ウイズ東淀川のブログ

ウイズ東淀川のブログ

平成6年7月から、東淀川区において結成された、コミニケーション・ボランティア・グループです。
奇数月の第二日曜を定例会とし、【共生】を理念として、共に語り・共に学び・共に遊んでみませんか「をキャッチフレーズに、誰もが集える」場を提供しています。

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ウイズ東淀川令和2年3月レポート
 3月8日、淡路自由空間倶楽部において、「人生100年時代で生涯自立に向けて」と

題し、蒲田雄輔「かばたゆうすけ」氏「83歳」をお迎えし、定例会を開催しました。
 こんにちは、蒲田雄輔「かばたゆうすけ」と申します。よろしくお願いします。

字が蒲焼きの蒲、田んぼの田と書きます。同じ字で東京の蒲田「かまた」という方は

おられるんですが、蒲田「かばた」というのは少ないです。丹後の出身でして、

野村さん(元野球選手)の近くですね。間人「たいざ」というところで蟹が有名ですね。

間人蟹というとブランド蟹で高いんです。間人は難読地名でして、人間を逆にして、

「たいざ」と読みます。この地域だけの読み方らしいです。蒲田「かばた」と読むのも

この地域です。 鈴木さんとはタンデムを楽しむ会で知り合いました。あおぞら財団は

もう20年ぐらい前、会社を退職してから知って、「自転車文化タウン作りの会」の

新田さんは、大阪大学元教授。私と同じく茨木に住んでおられます。
 2年前、視覚障害施設から、ガイドヘルパーの手が足りなくて、手伝ってもらいたいと

申し出がありました。そこで視覚障害の方とのお付き合いで、自転車で送り迎え

できるんだったらやりたいなぁと。タンデム自転車の仲間で鈴木さんも御存知の

小山さんが熱心な方で、1回やってみたいと言う事で乗り気でやっていただいて。

今は、行政がその辺のところ受け入れてくれないので、停止しているのが現状なんです。

そういうところから、視覚障害者の小山さんはCVJの大島さんとも親しく

台湾ツーリングにも参加されています。

Y氏・・・「見た目も声も、とてもお若いです。ウイズ冊誌のパネラー紹介を見て、

ビックリしています。」

・・このような感想を交えながら話は続きました。

 余談になりますが、私は大阪生まれで大阪育ちです。生家は阪堺線「北田辺」駅で今は

地下鉄「田辺」駅になっています。その近くで長屋住まいをしてました。線路を隔てて

大きなお寺があったんです。そこを狙って原爆の模擬爆弾を投下されました。その爆風で

自宅が被害を受けました。この事を知ったのは疎開後の事でした。今でもそこでは

慰霊祭をやっておられるとのことです。そこには小学2年までいました。疎開暮しは2年

経験しました。学童疎開や集団疎開ではなく、家族全員で疎開しました。

<<大学卒業後、貿易商社へ就職>>
 会社は、トーメンという貿易商社です。トーメンというのは、三井財閥系なんです。
三井物産の面部が切り離されて造られました。というのも、面は投資の要素があり、

ある意味バクチなんです。戦後、片仮名のトーメンという社名になりました。

トーメン入社については、親父がたまたま繊維会館の事務所の世話をしていた関係で

そこの会長がトーメンの社長でした。そういうコネで入社試験を受けて、入社しました。
 入社当時、総合商社から専門商社への変わり目でした。私は繊維部門への配属でした。

繊維と言っても綿布・綿糸布が中心でした。私が入社したころ、ナイロン・ポリエステルが

出てきまして、化学繊維の部署でした。入社して5年目に、2年間単身で海外赴任しました。

初めて赴任したのが、あのゴーンが逃げたレバノン「ベイルート」でした。それは、

昭和40年1月でした。当時は、ベイルートは良かったらしいんです。
それが、今では政権も変わりました。

その次、南アフリカに行きました。結果的には南アが良かったように思います。対ドルは

360円時代でした。伊丹空港も飛行機まで歩いて行ってタラップを昇り降りしました。

当時の航空券は片道60万円でした。新卒の給料が1万数千円の時代です。とにかく

南アまでは遠い道のりで、アンカレッジで乗り替えて、ヨーロッパへ行って、一泊して、

南アフリカへ。南回りもありましたが、乗り継ぎ乗り継ぎで時間がかかりましたので、

北回りで行きました。南アまでは今でも直行便はなくて、香港あたりで乗り換えだと思います。

<<アパルトヘイト《人種差別》の南アフリカでの生活>>
 南アへ行って驚いたのは、ヨハネスブルグなどは、当時、日本よりはるかに近代的な

建物が多く、何十階のビルが乱立していました。近郊には金やダイヤモンドの採掘後の

ボタ山があちこちにありました。日本から来たお客さんがダイヤモンドを買いたいと言うので、

ダイヤモンドのエージェント「代理人や代理店」を現地の知り合いから紹介いただきました。

布袋にダイヤモンドを入れていて、ガラス玉みたいな扱いでした。それでも高いものから

安いものまで10種類ぐらい分けてあるんです。売買するんだったら無傷の物を買いなさいと

言われました。ちょっとでも傷があると値打ちが違うそうです。素人が見て分かるような

ものではないんですが…。無傷の者とちょっとでも傷があるのと、1桁~2桁違うらしいんです。

とても素人では分かるものではありません。

 その当時は、アパルトヘイトのまっ最中でした。私はある意味で、止む得えないなぁと

思いました。でないと町が成立しないように思います。それほどレベルの違いがあったんです。

一番気の毒だと思ったのは、黒人でも大学を出ている人はいるんですが、それでもちゃんと

した職業に着けないんです。車のドライバー程度ですね。私どもの事務所にも二人いましたが、

一人は大学を出ているんです。差別と言うのはアメリカでもありますし、インドなんかは

カースト制度(*参照)のような典型的なものがありますよね。南アはアパルトヘイトを

宣言してしまったので、必要以上に差別していました。東の方にはダーバンと言いう都市が

あり、マハトマガンジーが一時期住んでいた事がありました。そこは結構インド人も多く、

インド人は白人扱いではないですが、店を持ったりして、それほど差別はありませんでした。
黒人のなかでも東アフリカの黒人はレベルが高いと聞いていました。南の黒人は

ズール族と言って黒人のレベルもどちらかというと低いと言われています。

アフリカの中でもケニアは東に位置し、最初に独立しました。

*カースト・・・インドに古来伝わる世襲の階級制度。

大きく婆羅門(バラモン=僧)・刹帝利(クシャトリヤ=王族・武人)・吠舎(バイシャ=平民)・

首陀羅(スードラ=奴隷)に分かれ、それぞれ職業を世襲し、通婚したり食事を

共にしたりすることを禁じている。

 11月10日、淡路自由空間倶楽部において、高橋あい子氏をお迎えし、

「府視協会長に聞く」と題し、ウイズ定例会を開催しました。

パネラー: 高橋あい子氏 全盲70歳「府視協会長」マッサージ業


 こんにちは、高橋あい子と申します。よろしくお願いします。私は、この度、

府視協副会長の紹介をいただき、鈴木さんと知り合う事になりました。

昭和24年鹿児島県の田舎に生まれました。母も姉も視覚障害者でして、多分遺伝なんだと思います。

小学校一年生から鹿児島県立盲学校へ入学しました。卒業するまで、夏休みや冬休みは

実家に帰りますが、それ以外は盲学校で過ごし、親と暮らすより長い間、

盲学校寄宿舎での生活でした。高等科3年の後、専攻科「鍼灸」へも進学するつもり

だったんですけど、高校3年の時、大病しまして、進学は断念しました。ですので、

あんまマッサージのみの資格を取得しています。

 

