野源は絶妙な匙加減で、男性のヒロインを巧く演じている。 そもそもファム・ファタルとは、19世紀末のデカダンスの時代に、それまでのマッチョな男性らしさを失ってきた男性が、積極的に誘惑してくる女性を恐れるようになって生まれた概念だそうだが、それが21世紀になって、あくまでもヘテロセクシャルの男性キャラクターがヒロイン枠に配置されるようになる、というのは面白い。 そういう意味でも、”逃げ恥”で主人公を演じる星野源は、21世紀のファム・ファタルなのである。 ちなみに、「平匡さん」と「みくりさん」の1度目のキスシーンのときの星野源の手の動きが面白い。新垣結衣の手を握りながらキスをした後に、親指で彼女の手の甲をすっと撫で、その後にさっと指をひいているのだ。これは、恋愛に奥手なヒロインである「平匡さん」にはそぐわない演技であるため、星野源のアドリブないしつい出てしまった行為ではないかと思う。(だからさっとひいている。)親指で、女性の身体を撫でるのは、その先に進もうと彼女の心を開かせるための行為か、終わった後に彼女の身体を愛おしむための行為なのだから。

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  • 20 Nov
  • 18 Nov
    • ”卒業”(1967)は遠くになりにけり

      以前紹介した、独自の映画のポスターを1日1回アップするサイトですが、今回"The Graduate"『卒業』が出ていました。背景のコーラルピンクとタイツの色味の組み合わせが絶妙で、、ほんとセンスいいなあ、とうっとりします。が、この作品に関しては、女性のおみ足の後ろに、ベンジャミンらしき人影などを加えて頂きたかった次第。 なぜなら、対象とカメラの間に、別な対象がぬっとフレームインする、という構図が、この映画で大事な点の1つだからです。こういうふうにね。 このフレームインがこの作品では多用されているんだけど、たぶんそういうカメラワークで、相手の本質を見ようとしない、ないし見ることが出来ない不毛な関係性を表現している。 などと、偉そうに言っておりますが(笑)、こんなふうに構図に着目してこの映画を観ると良い、と教わったのは慶應通信の講演会です。映画がご専門の先生から、カメラワークや構図の作り方、その意味を教わったのですが、題材として選ばれていたのがこの『卒業』でした。 その授業は本当に楽しい時間で、さっそく帰り道に『卒業』のDVDを借りて初めて観たのですが・・・、え?有名な映画だけど、…こんな映画だったの?とあっけにとられたのを覚えています。 なぜならば。少し話は回り道になりますが、ちょっと他の本の話を挟みます。 先日、いつも拝読しているブログで『抒情するアメリカ』という本が紹介されていました。早速読んでみたのですが、いや本当に面白い。「抒情」をキーワードに、代表的なアメリカ文学を読み解く本です。この本の中で、「涙」の表現の仕方、という切り口から、いろいろなアメリカの小説を比較する、という部分がありました。 ここで話は『卒業』に戻ると、「涙」という観点でいえば、この作品に出てくる主要登場人物の多くは涙は見せない(除:たしか、ロビンソン夫人の娘)。もっと言えば、この作品に出てくるおおかたの人物は、演技上でその「感情」を明確に表さない、という演出がされています。 かわりに、画面の構図で、彼らの閉塞感や倦怠感、未来の見通しの持てなさ、絶望感などが表現されているわけです。 だから、表面上の演技的表現としては感情については極端にミニマムに表現されている一方で、その実、観客側がこの映画で主に感じ取るのはその奥にある感情、ということになる。そういう意味で、この"卒業"も代表的なアメリカの抒情的作品、と言うことができるのかもしれません。 なのですが、ここで1つ問題が。 この作品、当時リアルタイムで観ていた人がどう観ていたか知りませんが、今(2016年)の目で見ると、ミスリーディングする可能性があるんじゃないかと思うんですね。 というのも、この主人公ベンジャミンですが、キャラクターに付与されている行動の特性と、キャストされているダスティ・ホフマンの演技の方向性との両方のケミストリーで、なんだかどうも、Autisum Spectrumに見えてしまうんですよね。 例えばベンジャミンは、ロビンソン夫人の愛人でありながら、あっさりと夫人を捨て、直後にその娘の方に乗り換えようとする、という非常に利己的な行動をするわけですが、その行動が、若い男の身勝手さ、というより、空気が読めないがゆえの唐突な行動、みたいな感じに見えるんです。(これは主に、ダスティ・ホフマンがイケメンオーラ、映画スターオーラを全く消しているために生じている現象だと思います。格好良さが少しでも出ていると、男の我がまま、みたいに見えるんですが、そういうオーラを全く消しているために、結構キモい感じに寄ってしまっています。) それから、ロビンソン夫人とホテルの部屋にいる時も、娘とデートしている時も、基本的にベンジャミンは笑わない。目も合わない。口調がぎこちなく、歩いたりする動作もぎこちない。身体全体がぎくしゃくとしていて、しかしエネルギーはあるから、ひどく速足だったり、動作が粗雑だったりする。こういう非言語的なコミュニケーションの乏しさや、粗大運動の不器用さも、(これはたぶん、ダスティ・ホフマンの演技の質とか方向性のせいで、)気質的なものじゃなくて、器質的なものに見えてしまうんですよね。 しかも、後にベンジャミンは、娘の在籍する大学近くに、勝手に下宿を借りて、娘を一方的に眺める、というストーキング行為に出るわけですが、これもね~。なんていうんだろ、恋焦がれて、って感じでもないし(大体、彼が娘に恋してるような描写もない)、若さゆえの暴走って感じでもないし、病的なパーソナリティゆえのストーキングって感じでもない。娘が明らかに拒否られているのに、無表情で彼女を付け回すベンジャミンを、いったいどう解釈しろというのか、と鑑賞中頭を抱えてしまいました。やっぱり、状況が読めない、空気が読めない、対人関係で相手の気持ちが分かりにくい、自分の行動の重要度の優先順位がつけにくい、そんなベンジャミン、って感じがしちゃうんです。 いや、違うんでしょうけどね?制作側の意図は。制作の意図はあくまでも、第二次大戦で成功した親世代が敷いたレールの上に乗せられて、主体性なく歩んできた主人公が、空虚感から当てもなく既成の人生に抗っているのを表現したい、というところにあるのでしょう。華やかな舞台の裏の空虚感や閉塞感、というやつですよね。 だけど、アメリカの映画はこの『卒業』のあと80年代~90年代にかけて、心的外傷に始まって、アルコールやドラッグ依存、多重人格や境界性パーソナリティ障害などなど、そういう精神疾患をテーマにした作品を量産しました。2000年代に入ってからは、ヨーロッパの映画も含めて、Autisum Spectrumをテーマにした佳作もあります。 そういう時代の中で映画を観て育ってきた私の目は、意図しなくてもつい、そういう個人的な特質、というところを、キャラクターの中に読みこんでしまうようになっているわけです。世代的なものというよりも。 そもそも、ある世代に共通する気分、みたいなものを、もう感じにくい時代になってきてるんじゃないかなとも思う。 もちろん、ある程度はあると思いますよ、世代の気分は。例えば私はバブル崩壊後の就職超氷河期世代です。自分が大学の学部にいた頃に、大手の金融機関が倒産し、当時のマスコミは上を下への大騒動でした。当時は就職率が50%台だったのです。そういう中で青春時代を終え、社会人としてのスタートを切った我々に共通するある気分や、人生へのスタンス、というものは、たぶんあると思います。 でも、それよりももっと違うものがひとびとを分けているような気がするんです。 Brexitもそうだし、Election 2016もそうですが、それぞれの選択肢への投票率は世代だけでは分析できませんよね。(ま、おおむね年寄りの方がダイバーシティを拒否する方に入れているようですが。)それ以外に、投票率をくっきり分ける指標がいくつかある。 古典は古びない、と言いますが、自分が生きている「今」の時代に左右された見方を越えて、古びない輝きを見つけるのは、難しいものだなと思います。 

