ウイズ東淀川令和2年3月レポート
3月8日、淡路自由空間倶楽部において、「人生100年時代で生涯自立に向けて」と
題し、蒲田雄輔「かばたゆうすけ」氏「83歳」をお迎えし、定例会を開催しました。
こんにちは、蒲田雄輔「かばたゆうすけ」と申します。よろしくお願いします。
字が蒲焼きの蒲、田んぼの田と書きます。同じ字で東京の蒲田「かまた」という方は
おられるんですが、蒲田「かばた」というのは少ないです。丹後の出身でして、
野村さん(元野球選手)の近くですね。間人「たいざ」というところで蟹が有名ですね。
間人蟹というとブランド蟹で高いんです。間人は難読地名でして、人間を逆にして、
「たいざ」と読みます。この地域だけの読み方らしいです。蒲田「かばた」と読むのも
この地域です。 鈴木さんとはタンデムを楽しむ会で知り合いました。あおぞら財団は
もう20年ぐらい前、会社を退職してから知って、「自転車文化タウン作りの会」の
新田さんは、大阪大学元教授。私と同じく茨木に住んでおられます。
2年前、視覚障害施設から、ガイドヘルパーの手が足りなくて、手伝ってもらいたいと
申し出がありました。そこで視覚障害の方とのお付き合いで、自転車で送り迎え
できるんだったらやりたいなぁと。タンデム自転車の仲間で鈴木さんも御存知の
小山さんが熱心な方で、1回やってみたいと言う事で乗り気でやっていただいて。
今は、行政がその辺のところ受け入れてくれないので、停止しているのが現状なんです。
そういうところから、視覚障害者の小山さんはCVJの大島さんとも親しく
台湾ツーリングにも参加されています。
Y氏・・・「見た目も声も、とてもお若いです。ウイズ冊誌のパネラー紹介を見て、
ビックリしています。」
・・このような感想を交えながら話は続きました。
余談になりますが、私は大阪生まれで大阪育ちです。生家は阪堺線「北田辺」駅で今は
地下鉄「田辺」駅になっています。その近くで長屋住まいをしてました。線路を隔てて
大きなお寺があったんです。そこを狙って原爆の模擬爆弾を投下されました。その爆風で
自宅が被害を受けました。この事を知ったのは疎開後の事でした。今でもそこでは
慰霊祭をやっておられるとのことです。そこには小学2年までいました。疎開暮しは2年
経験しました。学童疎開や集団疎開ではなく、家族全員で疎開しました。
<<大学卒業後、貿易商社へ就職>>
会社は、トーメンという貿易商社です。トーメンというのは、三井財閥系なんです。
三井物産の面部が切り離されて造られました。というのも、面は投資の要素があり、
ある意味バクチなんです。戦後、片仮名のトーメンという社名になりました。
トーメン入社については、親父がたまたま繊維会館の事務所の世話をしていた関係で
そこの会長がトーメンの社長でした。そういうコネで入社試験を受けて、入社しました。
入社当時、総合商社から専門商社への変わり目でした。私は繊維部門への配属でした。
繊維と言っても綿布・綿糸布が中心でした。私が入社したころ、ナイロン・ポリエステルが
出てきまして、化学繊維の部署でした。入社して5年目に、2年間単身で海外赴任しました。
初めて赴任したのが、あのゴーンが逃げたレバノン「ベイルート」でした。それは、
昭和40年1月でした。当時は、ベイルートは良かったらしいんです。
それが、今では政権も変わりました。
その次、南アフリカに行きました。結果的には南アが良かったように思います。対ドルは
360円時代でした。伊丹空港も飛行機まで歩いて行ってタラップを昇り降りしました。
当時の航空券は片道60万円でした。新卒の給料が1万数千円の時代です。とにかく
南アまでは遠い道のりで、アンカレッジで乗り替えて、ヨーロッパへ行って、一泊して、
南アフリカへ。南回りもありましたが、乗り継ぎ乗り継ぎで時間がかかりましたので、
北回りで行きました。南アまでは今でも直行便はなくて、香港あたりで乗り換えだと思います。
<<アパルトヘイト《人種差別》の南アフリカでの生活>>
南アへ行って驚いたのは、ヨハネスブルグなどは、当時、日本よりはるかに近代的な
建物が多く、何十階のビルが乱立していました。近郊には金やダイヤモンドの採掘後の
ボタ山があちこちにありました。日本から来たお客さんがダイヤモンドを買いたいと言うので、
ダイヤモンドのエージェント「代理人や代理店」を現地の知り合いから紹介いただきました。
布袋にダイヤモンドを入れていて、ガラス玉みたいな扱いでした。それでも高いものから
安いものまで10種類ぐらい分けてあるんです。売買するんだったら無傷の物を買いなさいと
言われました。ちょっとでも傷があると値打ちが違うそうです。素人が見て分かるような
ものではないんですが…。無傷の者とちょっとでも傷があるのと、1桁~2桁違うらしいんです。
とても素人では分かるものではありません。
その当時は、アパルトヘイトのまっ最中でした。私はある意味で、止む得えないなぁと
思いました。でないと町が成立しないように思います。それほどレベルの違いがあったんです。
一番気の毒だと思ったのは、黒人でも大学を出ている人はいるんですが、それでもちゃんと
した職業に着けないんです。車のドライバー程度ですね。私どもの事務所にも二人いましたが、
一人は大学を出ているんです。差別と言うのはアメリカでもありますし、インドなんかは
カースト制度(*参照)のような典型的なものがありますよね。南アはアパルトヘイトを
宣言してしまったので、必要以上に差別していました。東の方にはダーバンと言いう都市が
あり、マハトマガンジーが一時期住んでいた事がありました。そこは結構インド人も多く、
インド人は白人扱いではないですが、店を持ったりして、それほど差別はありませんでした。
黒人のなかでも東アフリカの黒人はレベルが高いと聞いていました。南の黒人は
ズール族と言って黒人のレベルもどちらかというと低いと言われています。
アフリカの中でもケニアは東に位置し、最初に独立しました。
*カースト・・・インドに古来伝わる世襲の階級制度。
大きく婆羅門(バラモン=僧)・刹帝利(クシャトリヤ=王族・武人)・吠舎(バイシャ=平民)・
首陀羅(スードラ=奴隷)に分かれ、それぞれ職業を世襲し、通婚したり食事を
共にしたりすることを禁じている。