<<施術所サウナなどで多忙な生活>>
 あんま・マッサージの免許を取得した頃、姉はその2年前に大阪へ来ていましたので、

姉を頼って大阪へ来ました。最初に働いたのは十三でして西之町の施術所でした。

ちょうどその頃、万博景気でサウナマッサージが流行っていたんです。忙しい時は

昼夜問わず1年ほど働いたんですが、次の職場の茨木に私も含め、従業員をごっそり

引き抜かれました。私は、少し見えていましたので、晴眼マッサージ師と一緒に

対等に働いていました。

 姉が昭和45年に結婚していまして、母親も一緒に大阪へ出てきました。母親とは

結婚後同居しました。忙しい仕事の末、茨木に新居を構え現在も生活しております。

 

<<孫二人のおばあちゃん>>
 昭和51年に結婚しまして、52年と55年生まれの息子がいます。兄には子供が

2人います。弟の方は離婚を経験しておりまして、たまにメールやラインでのやり取りを

しているくらいです。

 

<<介護と府視協活動の両立>>
 平成11年に母親が倒れまして、13年に夫も脳梗塞で倒れました。主人も網膜色素

変性症の視覚障害者で、いまは全盲になっています。それから、平成14年に

母親が亡くなりました。主人は50歳で脳梗塞になり、もう20年近くの介護をしております。

主人が倒れてからは自分が自宅の治療院の仕事をしなくてはならなくなったんです。

主人は半身不随ではありますが、家の中では自力で動けます。毎日同行援護を使って

散歩に1時間ぐらいリハビリを兼ねて出かけています。

 

<<府視協会員800名の会長を任される>>
 私が、府視協の仕事で宿泊するような時は、夫はショートステイに行ってもらっています。

平成13年には府視協女性部を担当していました。平成27年から会長になりました。

府視協「会員は約800名」余りの会長は3期目で、日本盲人福祉協会連合の

評議員を任せられています。日盲連の全国大会が年に1回、評議員会が3月ごろに

あります。日盲連の全国大会が今年は札幌でありました。

 

<<パソコンも生活に活用>>
 私が育った時代の教育は、現在と違っていて、私の様な弱視でも墨字教育は無く、

点字教育中心に行なわれていました。

―― 『墨字教育を受けていたら、パソコンの文章で墨字変換に苦労はしないで

済んだかも知れません。鈴木が高橋さんとのやり取りで感じたこと』――
鈴木との連絡などはパソコンのメールでやりとりしています。

 

<<府視協の建て替えが課題>>
 府視協は一般財団なので、評議員を備えています。これを各支部長が当たっています。

支部長が理事になっている場合は、副支部長が評議員をしています。事務局長は

長い間橋本さんでした。今期から山本さんという方に代わりました。橋本さんは私と

同い年なんで、定年後10年余り事務局長を担っていただきました。でも、今も参与で

残っていただいています。府視協は、今の建物が耐震の基準に満たなくて、立て替えが

大きな課題になっています。今度建つ場所は森之宮で予定されています。そこは

府視協だけでなく3センターが入るらしいんです。社会参加促進センター、それと

聴覚障害者の会も入るんです。

 

☆大阪府視覚障害者福祉協会の主な事業は以下の通りです。
出典 : 府視協ホームページから

点字図書館運営事業/大阪府盲人福祉センター運営事業/視覚障害者家庭訪問

指導事業/視覚障害者歩行訓練事業/ガイドヘルパー養成事業/点字奉仕員養成事業/

朗読奉仕員養成事業/視覚障害者生活行動訓練事業/鍼灸マッサージ健康保険取り扱い

請求事務代行事業/点字広報等発行事業/点字による即時情報ネットワーク事業/

視覚障害乳幼児療育事業/視覚障害者用具購買事業/大阪府視覚障害者福祉大会

開催事業/視覚障害者福祉研修会開催事業/「月刊府視協」発行事業/視覚障害

施術者講習事業/体育事業/文化事業/女性部事業/青年事業/高齢部事業/特別事業/

 

大阪府視覚障害者福祉協会とは

沿革

・昭和39年3月25日 早川福祉会館で結成大会を行う。
・昭和43年5月1日 事務所を大阪府厚生年金会館(現在の府立青少年会館)に移転する。
・昭和44年4月1日 「中途失明者に対する訪問指導員制度」発足。
・昭和46年5月1日 財団法人の許可を受ける。
・昭和49年 視覚障害乳幼児療育事業「希望教室」が始まる。
・昭和52年8月10日 大阪府盲人福祉センターの完成に伴い、事務所を同盲人福祉

 センター(現在地)に移転する。
・昭和53年5月3日 大阪府知事より組織優良団体として表彰を受ける。
・昭和58年3月10日 大阪府盲人福祉センター点字図書館完成。
・昭和63年5月11日~13日 第41回全国盲人福祉大会を開催。
・平成2年1月15日 点字広報「つみぐさ」を発刊。
・平成3年3月1日 点字による即時情報ネットワーク事業開始。
・平成11年4月1日 「財団法人 大阪府視覚障害者福祉協会」と名称を変更。
・平成19年8月30日 ガイドへルパー養成事業開始。
・平成25年4月1日 「一般財団法人 大阪府視覚障害者福祉協会」に法人格を変更。

テーマ:  「これも1つのご縁かと!!」
パネラー: 深谷 佳寿(フカヤ ヨシカズ)氏 「48歳」「全盲」  盲導犬使用者
        鍼灸・マッサージ師 
9月8日、自由空間クラブにおいて、盲導犬使用者の深谷 佳寿(フカヤ ヨシカズ)氏を

お迎えし、定例会を開催しました。

 

☆こんにちは、阿倍野区から来ました深谷 佳寿(フカヤ ヨシカズ)と申します。

ニックネームはピカちゃんと呼ばれています。頭がこのように坊主頭なんで。

ここにおられる森田さんの仲間にもそう呼ばれています。1971年生まれの48歳です。

 