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  • 05 Nov
    • evidence-bacedの試験対策はいかが?『脳が認める勉強法』

      科学研究の歴史に関する読み物が好きだ。 研究者が自分の人生を賭けて、こつこつと実験や研究を積み重ねても、大発見をする人など万にひとりもいない。研究史のターニングポイントになるような、ダイヤの原石にも等しき研究をした人も、生きている間は評価されなかったりする。 それなのに研究者たちは、自分の疑問やちょっとしたアイディアを大事に抱え、過去の研究を漁り、新たな視点の実験を創造するために七転八倒し、結果が出るかどうか分からない研究に生涯を捧げる。 ある研究者の天才的なひらめきによる実験のささやか結果が、人々から理解されず、歴史の波に消えようとしたその時、それに目をつける無名の若手研究者が現れる。政治的な理由から国際舞台で日の目を見ない知見もあれば、知の爆発的なブースターとなる研究がある。 そんな研究の歴史の読み物として楽しく、しかも、学問的知見に基づいた試験勉強の仕方まで学べてしまう、という1冊で2度美味しい本がこちら。脳が認める勉強法――「学習の科学」が明かす驚きの真実!1,944円Amazon 著者のキャリーさんはNew York Timesの人気科学ジャーナリスト。学習、そして記憶の分野の心理学の研究の歴史を概観し、どう発展したかを楽しく紹介しながら、最後は効果的な勉強に関しての最新の知見までおさえる、という親切な一冊。 昔私が子供だった頃、とてもとても田舎に住んでいたのだが、私はその田舎の学校を嫌っていた。あの時は明確な思考にするだけの言葉を持たなかったけれど、田舎の学校の教員がやっている根性論だけの教育を嫌っていたのだ。 幸い今は大人だ。勉強法だって、自分で調べて自分で決められる。なんたる幸せ。 ちなみに、この本の画像の帯をよく見てもらうと、池谷裕二さん推薦という文字が見えると思う。池谷裕二さんは薬学がご専門の東大の先生で、この方もエビデンスに基づいた勉強方法を、若い人向けの平易な本で出しておられる。その先生が、情報の正確さを認めて、学習科学の紹介本の決定版、と推薦しているので、私も自信を持ってこの記事で通信仲間に紹介している次第。 なお、amazonのレビューを見てもらうと分かる通り、この本の評価は二分しています。評価しない人は、なかなか結論が書いてないじゃないか、と思うらしい。 だけど、辛口なことを言わせてもらえば、この本くらいの親切な書き方で書かれている内容を頭に入れる手間を惜しんでいるようでは、勉強が上手になるわけがないだろうなあ。 シャーロックのマインドパレスには遠く及ばなくても、私たちもひとりひとり自分の記憶の部屋を持っている。その部屋を訪れることなく、その部屋をお手入れすることなく、その部屋を愛することなく、勉強などうまくならない。 (Series4の悪役はトビー・ジョーンズ。結局、このシリーズの一番巧いのは、悪役の絶妙なキャスティングだ。その人の演じるそのキャラクターを見たい!という最高のツボをついてくるし、毎回期待を上回るとんでもない演技を見せてくれてきたのは、悪役陣だった。今まではメインの役者がイングランド人で、悪役がアイリッシュとかデンマーク人、というのが気になってたけど、今回はしっかり修正してきたし。) 勉強のやり方をこの本よりもっと手っ取り早く教えてもらおう、なんて思う人は、スノーボードの滑り方を5分で口頭で教えてくれ、と言っているようなものだ。 とはいえ、そういう人に、とにかくリフトに乗って頂上へ行け(この本を読め)、というのはあまりにもエビデンスベイストじゃない薦め方だろう。それに、自分の若い頃を思い出してみても、例えば高校を卒業したばかりの頃で、こんな本を読めと言われても、(字面は追えても、)うまくは読めなかったと思う というわけで、この本を読んでいまひとつ分かりにくかった、というお若い方がもしいらっしゃいましたら、この本の内容理解のちょっとしたコツを追記しますので、お気軽にコメントください。

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  • 23 Oct
    • さあ、空を飛ぼう。愛と知性に包まれて。

      ここしばらく、仕事でのある案件のために、1つの分野に没頭していて、なんだか頭が飽和状態になった。今日の午後、そのpresentationをするから、本当は今もその準備をすればいいんだろうけど、もう気力がわかない。もうやるだけ頑張ったし、あとは不備なところは甘んじて指摘を受けるしかない。これ以上、背伸びして格好つけようとしても、ダメだ。(と言い訳するも、本当は逃げてるだけすが…) というわけで、どうでもいい話。 慶應通信の文学部のみなさんは、文学に対して多かれ少なかれ関心を持っていらっしゃると思いますし、私も文学を読むのが好きだし、仕事でも、文章であらわす、言葉で表現する、ということがほとんどで、どっちかというと言葉よりの人間なので、言葉を尽くして語らなければならないものを、ビジュアル一発で語ってしまうアーティストに対しては、ほんとうに尊敬の念しかない。 で、そんな尊敬の念しかわいてこないサイトを見つけました。ここ。tumblerです。http://amovieposteraday.tumblr.com/ オリジナルの映画のポスターを、1日1回アップされているようです。もう、ほんと、全部素敵なんだけど、例えばこれ。 "MAN ON WIRE"こんなに皆集まって、熱烈に上を見上げて、カメラを向けて、何を見てるんだろう、って気になるじゃないですか。肝心の場面をうつしてはいないのに、視線の向きだけで、その視線の先にあるものを想像させる。これぞ、ビジュアルの力だよなーって思います。(ちなみに、どんなに想像しても、実際に視線の先にあるものは、その想像を圧倒的に凌駕してくるので、そこも良いです。)  それから、ある1つの、象徴的なイメージを持ってくる、っていうのも好き。これとか。"1984"私は映画は観たことがないのですが、1984といったら、あの、『1984』ということですよね?監視カメラ。はい、もう、言葉は要らないわけです。 その作品が、役者さんの代表作である場合は、役者さんがメインのポスターっていうのもいいですね。この後姿を見ただけで、胸の奥が熱くなって、泣ける。ロッキーのテーマが流れる。  これもそう。もう、ほんと、このビジュアルが全てを表現しつくしているので、コメントすら浮かびません。  ある風景が、すべてを象徴するっていう場合もある。この作品は、これがもう公式でいいじゃないか。こうとしか、表現できないじゃないか。  風景が心象をあらわすっていうのもいい。この"THE GIRL WITH THE DRAGON TATOO"は、どっちのバージョンかな、一瞬思うけどけど、ちゃんと監督と主役2人の名前がクレジットされてるので、ああ、元バージョンか、とすぐわかる親切設計。 黒く大きな鳥が飛びまわる荒涼した風景は、彼女が生きてきた凄まじい世界をあらわしているのか、それとも彼女自身の心象風景なのだろうか。 彼女の後ろの髪が、ドラゴンの口が開いているのように見えて恐ろしいところがまたいいのです。  風景編で、もう一作。寒々しい丘の上にたたずむ、おそらく誰も訪れることのないであろう、打ち捨てられた墓。どれほど野心の階段をのぼりつめたとしても、人は必ず死に、忘れさられる。目先の野心を叶えるために必死になって大事なことを忘れ、他者と自分を貶める愚かさよ。 あるひとりの愚かな男の生きざま。 それが21世紀の作品になると、こうなる。"BIRDMAN"  言葉ではどうにも表現しにくいものを、一発で表現できるのも、視覚的イメージのすごさ。アグレッション、というプリミティブなドライブを、文章で説明するのはどうにも難しいけど、ヴィジュアルならこのとおり。  でも、私が最も感動したのは、この1枚です。この、ETのオマージュである、この絵が、何を意味しているのか、この映画を観た人なら分かるようになっている。これほどまでに、優しく、あたたかく、知的で、ユーモアがあって、そして慈愛に満ちた『テルマ&ルイーズ』への言及がいまだかつてあっただろうか。そう、慈愛に満ちている、一言で言えばそうとしか言えない。 私はテルマだ。私はルイーズだ。さあ、空を飛ぼう。愛と知性に包まれて。

