一、二、三、死、今日を生きよう! -成田参拝 100冊への道 41冊目♪ | 菅原初代オフィシャルブログ「魔女菅原のブログ」

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100冊への道シリーズ、5日ぶりの復活(笑)。


いやべつにその間まったく本を読まなかったということはないのですが。




でもあれですね。


本を読むことはエネルギーがなくてもできちゃうけど、


読んだ本に就いて書こうとすると、エネルギーがけっこう要る。少なくとも私はそうですね。



読む1に対して、書く10位の隔たりはあるな。


というわけで、41冊目は、


笙野頼子の「一、二、三、死、今日を生きよう―成田参拝」です。



笙野頼子の本をよみはじめたのは、十数年前なのでわりに最近なのですが、


読み始めてわりにすぐの頃、たまたま、ラジオで笙野さんが著作に就いて語っているのを聞いて、



あ、このひとは私に似ている、と勝手に共感してしまって、以来、地味にファン活動を行っているわけです。


地味なファン活動。


まあ、それは本のすきな友達に、地味に、笙野頼子、いいよー、読んだ?読んでみ読んでみ、と

勧めることです。が、森茉莉を勧めたときには喜んでくれた友達が、笙野さんには食指を動かしてくれません。


なぜかちら。かなちいわ。ついでにいまだに金井美恵子を読む友達もひとりもいないわ。どゆこと。

倉橋由美子は「大人のための残酷童話集」はけっこうみんなもってるわ。でもたぶん、装丁に惚れてだと思うわ。



…んー。本がすきな友達、といってもどうせみんな趣味方向性はばんらばんらですから、

一冊の本について盛り上がるなんて稀有なことなんですわぁ。



ま、それはいい。こないだ吾妻ひでおの「うつうつ」読み返したら、ちゃんと(?)笙野頼子でてたし。

で、ますます吾妻さんの「うつうつ」がすきになったわけですが。




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笙野さんが縁もゆかりもない千葉の一戸建てに引っ越したのは、


野良猫たちを救うためでした。



笙野さんはもともとは猫嫌いだった、と書いていて、今回その文章を読んでぎょえーと

驚く私。


だ、だって、笙野さん、あなた前作(だと思うが)「片付けない作家と西の天狗」では

もともとは猫嫌いだなんてひとっ言も、と思ったんですが、



そんな猫嫌いだった笙野さんが、失くした愛猫・モイラ(もちろん、森茉莉の「甘い蜜の部屋」のモイラから取ったんである)の死から、ついには、自分は11月6日に死んでしまう、と思ってしまって、


なにしろ、親戚に宝石商が多いだけあって、猫を引き取ってもらうあのひとにはこの宝石、この子をひきとってもらうあのひとにはこれを、と宝石と猫についての遺書を制作したり、


毎日電話している(偉いなあ!姫野カオルコさんもそんなことを書いていたのですが、私が無精薄情すぎるのでしょうか)お父さんに金庫のカギのありかをさりげなく教えたり、


その死への準備も周到なのであった。


でももちろん、死なない。



ちょっと読んでいて泣けたのは、その前にあったパーティで、私12月6日に死ぬかもしれない、と冗談のように話して、だから6日になったら電話してね、と言っていた編集者のひとがちゃんと電話してきたことだった。


「片付けない…」のあとがきで「2004年3月24日がモイラの命日になった」とあったので、

モイラの死の重さを思った。



成田といえば飛行場なのですが、この連作短篇集は、モイラの死とそれを受け入れるまでの日々と飛行機、飛行場、信仰に関することどもがタペストリーのように織り交ぜて語られているのですが、



本の最後の方の、ほんの1ページに私は、瞬間、息を呑んだ。



「倉橋由美子氏の追悼を2回断った。」



いきなり倉橋由美子。まあ、あれだ。初恋の人の写真が唐突に出てきた、

くらいの衝撃です。まさかと思っていたところに出てきたので驚きも倍増だ。


金井美恵子とか河野多恵子だったら、べつに驚かないんですけどね。

故人だからってことではないですよもちろん。


そ、そうでしたか、追悼2回、断った、ですか。


金井美恵子は断らなかったのに。ってか金井美恵子の追悼文がいちばんすきだった。小説現代に載ったやつ。昔徹底的にすきだった作家だったから、追悼が載っているものはけっこう読んだけど、どれも正直、



腰が引けてる、




と思ってしまった。まるで迂闊なことを書けば、倉橋由美子の呪がかかるとでも思っているのか、

みなきれいなことばかり書いていてつまんなかった。つまらなく思えた。まるで倉橋由美子自体が詰まらなかったのかもしれないと思うほどに。


私ははじめて笙野頼子の文章を読んだ時、金井美恵子は連想したけれど、倉橋由美子は全然、思い浮かばなかったのですが、



「倉橋氏の男性読者が私をあげつらい嫌ってくれる度、私は安心だった。でも亡くなってから少し

恥じつつこう考えていた。彼女も私の「母」と思われる事に辟易していたのかもと。」




ふと、ここで「ジュリー&ジュリア」を思い出したわけです。辟易。しかし、笙野頼子の目指す文学は

倉橋由美子のそれとはべつの地平だと思うのだが。