<<動物に囲まれた少年時代>>
 生まれは愛知県でして、両親はそろばん塾を経営。父はすげえ変わり者でして、

自然をこよなく愛しておりまして、小学校の隣に数百坪の原野がありました。

その原野を買って、小学校の廃材をもらってきて、廃材で家と教室を作りました。

あとはその原野を開墾して家畜小屋を作り、牛、ブタ、ヤギ、にわとりを飼っていました。

小学校3年生の夕食の時に父が「明日馬が来る」というような、動物にかこまれての

不思議な生活でした。なので、鳥小屋から獲って来た生みたての玉子を飲んで学校に

行ったりしてました。今考えるとバイ菌だらけの中で生活していたんですね。何食っても

腹は壊さないし、丈夫な身体に育ちました。あの汚さが良かったんだなあと両親に

感謝しています。また両親には、やりたいと言ってダメと言われたことがないんです。

更に、あれをしろ!これをしろ!とも言われたことはありません。ほったらかしと言えば

ほったらかし。好きなようにやれ!という感じで育てられました。その頃は眼は見えて

いたんで、普通に生活していました。「馬に乗って魚の配達に行ったり」普通じゃ

ないかも知れませんが「笑い」
Q:お父さんはそろばんの先生じゃなかったんですか?
A:父はそろばん塾をしながら、朝は、魚市場の競りをしていました。なんせそろばん

10段ですんで、競った魚をその場で計算して、伝票を作れるんですね。なので、

午前中の勤務でフルタイムとみなされていたようです。朝4時ごろから魚市場の競りをして、

昼寝の後、3~4時ごろに、珠算塾「2教室を持っていた」の生徒達が来るんです。

そんな生活をしていましたので、魚はしょっちゅう新鮮なものを持って来てくれたんです。

親戚んちへ持って行けと言われると、「馬で行っていい?」と尋ねると、「いいよ」と言われ、

パッカパッカと馬に乗って配達に行ってたんです。馬は道路交通法では軽車両に

分類されるんで、自転車や原付バイクのように道路の左側を走行しなければなりません。

信号などで止まっているとトラックのコックピットと同じぐらいの高さに自分の顔が

あるんです。運転手が「子供?馬?!」と驚いた顔を見るのが楽しかったんですね。
愛知県の田舎とはいえ、馬を飼っているのは自分っちだけだったんで珍しい

家庭環境だったんだなあと思います。

 

<<姉とは別の小学校へ>>
 小学校に入学するのに近所の学校と教育大学の付属小学校とどちらにするか選ばされました。

姉は近所の学校へ。自分は学芸大付属小学校を選びました。僕は通学に1時間40分ぐらい

かけて通っていました。学校が町場にあるので、盲学校などもあり、たまに目の不自由な

白杖を突いた学生を見かけることもありました。

 

<<手引きがきっかけで結婚へ>>
 僕は4歳からずっとボクシングをしていましたので、ボクシングと遊ぶことぐらいしか考えず

小中学校を過ごしていました。それで、中学を卒業したら、東京のボクシングジムへ

通いたいという気持ちがありましたので、東京の高校を受験し、合格して、寮生活が

始まったんです。東京の高校に通いながらジムに行ってたんですが、ジムの帰りに、

道に迷っている視覚障害者の女性が、いまして、その子がとてもかわいかったんです。

その子は筑波大学附属視覚学校の生徒でした。これがきっかけで生徒会同士の交流が

始まったんです。その彼女とはお付き合いが続きました。グループでディズニーランドへ行ったり、

全盲をぞろぞろ連れて行動したり、フロアバレーなども練習相手としてサポートしました。

そんなことで、盲学校には結構入り浸っていました。その頃には携帯メールもありませんし、

なんとかして交換日記なんかをしたいわけですよ。それで、点字を覚えました。

彼女が指で読めるなら、自分も指で読めないことはないと思い練習したら読めるようになりました。

なので、点字は晴眼者の頃から指で触読していました。参考書なども点字の者は少ないので、

自分が点訳ボランティアをしました。

 

<< 18歳の時、ボクシング中の事故で失明。>>
 そんなこんなしているうちに、高校3年生の時に、ボクシングの練習中に事故って視力を

失いました。で、盲学校に転校することになりました。
~~参加者からの質問~~
Q: 網膜はく離を起したんですか?
A: 視神経を損傷したようです。殴られて失神し、気が付いた時は目が見えませんでした。

自分的には目が回っているだけの様に思っていました。友達に付き添ってもらって、

寮に帰って眠ったんです。あくる日になっても見えないんで、これはやばいなと思いました。

翌日病院へ行くと失明の宣告を受けました。これはたいへんなことだと思い両親に

電話したら、翌日すっ飛んで来てくれました。あの両親っておかしいんですよね、

「一番最初に、連絡してほしかった。少しは心配させてほしい」と言ったんで、しばらく

付き添ってくれるんだろうなあと思っていましたら、3時間で帰ってしまいました。「笑」
1か月近く入院していたんですが、両親はそれっきり来ませんでした。それもあってか、

友達に支えられました。しょっちゅう盲学校の学生達が遊びに来てくれました。

それもあり、ごく自然に盲学校へ転校することができました。転校すると教室の自分の

席の後ろには例の彼女がいました。そんな事で失明の苦労話をしたいんですが、

ないんです。話のタイトルを「ご縁」とさせてもらったのもほんとご縁のある失明だったんです。

盲学校には中途失明者の為の特別授業「点字・歩行訓練」などの特別授業を組んで

くれるんですが、点字の授業の時には先生が点字を良く知っているので驚いていました。

高校3年生の10月から特別に留年も無く、転校したんですけど、何も苦労はありませんでした。

Q: ボクシングでは目に当たったからと言って失明するわけじゃないんですよね?
A: 本当に当たり所が悪かったんです。仮に目に直接当たったとしても1/100の確率ですかね?
A: いやいや僕なんか宝くじ並みの確立だと思います。
網膜剥離はわりと多いんですが、僕みたいに神経を損傷して失明するのは珍しい方です。
この事は分かっていただきたいので、話しますが、僕は確かに彼のパンチで視力を

失ったわけですが、視力を奪った側はそんなことするつもりじゃないし、悪意も全ったく

ないんです。不幸にも練習中の一発のパンチがボクサー生命をうばってしまったんです。

僕はその彼がこの事故によってボクシングを続けていけなくなることが一番ショック

だったんです。謝りに来てくれたんですが、それは違うと思いました。彼が僕のせいで

ボクシングができなくなることがショックでした。こんな話をして、男同士、抱擁し合った

ことを思い出します。結果的に、彼は24歳ぐらいまでボクシングを続けたと聞いています。
また、なぜフェイスガードをしていなかったと言われるんですが、相手は試合の前で

実践感覚をつかみたかったようです。僕もフェイスガードをしていなかったことは

ミスなんですがね

 