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  • 18 Oct
    • アメリカの映画を観るには、英国文学を読まなければならない(かも)

      昨日、アメリカ大統領選に関係する記事を書いたので、おまけに書くと、いよいよ11月8日が近づいている今、同時進行で観ると楽しいのがこのドラマ。 そう、デビッド・フィンチャーの『ハウス・オブ・カード』です。(このドラマ内でも、2016年の大統領選挙が行われています。アメリカでは、現実の候補よりも、このドラマの主人公フランク・アンダーウッドの方が人気がある、なんて話もあるくらい。) この、手に血がついているビジュアルは、たしかSeason1からブルーレイのジャケットで使われていて、あー、つまりこれは、今からマクベスの現代解釈編をやりますよって、ことなのかなって思ってたけど、Season4に入って、また血のイメージが強調されるようになってきた。 ハウス・オブ・カードの方は、なんだかピカレスクロマンみたいになってきて、悪役主人公であるフランクが一向に勢力が衰える様子がなく、これ、フランクの勝ち逃げで終わるんかい、という懸念を感じてきている。 いやー、タイトル通り、House of Cardsで、一挙に奈落の底に突き落とされて終わったらいいんだけどな。なぜなら、そういう構成で、視聴者が唸るような出来の良いものを書くのは、なかなか難しいと思うから。フランクの勝ち逃げで終わる脚本の方が、ずっと簡単だ。だからこそ、頑張ってほしい脚本陣(とデビッド・フィンチャーさん!) 古典への参照、ということでいえば、サブストーリーを構成している、フランクの腹心ダグ・スタンパーの物語は、『二都物語』の現代解釈編なのかもしれない。優秀だけど、アルコール依存症のダグ・スタンパーが、『二都物語』のカートンであることは、Season2(だったかな)で、明示されている。 それにしては、愛する可憐な女レイチェルに殉じるかと思いきや、スタンパーが殉じるのはフランク・アンダーウッドで、なんというかまあ、非常にホモセクシュアル至上の匂いが濃いドラマだ。 デビッド・フィンチャーの描く男女関係は、異質なもの同士における生きるか死ぬかの骨肉の争いであり、お互いの身と自我がとろけ合うような甘いロマンティックな関係は、同質なもの男性同士、女性同士の間で生じる。 フランクがキリスト像につばを吐くのは、人間を異性愛だけに縛り付けようとする価値観への、高らかな反抗なのかもしれない。 ともあれ、アメリカの映画やドラマなどの作品を観るときには、やっぱり英国文学の下地が必要なんだなあと改めて思った次第。 文学系のテキストを履修する時に、なかなかテキストに載っている小説をたくさん読む時間がとれなくて残念なんだけど、休学中はせっかく時間があるのだから、小説は読みたいと思っています。

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  • 17 Oct
    • ミッシェル・オバマさんのスピーチ

      慶應通信の皆さん、昨日は試験お疲れさまでした。(私は事情があって、今期から休学しているので、試験はなしです。休学については、また今度書きたいと思います。) 今日は、今勉強している英語の話。音源何回も聞いたり、シャドウイングしたり、単語調べたりして、その英語と深くお付き合いするなら、英語勉強してて、良かった!って心の底から思えるようなものに出会えると嬉しい。 最近は、ミシェル・オバマさんのスピーチに震えたので、それを使ってます。ほんと、会場にいたら、立ち上がって(みんな最初から立ってるんだろうけど)、拳突き上げたかった。 動画はヒラリー・クリントンさんのfacebookにあります。https://www.facebook.com/hillaryclinton/videos/1280740991982427/ スクリプトはこちら。http://www.npr.org/2016/10/13/497846667/transcript-michelle-obamas-speech-on-donald-trumps-alleged-treatment-of-women 篠田真貴子さんが訳してくださってるので、そちらへのリンクを貼ります。慶應通信ブログとしては、自分で訳にトライして、書きたいところですが…。https://note.mu/hoshinomaki/n/nd36642c4a278 私は、独裁者で扇動者であるイモ―タン・ジョーを支持するひとたちを断罪するのは間違いだと思っている。 このバイク運転してるひと。かつてはジョーを支持してた。 なぜなら、個人の努力や責任でどうするというレベルではなく、soberでは生きられない境遇、というのも確実にあるからです。虐げられているその状況を変えられないとき、一種の酩酊状態のように理性を停止して、自己を支配者に同一化することで、その苦痛を和らげようとするというこころの働きは誰にでもあると思う。それを、soberで生きられる境遇にいる恵まれた人間が、軽率に断罪するのは、それこそジョーの論理に盲目的に従っているだけ。 だけど、それは、イモ―タン・ジョーが言っていることに対して、Noを言わない、ということとイコールではない。Noは言うべきなんだ、言える人が。 

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  • 04 Oct
    • 慶應通信的映画鑑賞 倫理学と『ズートピア』

      映画『ズートピア』についての呟きの続き。 今回は、ズートピアは愛の物語か?というテーマについて考えてみたいと思います。社会のシステムに抑圧される個人が、システムそのものに、そして、そのシステムの中で暮らすうちに知らぬうちに自分の中に内在化していたそれにどう対峙していくか、というテーマに真正面から取り組んだディズニー映画、『ズートピア』。 この作品に、愛のテーマを読みこむのは誤読だ、という指摘を時々見かけます。 たしかに、社会問題を個人の愛情や個人の努力の問題にスケールダウンさせるのは、鼻白むものがありますね。この場合なら、キツネのニックが差別を受けて苦しんでいるのに対し、年若く美人のジュディがくたびれた詐欺師のニックを愛することで、ニックが(個人的に)救われる、っていうだけのナラティブなら、何も今の時代にわざわざ作る新鮮味に欠ける。(し、社会問題はそのままで、お前ら個人で我慢して、なんとか頑張れ、というメッセージになりかねない) だから、ジュディとニックの間柄をロマンティックなものと解釈するのは、ちょっとなんていうかリスク?がある読み方かもしれない。 でも、だからといって、ここに愛のテーマがない、とも言えないんじゃないかなと思うんです。 ニックがあの橋の下でジュディを許す場面。あの素晴らしく美しい場面で、自分を差別したジュディの謝罪を受け入れ、穏やかに笑って許すニックは、なぜジュディを許したのか。 なぜ、というならば、それはニックが彼女を愛していたから、というしかないんじゃないだろうか、と思うのです。それは必ずしもロマンスとしての愛ではないかもしれない。でも、愛以外に、自分を傷つけた他者を許す動機ってあるんでしょうか? 前の記事で、『ズートピア』の視点キャラクターはジュディだけれど、本当の主人公はニックだ、ということを書きましたが、これは私が看破したものでもなんでもなくて、Blue-Rayの特典映像に入ってるんです。『ズートピア』は数年をかけて製作されましたが、かなり最終段階に至るまで、主人公=視点キャラクターはキツネのニックだったんですね。 今現存する作品『ズートピア』は、田舎から出てきたばかりの若い理想主義者ジュディの視点で語られている都市ズートピアなので、私たちの眼に映るもの、耳に聞こえるものは、かなりライトなものばかりです。 だけど、長く差別されてきたニックの目から見たズートピアは、もっとずっと暗い。彼の歴史は、差別と虐待のそれです。ほんとうに、当初の設定は、これを本気でディズニー映画として作る気だったの!?と驚くほど、暗く厳しく重い。どれほど重い設定かといえば、その発想を突き詰めれば、『時計仕掛けのオレンジ』の世界に通じるよね、というほど、厳しく重い設定がなされています。 そういう苛烈な抑圧と虐待を受けてきたニックが、そのシステムに無批判に加担したジュディを許す、というのが、あの橋の下の場面なのです。そう考えると、ニックがジュディを許した背後にある愛は、慶應通信の倫理学のテキストの最初の章で論じられている、あの、愛に通じるものがあるんじゃないか、そう思えてきます。 この仮説は、ニックが許す相手がジュディに留まらず、特定の動物(キツネやオオカミ)を悪者として、ステレオティピカルに鋳型にはめ続けてきた、ディズニーそのものである、という視点を持った時に、さらに力を増すように思います。 ニックというキャラクターが背負っている象徴的意味について、詳細に論じられているのがこちらのサイト→http://proxia.hateblo.jp/entry/2016/05/24/060934 「ディズニーのキツネ史」(非常に読みごたえのある素晴らしい考察です。) ときに、面白いのはこんなふうに、キリストの愛すら思わせるような深い次元の話が展開すると同時に、話の表層では、驚くほど、エロティックなモチーフが出てきたり、セクシュアルな会話が展開されることです。観た方は分かると思いますが、例えばこの場面とか。 なんでこんなにエロスが強調されるのかなあ。この辺は、また改めて考えてみたい点です。  

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  • 01 Oct
    • 慶應通信的映画鑑賞 力、知恵、そして愛ー『ズートピア』

      9月の末にあった、そこそこ大きい案件が無事終わり、ほっと一息。息抜きに映画『ズートピア』のことを考えてました。慶應通信的にも、考えてみたいことがてんこ盛りの映画、それが『ズートピア』です。慶應通信の仲間の皆さんにお勧めいつもの通り、以下の文章はネタバレ満載。前に『ゴーンガール』について書いた時は、ネタバレを読んでから観ても十分面白いって言いましたが、『ズートピア』は知らないで見た方がいい仕掛けの作品です。良かったら見てみてくださいな。+++++進化した肉食動物と草食動物が、共存している理想の都市、それがズートピアである。社会を形作っている、目に見えない構造やシステムを浮き彫りにしていこう、というのが社会学ですよね。まずはそういう「目」で、この「理想の」都市、ズートピアを眺めていくのが楽しい。この辺ほんとに巧いんだけど、物語序盤、「主人公」のウサギ、ジュディがズートピアに旅立つ前にかわされる会話、それからズートピアにやってきてから出会ういろいろな場面で交わされる会話から、少しずつこの世界の目に見えない抑圧のシステムが浮き彫りになるようになってる。どんな世界でも、システムはある。たとえばこういう劣悪な条件の世界には、最悪のシステムがある。"MAD MAX Fury Road"のWIVESこの世界のシステムでは、一握りの支配者以外の人間は、完全に搾取の対象以外の何者でもない。男は兵士として命を搾取されるし、女は子を産む道具として性を搾取される。男も女も抑圧され、搾取され、自由も権利もない短い一生を強いられ、最後には命を奪われる。もっとずっと洗練された世界のズートピアのシステムは表面的には見えにくい。見えにくいけれど、やっぱりシステムに抑圧されている階層がある。この世界で抑圧されるのはまず、力がなく知恵もない、とされる小動物。「身体の小さいやつには、重要な仕事は任せられない」という似非論理で青天井を設けられて差別される小動物は、さしずめ抑圧され軽んじられてきた女性の暗喩だろう。「主人公」ジュディは、その青天井を力と機転でぶち破っていく。この場合の力は、物理的な「力」を含んでる。ジュディは腕っぷしが強い。そういう意味で、ジュディはフュリオサの末裔である。ウサギのジュディとキツネのニックでも、ズートピアを維持するシステムが抑圧しているのは、小動物だけじゃない。もっとも抑圧されているのは、社会の中の「危険因子」というレッテルをはられている肉食動物であり、その中でもとりわけ地位が低いのが、西欧の長い長い歴史の中で差別され続けてきた、キツネなのだ。そして、重要な登場人物、いや登場動物?として物語を牽引するのが、そのキツネのニックである。今まで、この物語の視点キャラクターであるジュディを語る時に、「主人公」というカッコつきのタイトルをつけてきたのは、この物語の本当の主人公は、このニック・ワイルドだからだ。システムを勇気と力と機転でぶち破るジュディの物語ならば、『MAD MAX 怒りのデスロード』がすでに圧倒的な筆致で描き出している。同じテーマでやるなら、CGをほとんど使わず、生身の人間が極限状況で撮りあげたあの映像を超える作品は、あと20年は出現しないだろう。だが『ズートピア』はウサギのジュディを視点キャラクターに据えながら、実はキツネのニックが本当の主人公であることに意味がある。キツネのニックが、自分を抑圧し、差別してきた他者に対して、どう対峙するのか。そして、他者から暴力的に与えられて、結果自分の中にも内在化してきた勝手な規定(「キツネは信用できない動物だ」「だから社会の一員にはなれない」)に対して、どう対峙するのか。ジュディの物語とは違う、ニックの物語を描いていることが、MAD MAXにはない、ズートピアのすごさなのである。面白いのは、キツネのニックは、肉体的には全く非力な男性として描かれていることだ。積極的に身体を鍛え上げているジュディに対して、詐欺師であるニックは他者に身体的な暴力をふるうことは絶対にない。(たぶん、彼は身体的な暴力を嫌悪している。)ニックは常に暴力を受ける側である。襟首を掴まれてひきまわされたり、小突かれて跳ね飛ばされたりするシーンしかない。じゃあ彼の武器は何か。それはその知恵である。自分を抑えつけるシステムに対峙する力、そして知恵。ジュディとニックが力を合わせるのは、力と知恵の融合である。そして、ズートピアが描いているものは、それだけではない。もう一つ、愛のテーマがある。長くなりそうなので、愛のテーマについては、また次回!