<<大学進学を考える>>
 高校3年生だったんで、大学を受けたんですが、どこも落ちたんです。点字受験で

自分のやりたいこととなるとかなり、限られています。ちょっと自分の届かない所ばかりしか

受けなかったんです。結果的に東京都立八王子盲学校理療科「鍼灸・マッサージ課」で

資格を取ることになりました。理療科の単位はなんとか獲れるぐらいの出席率で、

ひたすらバイト「マッサージ・スタジオなどで音響エンジニア」に励んでいました。
ボクサー時代には、いろんなバイトをしました。バキュームカーの掃除など「笑い」

~~ここで唐突に質問が入る~~
Q: 盲人の彼女とお付き合いは続いていたんですか?
A: 盲人の彼女ですか? 続いていまして、結婚しました。

理療科を出て、市立盲学校の助教諭として盲学校に勤めました。彼女は大学に行ってて

大学3年の時に子供ができ、結婚「92年」しました。僕が21歳の時でした。結婚後

助教諭の収入だけだと少ないんで、健康ランドで働きながら開業もしていました。

 

<< 39歳の時に離婚>>
 僕たち夫婦は子育てパートナーとしてはすごく良かったんですけど、お互い独立心が

強かったので、子供がある程度育ってきたら、彼女自身もやりたいことがあると言う事で

発展的離婚をしました。

ですので、友達としては仲がいいんで良き友に戻ったかなあと言う感じです。

Q: お子様方は?
A: 四人いまして、男の子と女の子と二人づつ「女男女男の順」でいます。
 大阪には女の子が一人いまして、動物看護士をしています。小さい頃から動物が大好きで、

高校進学で動物系の高校へ行きたいとの希望で大阪に来ました。
僕も妻も両親にやりたいことをダメと言われたことがないんで、

子供達は好き放題に生きています。

 

~~上記の話などいろんな分野に広がり、深谷さんのお人柄を垣間見ました。

以下に講演内容以外の経歴を記します。

☆ 学校職員を経て、24歳で独立。新潟県を中心に、最大6店舗、40名以上を雇用
 するクイックマッサージ店、「ライフjp」を運営(現在も継続中)
☆32歳の時から盲導犬との生活を始め、現在全日本盲導犬使用者の会会長を務める。
☆39歳の時に離婚をきっかけに関西に移住し、通信系企業に勤務。
 
以上 テープ起し鈴木昭二

パネラー: 上田一裕 氏「全盲58歳」「大阪府視覚障害者福祉協会副会長」

 鈴木との関係・・・10年前から日本ライトハウスで評議員を務めていてその会議で

 いつもご一緒しています。

 

☆こんにちは、箕面市から来ました上田一裕と申します。よろしくお願いします。
私は昭和36年生まれです。私の眼は一見見えているように思われますが視力は0です。

ただ強い光を感じるぐらいです。地元の桜ケ丘幼稚園を出て、箕面市南小学校へ

入学しました。得意科目は給食と理科「笑い」でした。当時は速く昼食を食べ終わると、

じゃんけんで勝つとおかずがおかわりで来たんです。好物はグリンピースの入った

カレースープでした。鈴木の給食の思い出は脱脂粉乳で器の底に粉が残っていて決して

おいしいものではありませんでした。「鈴木言」一時戦後の食糧難の話が盛り上がりました。

<<箕面村から箕面市へ>>
昭和39年頃に箕面市になりました。それ以前は箕面村と言ってました。

中学に進学してから、今の様な三角形の牛乳パックになりました。その当時の箕面市は

空き地がたくさんあって、今ごろの様な夏には7時半ごろまでサッカーやソフトボールを

やっていました。中学に入ったら野球部に入りたかったのですが、ありませんでした。

結局バレーボール部に入りました。北摂では結構強かったんですよ。高校は桜塚へ進学

しました。ここで優秀な人は日体大等へ進学しておられました。年間の休みと言うと正月の

三日間、だけでした。通学は自転車で片道10キロで、往復20キロを毎日通っていました。

箕面は山の上なので往路は下り坂道、復路は上り坂になっていますが、

倶楽部を続けていたんです。

<<手術を決断>> 
 身体がだるい、物が見えにくい、という症状であっちこっち病院へ行ったんですが、

原因が分からない。そこで、大阪医科大学で当時最新の3億円ほどしたCTスキャンで

頭の腫瘍があると言う事を見つけてもらいました。それは高1から高2年のころでしたね。

吹田の循環器センターで手術をしましたら、視力は目を近付けたら、エレベーターの

文字が読めるぐらいの弱視だったんです。手術したら見えるようになるよって言われて

いたんですが、手術以前より暗くて見えにくくなっていました。それが忘れもしません、

12月8日でしたね。勉強の嫌いな僕でさえ、こういう状況になると勉強したくなるんです。

<<ライトハウスから盲学校へ>>
 勉強したくても桜塚には行けませんので、盲学校という選択肢を選ぶしかありませんでした。

盲学校へ行くにも点字ができないと勉強もできないんでライトハウスへ半年間入所しました。

9月入所で翌年3月卒業という短期間の入所でした。その間の訓練なんですが、

まずはカナタイプを練習しました。歩行訓練の最初の訓練は立ったまま杖を持って

左右に歩幅ぐらいの範囲を右に左に歩調に合わせて振るんです。実際に道に出て、

歩くのは一日おきに出かける銭湯へ単独で行けるようにする訓練です。第二目標は先頭から

50メートルほど行くとある喫茶店です。第三の目標は放出駅への往復です。歩行訓練の

最終目標は心斎橋のソニータウンでした。このビルの階上のお店でパンフレットをもらって

帰ってくると言うものでした。これができると日常生活で不自由せず、電車・バスなどの

公共交通機関を利用し、自分が必要とする買い物を単独で達成する。ここまで来ると後は、

応用の技術で自分でアレンジすれば、全盲の者でも生活に不自由さは軽減されるもので

あるとの考えから、目標を徐々に遠くへ進めて行きました。

<<京都の盲人三療指導所>>
 半年間のライトハウス訓練が終了すると大阪市立盲学校高等部へ編入しました。

担任がU先生で、初めての中間テストで英語の点数が39点でした。

「上田さん、もうちょっと頑張ってもらわんと示しがつかんですよ」と言われました。

点字を知っている方は分かるんですが、英語点字は略語縮語と言うのがあるんです。

これも覚えなくてはなりません。体育の授業ではプール「25メートル6コース」があるんです。

スポーツ万能の学生仲間がいて、柔道陸上水泳など万能なんです。

何がうらやましいかというと、スポーツの大会がある度に選手は公休になるんですが、

出場しない私は一人だけ勉強しなければならないんです。10人のクラスメイトの内

半分ぐらいがスポーツの大会に出ていました。それから、めでたく高校を卒業しまして、

あんま・指圧・マッサージ課へ進学しました。それから京都三療指導所*参照で2年間の

鍼灸の勉強をしました。後に開業し、現在に至っています。取得免許としては

鍼灸マッサージ以外に無線の免許を持っています。

<<騙されて支部長に?>>
 府視協「大阪府視覚障害者福祉協会」という会がありまして、18才で入会しました。

目が悪くなったころ、近所の視覚障害者に相談に行ったところ、「府視協に入れ」と言われ、

入会しました。私が誘いを受けた時にちょうど音声ワープロができたんです。
それをネタに入会しないかと言われて、騙された様なもんです。当時は今の様な

3,5インチのフロッピーディスクではなく、5インチでした。

平成4年のある日、府視協の常務が天王寺からわざわざ箕面まで出かけて来て、

青年部長に半強制的にされまして、2年後に箕面市支部長になりました。

平成9年に理事になりました。今年も役員改選があり、茨木市の高橋たえ子氏が

会長になっています。府視協に関わり始めた頃はここまで府視協にどっぷりとつかる

つもりはなかったんですが、今はずぶずぶにかかわっています。平成19年度から

同行援護養成研修をしたり、パソコン講習をしたり、青年部長をやったら辞められると

思ったんですけど、今だに続けています。大阪でタンデム自転車を楽しむ会メンバーの

阿佐さんと一緒に青年部を担当しています。

 

*昭和56年10月,京都府盲人協会が京都ライトハウス内に「紫野福祉センター」を設立。

社会福祉法人の認可を得て、京都盲人三療指導所、点字出版事業の移譲を受け、

京都府中途失明者巡回生活指導員派遣事業を加える。

ウイズ東淀川3月レポート

 

パネラー:高橋實氏(87歳)
     社会福祉法人 視覚障害者支援総合センター「*参照」 元理事長

 

<<講演冒頭での発言>>
ーー講演の前段として、今、あはきの業界で問題になっています平成医療学園訴訟に

ついての私の見解を述べさせていただきます。

☆先日ある方と話していましたら、高橋さんは、19条問題では日盲連を含めて

皆さんがやっていることに対して、批判的な意見を持っていらっしゃると聞きました。

 

~~上記の当事者の質問に対して~~
いやいやとんでもない、批判的ではありません。考え方としては月刊視覚障害という

雑誌の創刊号から300号以上の発行で、一昨年の3月まで編集発行の責任者を

していました。19条問題を書いていましたので、その話から始めたいと思います。
 第19条が憲法で保障する職業選択の自由に違反するとして柔道整復師や鍼灸師

養成校を複数経営している「学校法人 平成医療学園」が国を相手取り訴訟を起こしました。

あはき柔道整復師などの答申で、いずれ裁判沙汰になるだろうと思っていましたが、

まさか大阪・東京・仙台で一斉に裁判が行なわれるとは予想もつかなかった訳です。

この裁判は最高裁まで必ず行くんだろうと思います。原告の法人側は新設を約50年前の

法改正で障害者を取り巻く雇用関係は大きく改善し、あんまマッサージ指圧師鍼灸師以外の

道が開けていると主張しているわけです。同法の「当分の間」が争点なわけです。

参考までに、第19条の解説あんまマッサージ指圧師鍼灸師等に関する法律厚生省

健康政策局医事課編著の1990年2月10日の97ページには、
1.本条は、視覚障害者のあんまマッサージ指圧師の職域優先を計るため、晴眼のあんま

マッサージ指圧師にかかる学校、または養成施設、または定員の増加の抑制について

定めた規定である。
2.この抑制措置が行なわれる「当分の間」とは、視覚障害者に関しあんまマッサージ

指圧師以外の適職が見出されるか、または視覚障害者に対する所得補償等の福祉対策が

十分に行なわれるか、いずれにしても視覚障害者がその生計維持をあんま関係業務に

依存する必要が無くなるまでという事である。なお、この措置が「当分の間」とされたのは

学校養成施設の設置者の職業選択の自由を制限するものであるからである。
という説明を書いている訳です。これを作らせたのは我々の関係団体の粘り強さを

評価せざるを得ないんだろうと思います。あえて私は国の怠慢と無策を明らかにするために

19条を紹介したわけです。

 原告は障害者の雇用率アップを逆手にとっているのです。障害者の雇用率は上がりましたが、

精神障害者が上がっていて、視覚障害者は逆に下がっているんです。
個人業者の機動力と事務力を補う介助者の配置を絶対に勝ちとらなければ、19条は勝とうと

負けようと、視覚障害者にプラスにはならないと思っています。
このような事になってしまったのは、50年間の国の無策によるものだと思います。
視覚障害の編集後記では、もしかすると皆さんが反対かもしれないけれど、こういう考え方も

あるんだという事で毎会載せてきたのです。

 

~~ここから以下講演内容です。~~

 こんにちは、淀川区塚本に住んでいます高橋實です。よろしくお願いします。
<<幼少の頃の生活>>
 私の幼少期は、家族が村中の住民に「この子は目は見えないけどなんでもできるんです。」と

言っては、どこへでも連れて行き、自慢をしていました。私も見えないと言う自覚は

無かったんです。家には馬・豚・犬・猫・ウサギやヤギなど飼っていましたから、これらの

生き物は頭から尻尾まで触りまくっていまして、人間の友達のように遊んでいました。

裸馬から落ちたりもしましたが、それでも日常茶飯事で乗っていました。しかし、馬は

農耕馬ですので、田んぼに出た時は乗れないもんですから、そんな時はブタを引っ張り

出して来て、後ろ向きに乗ったものです。なぜかと言いますと、前向きに乗りますと豚の首が

太くてつかみきれません。後ろ向きに乗れば、しっぽに掴まれるからなんです。

すると、ブタはしっぽをつかまれると嫌なもんですから、走り回るもんですので、

なお面白いんです。ブタに乗っても地に足が付いているもんですから、どこへ行こうと

安心なんです。馬はおとされると、どこで落ちたか分らないんです。ブタはどこでおとされようと

ここが川の橋かとか田んぼのここかなどが分かるんで、ブタにはずいぶん乗りました。

すると、家族から豚はそんなに運動させるものではない。ブタ小屋に居てこそお金になるんで、

ブタと遊ぶもんじゃないと言われました。そんな事で、ブタと遊ぶのは止めて、

馬と遊ぶようになりました。馬と言うのは人を落とすとその場から離れないんですね。

その場で草を食べたりしています。ただ、体格が小さかったので、滑り落ちると一人では

乗れないんです。その場で「落ちた!誰か乗せて~」と叫ぶと、近くで農作業をしている人が

「また、實さん馬からおちてる」「はーい」と返事の後、馬に乗る介助をしてくれました。

馬具を買ってもらってからは、手綱を持っていれば、落馬しませんし、蹄の音を聞いていると

だいたいこの辺の家の前を走っている。ここら辺はどこだとい言うのが、分かります。

馬は賢いもんですから、手綱をうまく使わないと、知らず知らずの内に家に戻ってしまうんです。

<<普通小学校から盲学校へ>>
そんなことで、ガキ大将だったもんですから、友達なんかも「実さんは目が見えない」などと

言う事は言われたことがないんです。学齢期になって、学校から入学通知が来たんですが、

母は盲学校の入学は全く考えていなかったようです。近くの小学校へ兄弟と一緒に通いました。

授業中は校長先生の奥様に遊んでもらって、兄弟が帰る時に一緒に下校しました。

<<母の急死>>
 そんな生活をしている時、昭和14年2月16日母が腹痛を訴えました。が、忙しくしていて

病院に行けなかったんです。痛いながら仕事をしていたんですが、やむにやまれず、病院に

行った訳ですけど、盲腸の手遅れで、翌日亡くなったんです。42歳でした。母は過保護の典型で、

自分の手から手放さない。その代わりに、したい放題にさせてくれました。ところが、母が急死

しましたもんですから、1年遅れで、旭川の盲唖学校へ入学し寄宿舎に入りました。

しょっちゅう学校に来ていた父は担任の先生に「ケガをさせない程度の体罰は容認し

厳しくしつけてほしい」と申しでていました。だからでしょうかよく怒られましたが、何によって

怒られているのかよく分からず、謝らされていました。余りにもひどく叱られた時は夕食を

与えてくれない体罰もありました。毎日のように立たされていましたから、謝り方も

考えないといけないんです。

 