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  • 24 Sep
    • 久しぶりの更新 西洋史特殊1の結果

      ものすごく久しぶりの更新です。何か月ぶりかな。仕事で、ようやくひといきつけました。といっても、10月、11月はまたひとやま、ふたやま、いや、3つ大きな案件があるのと、あと、9月末(来週か)また1つ大きなのがあるのと、中くらいのが1つ。仕事で声がかかるのは嬉しいけれど、きつさも感じます。年かな。あと、夫の忙しさが半端なくなってきて、家事育児が99%自分負担になっているのも、時間のなさに拍車をかけています。というわけで、いつ受けたのかも忘れた西洋史特殊1の結果(がいつ来たのかも忘れたけど)、結果はAでした。ヤッタネ西洋史特殊1は、地中海の(想像上の)旅に出るつもりで、わりと気軽に、楽しみに始めたんですが、意外と楽しいとかロマンとかより、ちょっと重い気持ちになることも多かった気がします。砂漠の部族の興亡の歴史って、そりゃ字面でみたらさらっと流れてくけど、実際には相当シビアな世界だよね。こんなんとか?みたいな。

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  • 03 Jul
    • 西洋史特殊1試験受けてきました

      今日はやっと、西洋史特殊1の試験を受けることができました。前回の4月は、受験申し込みを忘れていたんですよねー今回は受験申しこみはしたけれど、試験勉強が全く出来ず、一夜漬けならぬ一日漬け(=当日の朝初めてテキスト前半を読んだ)。この科目が持ち込み可、ということすら、当日の朝知るテイタラクでしたが、なんとかテキストを読み(*後半はレポート作成の段階で読んでいた)、かろうじて受験してきた次第です。やっぱり子どもが2人に増えて、復職してからの毎日が、想像以上に大変で…というのが自分への言い訳(笑)それはともかく、試験は・・・あれ、ひっかけ問題ですかーいや、ああいうのは「ひっかけ」とは言わないのかな、でも、ちょっとお題がひねっていて、最初、え?と思い、少し考えて、ああ!と思いいたって、思わず笑いそうになってしまいました。あのね、すごく面白いんですよ。○○文明と□□文明の特徴を記せ、っていうお題なんですが、その「○○文明」という言葉って、たぶん、私の記憶が正しければ、テキストに載ってないと思うんです。うふふ。出題者さんお茶目だな~と思いながら、楽しく回答してきました。

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  • 24 Apr
    • 拍子抜け 西洋史特殊1レポート返却

      西洋史特殊1のレポートが帰って来た。提出したレポートは、試験の受験資格を得るためだけにとりあえず出したもので、再レポート用に7,000字のあらたなレポート完成版を用意して意気揚々と待っていたのに、なぜか最初のレポートが合格してしまった。あれれ?失敗しました。やはり、レポートは途中で出すものではありませんね。

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  • 19 Apr
    • 宗教と哲学:『ライフ・オブ・パイ』と『オン・ザ・ハイウェイ』

      『ライフ・オブ・パイ』は、原題"Life of Pi"という2012年の映画である。監督は、ひとの心の機微を繊細に描くことにかけては第一級の、名匠アン・リー(台湾出身)。主人公はインド人で、実際に演じているのも、インド出身の青年スラージ・シャルマである。この主人公の青年、パイが、大海原を漂流する227日を描くのが、この映画だ。一方、『オン・ザ・ハイウェイ その夜86分』は、原題"Locke"という2014年の映画。監督は、イングランドの社会派監督(脚本家)スティーヴン・ナイト。主人公は、イギリスはバーミンガムで働く現場監督のアイヴァン・ロック(Ivan Locke)で、彼がロンドンに向かう高速道路で運転をしている2時間のドライブの物語が、この映画である。この2つの作品、それぞれがとにかく滅法面白いし、映画として質が高い。だから、1本1本を独立して観るのも楽しいのだけれど、それぞれを宗教(特に東南アジアの宗教)の映画、哲学(特にイギリス哲学)の映画として見比べるのもまた楽しい。映画そのものを成り立たせているメンタリティ、というか、世界の捉え方の対比が面白いのだ。ここから先は映画を観た後で、読まれることをお勧めします。ネタバレがどうこう、というより、この映画は体験することが最も重要だと思うから。"Life of Pie"と"Locke"、奇しくもタイトルにはそれぞれの主人公の名が冠されている。それぞれの主人公の生き方、生に対する向き合い方、人生を生きるその生き方そのもを描いた作品だからだろう。"Life of Pie"の主人公、パイは、船の遭難を機に、大海原をだた一人漂い続ける。水も食糧も尽き、時折手に入る魚と雨水で飢えと渇きをしのぎ、波と風に翻弄され続ける過酷な時間を必死に生き延びながら、彼は問い続ける。ひとは、というより、生きとし生けるものすべては、なぜ生まれ、なぜ死ぬのかを、神に問い続けるのだ。その答えは、ない。生きとし生けるもののすべては、なぜという理由も、目的もなく、ただ母なる水から生み出され、なんの意味もなく、ただ母なる水に命を奪われるのだ。それは自らを賢いと思いあがる人間もそうだし、百獣の王であり野生の食物連鎖の頂点に君臨する虎も同じだ。ただ神(水)から生みだされ、ただ神(水)に命を奪われる。私たち生き物は、ただこの慈悲深く残酷な母なる自然の懐に抱かれて、一時の生を生きるよりほかないのである。"Life of Pie"はそんな話。いかにも東南アジアの湿潤で温暖な気候と、比較的穏やかな民族からうまれる宗教観、といった具合だ。恵み豊かな自然への信頼がしっかりしている。シリアやイラン高原あたりの、過酷な砂漠で生まれる宗教観とはちょっと違う。一方、"Locke"である。こちらは、主人公Ivan Lockeが、あるのっぴきならない理由で夜の高速道路をひた走る映画である。ちなみに乗っているのはBMWのX5で、これが滅法格好いい。こんな車に乗りたいものである。Ivanが進むのは、Motorway6.どこか北部の街から、ロンドンに向かっているようだ。1時間半くらいで着くだろう、と彼自身が言っている。この映画は、BMW X5に乗るIvanに電話がかかってきたり、あるいは彼自身が電話をかけたりして交わされる会話だけで構成されている。(こういうのなんていうんでしょう?室内劇?会話劇?よく分かりませんが、イギリスのこういう劇って、十八番なんでしょうか。とにかくやたらに面白い。)それはともかく、この、主人公以外の他者が電話ごしの声でしか登場しない、というこの設定。これは、他の人のことなど本当には知りえない、ということをあらわしているのではないだろうか。そう、哲学でいうと、ひとは物事の本質を知りえない、というあの認識論の立場である。(タイトルが”Locke”というのも、ジョン・ロックを連想させる。)Ivanは、自分なりに正しいと思う信念に従って、物事に対処していく。トラブルに対してじっくり丁寧に歩を進め、誠実に、ときには大胆に解決を図っていく。本当のところは他者(妻や職場の部下も含めて)を理解することはできなくても、自分に認識できる範囲内で、最大限手を尽くして事態に取り組むこと、結局のところそれが人間にできることのすべてなのだ。しかも、彼がのっているのはM6である。高速道路。一本道。人生は一本道。やり直しはできないのである。見ようによってはシビアな内容ではある。だが、暗くはない。スティーブン・ナイト監督が、この認識論的生き方に自信を持っているのだろう。ナイト監督は、Ivan Lockeにエールを送っている。自分の負うべき責任をまっとうしようとするすべての「大人」へ、「な、人生はほろ苦いよな」という慰めと、「でもその生き方で間違ってないと思うぜ」というエールを送ってくれているのだ。

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  • 02 Apr
    • 西洋史特殊1 レポートこつこつ続ける

      2016年度の補助教材が到着した。思うところがあって、西洋史特殊1のレポート課題をいの一番に確認。…やっぱりな!と、ひとりどや顔になった。2015年度の課題と似ているのである。西洋史概説ⅠとⅡは、長い歴史の中で重要なポイントがいくつかあった。特に近代を扱う西洋史概説Ⅱの方は、多すぎて、勉強しきれないほどたくさんあった。だから、レポート課題も、その時々でいろいろなトピックが提示されていると思う。が、西洋史特殊1のテキストで、重要なテーマは、たぶん、ここなんだろう。そのテーマそのものずばりがレポート課題になっているのではなく、2015年度も、2016年度も、ちょっと離れた入口が設定されている。でもその入り口から入って、歴史のダイナミズムの渦に巻き込まれ、最後にそれを上から俯瞰すれば、そうか、こういうことやったんか、と思いいたる、そのゴールは同じだ。(*感想には個人差があります。)そして、その視点はそのまま、古代から現代までを連続体で見ることができる視座になっている。ここがすごいところ。西洋史特殊1のテキストには、今ヨーロッパで起こっていること、今中近東で起こっていること、ここまでを射程に入れた視座がサジェストされている。(ような気がする。ええ、感じ方はあくまで個人的なものですが。)ご興味がある方は、ぜひご一緒に西洋史特殊1の勉強をしましょう

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  • 28 Mar
    • オデッセイ

      西洋史特殊1のレポートの作成を、ポツポツと続けている。先日テキストを読んでいたら、レオニダス王の名前が出てきて、へええ、と思った。レオニダスは、古代ギリシアはスパルタの王。もちろん、後世でも「英雄」として称えられ、その後の歴史においても、プラタイアの戦いで決定的な役割を果たしたりしているんだから、重要な人物であることに間違いはないんだろうけど。でも、西洋史特殊1は、中石器時代(前1万年~)からアレクサンドロス後までを扱う、つまり1万年くらいのスパンの話題を扱っているわりに、テキスト自体はすごく薄いですからね。その中で、個人名まで出てきて、2行ほどが割かれているというのは、かなりVIP待遇な気がします。これはジェラルド・バトラー扮するレオニダス王。(映画『300』)ところで、ちょうど勉強している頃の地中海世界では、古代ギリシアの最古期の文学『オデュッセイア』が文字として残されるようになりました。ホメーロスの オデュッセイア物語(上) (岩波少年文庫)/岩波書店¥778Amazon.co.jp私はこれで読んだ後世に名を残す、という点では、レオニダス王以上に超有名人なオデュッセウス王。古代ギリシアで、このオデュッセウス王の旅、オデュッセイアが文字として残され始めたのは紀元前8世紀頃ですが、口承で伝えられていたのは、もっともっと前からなわけですよね。そんな気の遠くなるような昔から、オデュッセイア(オデュッセイ)、という名前が人々の口にのぼって来たんだ…と思うと、圧倒されます。子どもの頃、宇宙には果てがない、と教えられてなぜだか分からないけれど涙が出た、あの頃の気持ちが蘇ってくるようです。オデュッセウス、オデュッセイアは、そんな壮大な名前ですから、『ユリシーズ』や"2001: A SPACE ODYSSEY"(1968)なんかは、確かにそのタイトルにオデュッセウス、オデュッセイアを冠してもふさわしいわな、と思いますが、…と思いますが、"The Martian"(2015)の邦題が『オデッセイ』て、なぜに?もう、ほんとやめて欲しい、安くさい邦題つけるの。せっかくのテンションが下がりますわ。『火星の人』じゃなんでダメなのかしらん。とブツブツ文句を言いながら、映画館に観に行きました。で、どうだったかというと、んー、やっぱりリドリー・スコット。微妙に自分は感覚が合わない。もちろん、素晴らしいなと思う点はたくさんありますよ。火星の風景や、マット・デイモンが仮住居で寝起きするそのさまなんかのヴィジュアル面は、さすがのリドリー・スコット印、一流の画です。加えて、たくさんの登場人物を、短い時間で描き分ける編集の巧さには舌を巻きました。それになにしろ、キャストが良すぎる。マット・デイモンが、真剣だけれども抜け感のある演技を、余裕を持ってこなしているのを観るのは本当に気持ちが良いし、チームリーダーがジェシカ・チャスティンとか嬉しすぎてつい笑ってしまう。おいおい、チームにマイケル・ペーニャがいたら、こりゃ絶対マット・デイモンを助けに行くなこいつら、って分かってしまうやろ、というネタバレキャスティング(?)も、実際にペーニャが「もちろん助けに行くさ」と言ってくれるところで、やっぱり胸アツになるし、マーラ姉妹は判官びいきで姉貴の方に応援しているから、ケイト・マーラが出ているのも嬉しい。地上チームに目を転じれば、NASAの火星探査統括責任者として、キウェテル・イジョフォーが登場した時は小さくガッツポーズをしましたわよ。『ラブ・アクチュアリー』や『キンキー・ブーツ』から応援していましたが、もうすっかり演劇界の重鎮ですね。存在感が違います。そしてもちろん、あの名場面!ショーン・ビーンが"エルロンド会議"に出席って!!もう、嬉しすぎて泣きたいやら、笑いたいやら。音楽だって最高だし、楽しいところ満載の映画らしい映画で、いいと思うのだが、やっぱりどこか描写が薄っぺらいところが引っかかってしまう。例えば、中国国家航天局の人たちの描写。「私たちならあのアメリカの宇宙飛行士を助けられます。」「でもそれをしたら、我が国が極秘で進めている宇宙計画が露呈してしまう」「・・・(2人目を合わせてにっこり頷く。国の機密より人命救助だ!)」これではあまりにもお粗末ではないでしょうか。原作がそうなのかもしれないし、原作を忠実に再現したかったのかも知れませんし、あの描写の方が中国でもヒットが見込めるという判断があったのかもしれないし、その辺は分からないが、子ども向けのアニメーションだって相当に練り込まれている昨今、あの描写の薄さはリドリー・スコットの感覚の古さを感じてしまった。マーク・ワトニーの生き方そのもの(そしてそれはもしかしたら、原作者の生き方が投影されているところがあるかもしれない)に対する賞賛に異論はないけれど、映画としてはどうなんだろう。画面にはたくさんの人種が登場するから、一見リベラルで多様な他者が共存できる世界、その中で「1人」の命も尊重される世界、が描かれているように見えるけど、描写はあまりにもお粗末で、現実味がない。そんな世界は現実には実現は到底難しいんだな、ということを、改めて思い知った鑑賞体験であった。

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  • 16 Mar
    • 心理学1再々再レポート返却

      このブログで、なども愚痴を書き、たくさんの方に励ましのコメントを頂いていた心理学Ⅰの再々再レポート、ようやく合格しました。ここで学友に支えてもらったおかげで、投げ出さずに頑張れました。ありがとうございます。レポートのコメントでは、たいへん充実した内容の立派なレポート、と書いてもらいました。うふふ、良かった~。今なら私、学部生向けの実験心理学の講義なら1コマ90分くらい、喋れまっせというくらい、実験デザインの基礎はしっかり理解できました。レポート採点厳しいな~、と思っていましたが、そのおかげです。私は心理学を学びたい、というのが入学の目的だったので、これで本丸の一つは履修できました。次なる目標は統計学です。がんばるぞー

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  • 13 Mar
    • 疲れた大人女子を癒す夢の男 『オール・ユー・ニード・イズ・キル』映画版