高橋氏は日本大学を卒業され、点字毎日記者として活躍された後、社会福祉法人視覚障害者

支援総合センター理事長になられました。

*社会福祉法人 視覚障害者支援総合センターとは
 視覚障害者のための大学の門戸開放、学習支援や卒業後の就労促進を主な目的として

昭和62年に結成し、25年にわたる活動をしている。奨学生制度の創設、運営を担い、

教科書や学術書の点訳も行う。また、点訳者養成の講座を毎年開催し、正確な点訳を

迅速に盲学生に届ける仕組みを発展させた。300人を越える奨学生を支援、

弁護士や官公庁や有力企業などに、視覚障害者を多く 送り出した。社会福祉法人認可後、

就労訓練施設を開設。平成14年までに地方公務員や民間企業に29人を送り出している。

 

5月ウイズパネラー

 

 第2回日本・台湾親善ブラインドスキー教室のこぼれ話
パネラー:  西正次 氏(弱視)KABS&CVJ 会員
日時: 2019年令和元年5月12日 午後1時30分から
場所:淡路自由空間倶楽部
     大阪市東淀川区淡路5丁目10-7
問い合わせ鈴木昭二 090ー2598ー9528 
会費なし

☆タンデム自転車台湾ツーリングから始まった、台湾との国際交流会を重ねるうちに
台湾ブラインドの一言、「雪とスキーを体験したい。」この言葉に動かされて、

西氏は台湾ブラインドの夢野実現の為、日本台湾ブラインドスキーつあーを計画に動きました。
その苦労話などお伺いします。

 

 

パネラー:高橋實氏 社会福祉法人 視覚障害者支援総合センター 元理事長


日時: 3月10日「日曜」 午後1時半~
場所:大阪市東淀川区淡路5-10-7 淡路自由空間倶楽部
お問い合わせ先: 鈴木昭二 090-2598-9528
会費なし


どなたでもお越しください、大歓迎します。

視覚障害者のための大学の門戸開放、学習支援や卒業後の就労促進を主な目的として
昭和62年に結成し、25年にわたる活動をしている。奨学生制度の創設、運営を担い、
教科書や学術書の点訳も行う。また、点訳者養成の講座を毎年開催し、正確な点訳を
迅速に盲学生に届ける仕組みを発展させた。300人を越える奨学生を支援、弁護士や
官公庁や有力企業などに、視覚障害者を多く送り出した。社会福祉法人認可後、

就労訓練施設を開設。平成14年までに地方公務員や民間企業に29人を送り出している。

 


「第2回日本・台湾親善ブラインドスキー教室」
報告  KABS&CVJ  西正次(弱視)


 平成31年1月18日より、皆様のおかげをもちまして「第2回日本・台湾親善

ブラインドスキー教室」を開催する事が出来ました。
 平成最後のスキーシーズンの初滑りが、このプロジェクトとなり、

待ちどおしさもいつもとは、また一味違う気がします。
 台湾メンバーは、視覚障害者が7名、サポーターが9名の16名が当日のお昼に

関西空港へ到着し、大阪城などを見学した後に、集合場所の日本ライトハウス

「情報文化センター」へ向かいました。
 集合場所を情報文化センターにしたわけは、ここにはブラインドに便利なアイテム
が数多く展示され、販売されているからです。
 一方、日本人ブラインドとサポーターは金曜日と言う事もあり、仕事を終えた後に
急いで駆付けてきた人が多かったです。
 バスは予定通り20時に出発し、目的地の岐阜県にある流葉スキー場へ到着したのは
深夜の1時で、予定より30分早い到着です。
 翌朝19日は7時30分起床、やや遅めですが夜行バスの疲れを考慮し、出だしは

ゆっくりのスキー教室でした。
 去年の反省を活かし、出来るだけスムーズに事が運ぶようにレンタルのブーツと

ウエアのセットは宿に運んでいただき、スキーとストックはゲレンデに運んで頂くと言う

事もしていたのですが、とにかくお互いに目が見えない者たちで、通訳は何人かいる

とはいえ、直接話す事も出来ない事が多い為、苦労は絶えません。
 しかし、皆持ち前の明るさと日本語・中国語・英語の単語を並べ、ポジティブ思考
で乗り切っていきます。
 スキー教室の始めは雪どころか冬と言うものを知らない台湾メンバー全員と一部の
日本メンバーを連れてリフトを使い山頂へ行きました。
 そこは昨夜のうちに降り積もった、ふわふわの美しい銀世界が私たちを

出迎えてくれたのです。
 台湾メンバーは初めて見る雪に、とても感動し両手ですくって丸めてみたり、

上に高く放り投げたりと大喜びでした。
 中には雪だまりに飛び込んで、身体を揺さぶり、泳ぐようなしぐさをしてみたりと
大興奮です。
 いつも思う事は目の見えない相手に、どんなに上手な言葉を百並べようが

千並べようが実際に体験することにはかなわない事なのです。
 この美しい雪山の中で、積もったばかりの雪に触れてもらった事も

とても大きな収穫だと思います。
 スキー教室のプログラムですが、スキー経験のある日本人ブラインドは個々の

レベルに合わせてサポーターと相談の上、レッスンをする者やフリー滑走をする

者たちに分かれます。
 台湾のブラインドは7名ずつしか受け入れが出来ない為、2回目となる今回の

参加者は全てが全くの初心者となります。
 私たちの仲間には元プロスキーヤーでスキーインストラクターでもあるメンバーが
いて、目の見えない全くの初心者に対し、一人一人と向かい合い、恐怖心を

抱かないようにバックボーゲンで誘導して行きます。
 そして、まだリフトに乗れない参加者を私たちが上まで押し上げて行きます。

こうやってコミュニケーションを図りながらスキー教室は進んで行きました。
 スキー教室の初日が終わり、お風呂に入って食事をすませてから一同が集まり、

懇親会をするのですが、その前に反省会として今日一日のレッスンの感想や

希望を聞いたり、指導員の方からもワンポイントアドバイスをしたり、その後は

フリーで質疑応答をしました。
 懇親会では、お互いの国でよく歌われていた歌を披露したり、日本人ブラインドの
一人が三線(さんしん)を演奏し、それに合わせて皆で歌を歌いました。
 2日目は7時に起床し、8時50分には準備を整え、宿舎前に集合し、9時から教室の
開始です。 まずはじめは、昨日の復習をし、そして左右に曲がる練習をしました。