      は!と気がついた頃には時すでに遅し。科目試験の申込を忘れていた。これでは、受験資格を得るためだけに、未完成のレポートを提出したのが無意味になる。採点者さんを煩わせるだけになってしまった。申し訳ない。ここのところ、イレギュラーな依頼を引き受けることが多く、予定が詰まってしまっていた上に、子どもたちも風邪気味で、自分自身の時間がない状態が1か月ほど続いていた。やれやれ、いい加減疲れたな。仕事を頼んでもらえるのは嬉しいし、友達(同期近辺)を助けるのは当然だし、若い人の仕事を一時肩代わりしてあげるのも、おっさんをそっと励ますのも、自分みたいなオバさんがやるべきことだし、もちろん子どもたちの世話をするのは自分が命を懸けてすべきことだから、いいんだけど、たまには私も休みたい。どっかり椅子に腰かけていたら、なぜかとびきりハンサムな男性が、熱いコーヒーなんかを淹れて持ってきてくれないかしら。そして、傍にひざまずいて、「待って。君は砂糖を入れるのが好きだったね。」と、コーヒーに砂糖を入れてくれないかしら。そんな妄想を叶えてくれるのが、この映画である。トム・クルーズ、エミリー・ブラント主演:『オール・ユー・ニード・イズ・キル』(2014)え?写真で見る限り、これは戦争もの?SF映画?と思われるだろう。そう、戦争ものであり、SF映画である。もう少し知っている人は、これって日本のライトノベルが原案っていうあれだよね?と思われるかもしれない。そう、日本のライトノベルが原案で、いわゆる「死にゲー」「覚えゲー」の設定をそのまま映画にした若者向けの作品、というのが一般的な宣伝文句の作品である。しかしここでわたくしは、大胆にも、この作品を大人女子の癒しの作品として高らかに提唱したいと思う。といっても、私、トム・クルーズは別にファンじゃないし…というあなた。分かる。分かるが、まあ、聞いて欲しい。この映画の主要な登場人物は2人。そのうちの1人がエミリー・ブラント演じる、リタ・ヴラタスキ軍曹である。リタは、部下を率いてシビアな戦場を生き抜く兵士だ。部下には尊敬されているが、だからといって胸の内をうちあけることが出来る相手がいるわけでもない。上層部の指令が今の状況を打開できるわけではない、と見通しながらも、ただ黙して、自分の出来ることを真摯に、身を削りながら行い続ける孤独な女兵士である。そんなリタの目の前に現れて、リタに必死につき従い、リタのヴィジョンを共有し、リタと常に行動を共にするようになるのが、おトム二等兵である。(おトムくらいの年齢で二等兵はありえないが、劇中設定では事情があって二等兵に降格されている。)最初は頼りにならないおトム二等兵だが、幾度も死線をくぐり抜ける中で、次第に身も心も逞しくなり、いつしかリタと同等の精神力・技術力を身に着け、リタを守ろうとするようになる。そんなおトム二等兵に対し、リタは冷たい態度をとる。何言ってるの。守ってもらわなくて結構。私がどうなろうが、お前になんの関係がある。そう問われたおトム二等兵が、リタに愛の告白をする。これが映画のクライマックスの1つである。いえ、もちろん感じ方には個人差があります。が、大人女子的には、ここがクライマックスの1つである。この告白の台詞。誰が考えたんだろうなあ。脚本のマッカリーなのか、あるいはリタの人物造形にかなり深く関わったらしいエミリー・ブラントなのか。いずれにせよ、なんとも女性の心を深く動かす台詞である。おトム氏が何というのか、実際の台詞はぜひ彼の口から聞いて欲しい。この部分の字幕はいけない。簡単な英語なので、頑張ればなんとか聴ける。意味としては、君と行動を共にし、君を知るようになった。だからこそ、君を愛するようになったんだ。そういうことを言う。相手を知らないからこそ恋焦がれ、長い時間一緒にいて相手を知れば、恋は冷める、ということをよく知っている大人女子が、君を知ったら愛さずにはいられない、だから君を守りたいんだ、と言われて、泣かずにいられようか。そして台詞も良いが、それを言うおトム氏もまた良い。ああ、トム・クルーズは本当に良い俳優になったなあとしみじみと感動する。若い頃のトム・クルーズは、その美貌と瑞々しさを活かして、ちょっとやんちゃで生意気な青二才、という役がものすごくはまる俳優だった。そういう当たり役で、ヒット作をがんがん飛ばしてドル箱スターになった。しかし一俳優として使われるだけに飽き足らず、自らの制作会社を作ったおトム氏は、ミッション・インポッシブルシリーズ、という自分の子どものような作品群を大切に育てながら、もう一方で、多様な監督と仕事をし、いわゆる演技派俳優としての一面もつくりあげていく。スタンリー・キューブリック監督…はちょっと特別だから論じるにはまた別建てが必要だが、ポール・トーマス・アンダーソン監督と組んだ『マグノリア』や、悪役を演じた『コラテラル』など、ヨゴレ役も含めて、とにかく幅広い作品に出て、とにかくありとあらゆる役をやっている。トム・クルーズはキムタクと同じで、どの映画を観ても、ザ・トム・クルーズでしかない大根役者だ、という批判は批判にすらなっていない、ただの戯言である。ただ、あまり映画の本数を観ない人々に、そんな印象を持たせる面があるのは確かである。なぜなら、幅広い役をやる一方で、おトム氏は、自分というキャラクターに最も合う映画作りを追求し、何本も作品を積み重ねているからだ。おトムはいつ見てもおトムだ、と言う人は、トム氏のこちらの面の作品ばかり観ているのだろう。トム・クルーズの持ち味は、精悍で美しい顔立ちにあるように思われるかもしれない。しかし実のところ、彼が多くの俳優たちの中でも抜きんでて秀でているのは、そのバーレスク性であろう。身体の動きそのもので、人々を夢中にさせる、不思議な魅力を持っているのである。彼には、ただ走るだけで、映画を成り立たせる「画」をつくることができる稀有な才能がある。運動神経が良いのも関係しているだろう。トム・クルーズが歩く背中に漲る力やオーラ、走る姿の疾走感、飛んだり、飛ばされたりする身体の躍動感、すべてが特別である。昔中国や香港で、よくカンフー映画が撮られていた。カンフー映画の主役を張っていた役者、例えばリー・リンチェイなどは、実際にその動きを見るとそれほどのスピードがあるわけでもないらしい。が、画面で観ると極めて美しく、ハリがあり、心に残る動きに見える。おそらくおトム氏も同様に、なぜか映画映えのする動きが出来る天賦の才を持った俳優なのだろう。このバーレスク性を活かして、おトム氏はアクション映画をたくさん撮ってきた。なおかつ、古典的・正統的ハンサムスター、というキャラクターも活かしての作品作りなので、それは必然的に古典的・正統的アクション映画、ということになる。それらの映画は、いっときあまり人気がない時期があり、トム・クルーズはもう昔のスターだ、なんて言われ方をしたこともあった。が、仕事をしている人なら分かるはずだ。一見低迷にしているように見えて、本当に低迷している場合と、そうではなく、本当にクリエイティブになるための試練の時を過ごしている場合は違うということを。『ナイト&デイ』(2010)や『ジャック・リーチャー』(2012)など、映画通を唸らせても、大衆には受けない、という「低迷期」を越えて、トム・クルーズが映画通も唸らせ、世界的にも大ヒットする作品を作る、という偉業を成し遂げたのが『ミッション・インポッシブル:ローグネイション』(2015)だが、この萌芽は『オール・ユー・ニード・イズ・キル』(2014)ですでに見えている。この『オール~』のおトムは、今までの彼とは違う、本当の大人の男感が物腰からにじみ出ている。トム・クルーズが映画人として、苦労して苦労して、ついにひと山越えた感じをひしひしと感じる。例えば、件のコーヒーを持ってくる場面。コーヒーをもらったリタが、おトムに毒づいて八つ当たりをするのだが、その時の彼のリアクションが素晴らしい。大げさではなく、抑え気味の演技だが、ユーモアをもって上手に女性を受け止めている。それを受けて、プリプリしていたリタも思わず笑う(多分、劇中でリタが笑う唯一の場面)のだが、これは、演じるエミリー・ブラントが思わず笑ったんじゃないか、と思われるような自然な笑いである。怒っている女性を、思わず笑わせるのは、本物の大人の男じゃないと出来ない技である。笑わせようとしても大概は火に油を注ぐのが関の山。あのコーヒーの場面は、男性が女性の理不尽な八つ当たりをうまく受け止める、という、現実の世界ではまずお目にかかれない奇跡の技を目撃することができる、貴重なシーンでもあるのだ。映画自体は最初に述べたように、戦争映画であり、SF映画ではあるが、編集がとてつもなく巧いのと、残酷描写は一切なしなので、あまり映画を観ない人が観ても楽しめると思う。とにかく、こんな夢の男はいない、という男を眺め、行動を共にし、最後まで守り抜かれる、という素敵な体験をできる2時間なので、未見の方はぜひ。こんな男性に見守ってもらいながら、昼寝でもしたいものである。