上達に個人差はあれ、台湾ブラインドの方も徐々に自信が付いてきたのか積極的に

滑ろうとします。今日は、午前で終わらなければならないので終了時間が迫っている頃、

指示通りに右に曲がったり、左に曲がったり出来るようになってきました。
 そして11時30分に惜しまれながらスキー教室を終了いたしました。

これで終わりますと伝えた時に、あちらこちらから「あ、あー」と言うため息がもれ、

もっと滑りたいと言う気持ちが伝わってきました。
 次の順番が回ってくるのは数年先ですから無理もなく、その気持ちは痛いほどよく
判ります。しかし、台湾の視覚障害者やそれを支援している皆さんに日本の冬や雪を

知っていただき、スキーを体験していただきながら、日本の視覚障害者とボランティア

団体との交流が深める事が出来ました。
 どの国にも障害者はいて、それを支援する人々がいます。私たちはこの経験を

生かし、それらを結びつける役割の一端を担う事が出来ればと思いました。
 ご支援いただきました皆様のおかげで目的を果たす他、新たな勉強も

させていただきました。
 私たちの活動に御理解を賜り、ご支援・ご協力を頂きました皆様、

心よりお礼申し上げます。

 

東北絆活動
鈴木昭二「全盲」

 

 10月13日から15日まで、CVJ主催の東北絆活動に参加してきました。

私は今回で、3回目?です。

 

<<無賃乗車してしまった。>>
 朝まだ暗いうちに最寄りの阪急電車京都線相川駅まで、徒歩で15分。5時6分発

梅田行きの電車に余裕を持って乗れそうだ。
しかし、朝早すぎるのか駅員はいません。近くに人の気配もありません。

券売機の横にある呼び出しベルを押しても応答はありません。
このままでは、予定の電車に乗れない!「済みません。今度乗った時にまとめて料金を

はらいます。」と胸の内でつぶやき、ゴムの自動改札ゲートを無理やり広げて改札を通過。

ホームには誰もいません。定刻通りに来た電車に乗車できた。とりあえず、

難関は突破することができた。
5時6分発、梅田行き→淡路駅乗り換え→地下鉄堺筋線で扇町駅下車。

徒歩でJR環状線天満駅へ。天神橋商店街を歩き始めました。

ちょうど、JR天満駅改札から出て、商店街に曲がろうとしたボランティアの田村さん

「同行の仲間」と落ち合う事ができた。

天王寺駅で、CVJのメンバー3人と、関空行き電車で合流することができた。

関空駅の手前で、「今回の台風でタンカーがぶつかった橋げたのところを通っています。」の

説明を大島さんから受けた。ちょっとスピードを落としたのは事故現場だったようだ。

 

<<手荷物検査でNG>>
関空では、飛行機搭乗の手続きとあの金属探知機を通った。手荷物検査で大島さんが

「手荷物の中のスプレー式の潤滑オイル「自転車修理用」に持ち込み禁止のNGを

言い渡された。少々粘ってみたが、没収されてしまった。ともあれ、飛行機に乗れた。

飛行機に乗るのは久しぶり。台湾サイクリング以来だ。登場すると、視覚障害の私を

見つけたキャビンアテンダントは私の席へ来て、非常の場合のマニュアルを
口頭で教えてくれた。「なかなか親切な対応だった
 快適な空の旅も1時間10分ほどで仙台空港に着陸。

すでに、福岡からANAで飛んできた、武藤さんと久しぶりの対面。

 

<<仙台到着後ボランティア活動一日目のスタート>>
 この日の朝からボランティア活動は開始された。
一か所目は石巻市さくら新町渡波南復興住宅での活動だ。私と、武藤さんは早速

白衣を着てマッサージ活動のスタンバイ。他のメンバーは炊き出し(芋煮・唐揚げ)など

昼ごはんの準備と自転車修理班は自転車のメンテナンスを住民に呼びかけていた。

 ボランティア活動終了後、牡鹿半島鮎川民宿へ。ここの夕食は、刺身・煮物・鍋・

鯨の刺身など食べきれないほどの料理が並びすごく豪華な料理だった。
食後は一部屋に集まり、ギターで歌い、ロールピアノの演奏など

夜遅くまで、うたげは続いた。

 

<<二日目の活動>>
 二日目の朝は。昨夜呼びかけられた、「海釣り」の希望者が早朝から出かけ、

何匹かの魚を釣って来たと聞いた。

牡鹿半島へ出かける用意をしていた9時前に地震があった。

ロビーのソファーに座っていた私は、ぎくっとしたが、すぐに揺れはおさまった。
東北に何度か来たが、初めての地震体験だった。今日のボランティア活動は 

牡鹿公民館「清優館」での第2回石巻市牡鹿稲井商工会青年部祭り"青祭"で活動だ。
車に乗ってかなり走った記憶がある。東北地方のリアス式海岸の道路を右に左に

くねくね海岸の淵を辿るように北上した。会場に辿り着くと、"青祭"の準備は

進められていた。私達マッサージ部隊は、会議室の様な所で、マッサージの

サービスが始まった。この日はお祭りで、住民は続々集まって来た。

私が治療した珍しい受診者は、この日出演する漫才師の方を担当した。

コンビを組んで漫才のネタは「武田鉄矢のモノマネ。」「ちょっとやってみてよ」と

お願いすると、あの鉄矢さん独特の鼻づまりの声のモノマネをやってくれた。

マッサージの手を止めて「拍手喝さい」した。このお祭りには地域の中学生も来ていた。

純朴な中学生で、何人の学生が在籍しているのかと聞くと 全校で30人だという。

高校を卒業すると家業の漁師を継ぐと聞いた。今日の炊き出しは東北地方の、

はらこ飯「注参照」。私は初めて聞いた食べ物だ。

ボランティア活動終了後は、これも長い時間をかけて車は走り続けて、

黄金川温泉に入浴したそして、今晩の宿舎男山八幡神社へ車は走った。
今年も神社の境内のログハウスで、夕食と歌の交流を行なった。
宿舎は神社の社務所で寝袋を使ってのごろ寝。それでも、今年は前回と違って

良く眠れた。その原因の一つは、前回の12月と違い、暖かかったこと。もう一つは、

二回も足を突っこんだ囲炉裏に蓋をしていたことだ。今まで、2回宿泊したが、

毎回囲炉裏に足を突っ込んだ経験があった。

 