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  • 01 Mar
    • 2015年第4回試験結果

      そういえば、大学から封筒が届いていたのをすっかり忘れていました。やっと開封してみると、おお!試験結果ではありませんか。英語音声学 Aこれで、卒業所要単位の残りは、必修が2単位と、選択が17単位。残りが少なくなってきて、うーれしいな~でも、後は何を履修しようかが、悩むところ。心理学1、心理学2、統計学はとりたい。できればAcademic writingも。それに、西洋哲学史2も。西洋史特殊1、3と、ロシア文学、フランス文学、イギリス文学も…となると、卒業要件以上に履修したい科目があります。別に、要件以上に履修してもいいのかな?ただ、卒論と並行してできるか、という話ですよね。うーん、手間暇のかかる科目はもう少し前にやっておくべきだったかも。。。履修計画を失敗しているような気がしてきました。

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  • 26 Feb
    • 英語音声学再レポート返却

      英語音声学の再レポートが戻ってきました。今回は合格。ただ、あなたのレポートは「後注がほぼすべての文章についていて、私は自分の文章が書けません、と言っているようなものです」というコメントがついていて、ちょっと驚きました。英語音声学のレポートでは、何を「引用」とするのか、その基準が結局分からないままの合格通知に困惑しました。最初のレポートは、テキストに書かれている基本的なこと(と自分に思われたこと)は、後注なしでレポートに書きました。例えば、○という音素の発音記号は□、とか、そういうことです。ところが、これはどこから持ってきたのですか?引用だと示さなければ、剽窃というのです、というコメントをもらったため、再レポートでは、基本的な情報であっても、何かのテキストや文献から得た情報にはすべからく引用だと示しました。そうしたところ、今度は「私は文章が書けませんと言っているようなレポートだ」とコメントされてしまったのです。「後注がほぼすべての文章についていて」とのコメントですが、そりゃそうです。このレポートでは、私は自分の考察や意見は書いていません。複数の文献をあたって、そこに書かれている情報を収集し、整理し、区分し、再構成して文章として組み上げたのがこのレポートです。地の文章を産出したのは私ですが、その中で扱われているすべての要素は、私が創りだしたものではなく、すべて他の人のテキストから「そのままもらったもの」です。そのままもらったから、後注をつけました。ほぼ全ての文章に後注がついているのは、レポートに余分な文章を入れなかったためです。事象を説明するための、新しい情報を含む文章だけに削ぎ落している、という意味です。まあ、こんなに厳密に後注をつける必要はない、ということでしょう。私だって、今書いている西洋史特殊1でも、これほど厳密にはつけていません。

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  • 24 Feb
    • 西洋史特殊1 レポート作成中

      西洋史特殊1ー古代オリエント史ーのレポートを作成中です。8冊の参考文献を借りて、ざっと中身を読んで4冊に絞り、レポートの大まかな構成を決めて、骨子を書きました。ここまで来たら、あとはもういいかな。大きな声では言えませんが、今回はレポートは未完成でもとりあえず締切日には出す予定です。私はセンター試験を世界史で受けたので、ヒッタイトとか、アケメネス朝ペルシャとか、懐かしい~と嬉しくなっちゃうし、塩野七生のローマ人の物語で、カルタゴには一部詳しくなったので(笑)、仕事の良い気分転換になっています。仕事の方は絶望的にたてこんでいたのですが、今週が終われば、少しましになる予定。時短勤務の難しいところは、4時までスケジュールがびっちりになると、書類作成などをする時間がない、というところです。朝の会議前や、昼食時に机でサンドイッチを齧りながらやりますが、その時間帯に誰かが話にきたり、どこかに呼ばれたりするともうアウトですからねえ。でも、時短勤務は良いです。仕事に対する集中、密度、アウトプットの速さは確実に上がりました(自分比)。自分の仕事だけに限れば、量や質は長時間残業していた若い頃とほとんど変わっていないと思います。まあ、その分、なんとか委員会とか、なんとか会議とか、そういうプラスαのところを免除してもらってるんですけどね。かなり削ぎ落して、削ぎ落して、自分の職能のコアの部分、エッセンスの部分だけをやらせてもらってる感じです。ありがたや、ありがたや。子どもが3歳までといわず、子どもが小学3年生になるくらいまで使えるといいんだけどな~。さて、今日もがんばりますか。

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プロフィール

corara

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女性
自己紹介:
文学部 第1類 2012年度 学士入学したワーキングマザーです。

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♪卒業所要単位残り
 選択科目…17単位
 卒論…8単位

音譜学習状況
メモ西洋史特殊1rep.作成中

音譜習得単位
必修外国語 8単位 履修済
英語Ⅰ rep.A/A, test.A
英語Ⅱ rep.A/A, test.A
英語Ⅲ rep.A/A, test.A
放送英語Writing A
放送英語Reading A

第1類(専攻) 28単位 履修済
西洋哲学史ⅠA (4)
科学哲学 rep.B, test.A (4)
倫理学 B (2)
論理学 A (2)
Eスク倫理学特殊 A (2)
社会学史Ⅰ A (2)
新・教育心理学 A (2)
Eスク教育学特殊 B (2)
都市社会学 C (2)
Eスク社会学特殊 A (2)
社会心理学A(2)
心理学ⅠC (2)

第2類 8単位
史学概論 rep.B, test.B (2)
西洋史概説Ⅰ rep.B, test.A (2)
西洋史概説Ⅱ rep.B, test.C (2)
地理学Ⅱ rep.A, test.A (2)

第3類 13単位
英語学概論 rep.B, test.A (3)
現代英語学A(3)
イギリス文学研究ⅠB (2)
フランス文学概説 A (3)
Eスク英語学 A (2)
英語音声学 A(2)

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