<<帰阪>>
 三日目15(月)は南相馬市南町団地復興住宅で活動→

炊き出し(焼きそば、唐揚げ、芋煮)活動終了後、常磐線鹿島駅から仙台駅を経て、
仙台空港へ向かいスケジュールは全て終了した。20時30分発関空行き飛行機は

順調に飛び、22時05分予定より少し早く関空に着陸した。

 

参照・・・はらこ飯は炊き込みご飯の一種で、醤油や味醂など一緒に鮭を煮込んだ

煮汁で炊き込んだご飯の上に、客に供する前に、鮭の身とイクラ(はらこ)をのせる。
弁当ではこれらが要素であるが、店舗で供される場合は、さらに鮭のあら汁を

合わせて提供される。

テ ー マ:新しい世界との出会い。ボランティア「CVJ」などとの出会い。
パネラー:田村 智子「たむら さとこ」氏 「管理栄養士」

 

 9月9日田村智子氏をお迎えし、ウイズ定例会は開催されました。
 こんにちは、本日お招きいただきました田村智子と申します。よろしくお願いします。
ご紹介いただきましたように管理栄養士です。西区にあります大野記念病院という所で、
短大を卒業してから40年間働いてました。4年前に定年退職しました。退職後、
あることがきっかけでボランティアを始めたんです。私が病院勤めをしていた時は、
主に透析の患者さんの栄養指導をしてたんです。もちろん、糖尿病患者や腎臓病の
患者さんの栄養管理もしていました。透析患者の中には糖尿病から透析になられる
患者もおられて、糖尿病の合併症というのは、「し・め・じ」って言うんですが、
しは神経障害、めは視力障害、じは腎の障害、だいたい、神経障害が出てきて→
視力障害も起こって→腎臓が悪くなる。というような経過をたどる人が多いんです。
 現役のころ、「この方視力障害もあるんだな」ぐらいにしか思ってなくて、
食事なんか誰かが作ってるんだなあぐらいの思いでした。

 

 定年退職するまでは、朝9時から夜の11時ごろまで仕事をしていて、
定年退職した日に空を見上げると「えっあおぞらってこんなにきれいなんだ」と
感動しました。これから自分はいろんなことしよう!と思いました。

 

<<経験したことのない世界へ>>
 いろんなことをする中で、高校の同窓会に出かけたんです。自己紹介の場面が
あったんです。私の隣に座っていた方が、知的障害や視覚障害のボランティアで
サイクリングをしている。と聞いたんです。「今度淡路島に行く」とおっしゃったので、
自分は淡路島出身だし、「連れてってください。」と言ったんです。ところが、
実際は島なみ海道だったんです。視覚障害者や知的障害者とサイクリングをすると
言われた時に、どのように介助するのか想像もできなかったんですが、現場に行くと、
二人乗りの自転車「タンデム」が置いてあったんです。
田村さん、「前に乗ってください。後ろに視覚障害者が乗ります。」と言われました。
普段からそんなに乗ってないし、サドルも高いし、練習もあまりやってないので、
その時は乗りませんでした。一人乗りを使いました。私は、休憩などの時、
障害者の介助として、トイレなどの援助をしました。このツアーは一泊泊まりなので、
夜には皆で歌を歌ったり、夜店が出たりなどお楽しみコーナーがあるんです。
ダウン症の子や知的障害の子などすごいはしゃいで楽しんでるんです。
私は目からうろこでした。視覚障害のMさんなんかも一度トイレに案内すると
後は一人で行くことができるんです。お風呂に一緒に入っても蛇口や
シャンプー・リンスなどの配置を一度で覚えて一人でできるんです。
これもすごい驚きでした。自分を振り返ってみると、今までこういう方と
接してなかったと気づきました。
 仕事では、透析患者で失明された方は知っていますが、その人達とちゃんと
接していなかったなあと思いました。CVJ副代表の大島さんが、
「また、来年も来てください。」と言われた時に、「来年来るだけではあかんやろう。」
と思って、CVJの会員になりました。

 

<<ボランティアで台湾へ>>
 CVJの活動のなかに台湾の視覚障害者と日本の視覚障害者が、交流する活動があり
参加したんです。その時はすごい雨でしたが、それでも走るんです。
私は「こんな雨の中では、「何にも見えません」と言ったら、
「僕はずっと見えていません」と視覚障害者が言われたんです。すると、
どばーっと笑いが起きたんです。そんなことがあり、もっと知的や視覚障害者の中に
入って行けたらなあと感じました。
視覚障害の中にもいろんな方がおられまして、たとえば、先天盲の方や
中途で見えなくなった方と失明の原因は様々です。

 

<<就職活動の時にも視覚障害者と出会っていた>>
 金襴短大を卒業して病院の栄養士になりたかったんですが、病院の栄養士の募集は
少ないんです。看護師さんはたくさんの方が必要ですが、栄養士は病院に一人か二人
いればいいんです。就職活動をしていた時に、大阪府立盲学校から産休代用の募集
「4月から7月まで」があったんです。小・中・高の学生が居て、寮もあり、
朝昼晩の食事を作ります。そこに短期で就職したんです。引き継ぎの仕事なので、
献立はあるし、食材の発注作業をしたり、調理人に説明したりなど、
卒業したての自分にもできる仕事でした。
 盲学校のお昼休みは「シーン」と静まり返って、何も音がしないんですね。
なんで、皆遊べへんねんやろうと思っていましたら、「皆さん目が見えないので」と
言われました。その時はふーん。そうなんやと思っていました。ある日カレーを
作ったんですね。授業を終えた男の子が顔がくっつくほど近ずいて
「うわー、カレーや。」飛び上がって喜んでたんです。その時涙が出てきました。
でも、それはそれで終わってたんです。このような視覚障害者との出会いが
あったんですが、40年間病院の管理栄養士を勤めました。ところが、退職後
タンデムを通じて、視力障害の方と知り合って、これからの人生を
ボランティア活動をして行こうと思いました。

 

 サイクル・ボランティア・ジャパン「CVJ」は自転車を通じて、自転車の楽しさを
伝えて行きましょう。という団体です。CVJの方たちと言うのは、若い時に自転車で
世界一周したりした人も多く、自転車の楽しさを多くの人に伝えたいと思って
おられます。世界各国を回った時に、いろんな人に助けられたので、自分たちも、
今度はお返ししましょという団体なんです。具体的には、知的障害の方や視覚障害の方に
自転車の楽しさを実感してほしいと活動しています。正直言いまして、目が見えないのに
なんでいろんな所へ行くんだろうと思っていました。話をすると、風を感じたり
季節を感じたりだとか、スピード感を感じたり、とかで、そうや、
自分らと一緒なんやときづかされました。
 また、CVJでは、東北へのボランティアにも行っています。阪神淡路大震災の時も
私は管理栄養士として西宮の駅から2時間ぐらい歩いて、避難所でお味噌汁を
作ったりしました。

 

筆者からの感想・・・仕事一筋で、リタイアされた方の人生の過ごし方の一例を
語っていただいたような気がしました。このような方が増えて来ることが
豊かな「共助社会」の具現化したものでもあると感じました。