ウイズ東淀川のブログ

平成6年7月から、東淀川区において結成された、コミニケーション・ボランティア・グループです。
奇数月の第二日曜を定例会とし、【共生】を理念として、共に語り・共に学び・共に遊んでみませんか「をキャッチフレーズに、誰もが集える」場を提供しています。


テーマ:

テーマ: 「目指すはスーパーポジティブ!」
パネラー:竹田 幸代 氏 (視覚障害2級)弱視
モットー キラキラが見えなくなっても、自分がキラキラしていよう!
日時: 3月11日午後1時30分から

☆中学1年生のころ、将来失明の可能性がある進行性の疾患であることを告知される。
30歳代後半に障害者手帳を取得。その後、初めてロービジョンケアや福祉と出会う。

・ 消費生活アドバイザー(内閣総理大臣及び経済産業大臣認定)
・ きんきビジョンサポート 代表 ほか

 


テーマ:

テ ー マ : 障害者は不自由ではあるが不幸ではない。
パネラー : 金城豊秀「きんじょうとよひで」氏「全盲」

平成29年11月12日、淡路自由空間倶楽部において金城豊秀氏をお招きし、
【障害者は不自由ではあるが不幸ではない】と題し、定例会を開催しました。

 ただいま紹介いただきました金城豊秀と申します。昭和14年生まれで78歳です。
自動車による事故で腹膜炎を起し、1年間学校を休学しました。
目が悪くなり始めたのは、中学3年の頃でした。昭和29年の頃は皆さん御承知のように
沖縄はまだ、戦争の傷跡が、残っていました。私が生活していたところも、6畳足らずの
所に、7人で暮らしていました。なぜそんな所に住んでいたかと言うと、戦争が終わり
仮住宅に住んでいたんですが、台風で壊れ、行くところがなく、そんな狭い所に7人で
住むことになりました。いつもいざこざがあって、落ち着かない生活だったんです。
父は、母と私に対して、冷めたく接しました。どうしても仲良く暮らしていけないので、
母と私は小学校5年の頃別居して、大変辛い思いをしながら暮らしていました。
 中学3年になった頃、眼底出血を起こし、目が悪くなり始め、このあたりから
人生が狂い始めていったように思います。
 眼底出血を度々起こしたのですが、それでも高校受験は合格しました。
高校2年の時、入院したのをきっかけに、1年間休学しました。
33年に復学通知が来たんですが、この5年間、眼底出血を繰り返すものですから、
勉強する意欲もなくなり、本を読むのも嫌になりました。
 昭和33年、「皆と一緒に旅行に行こう」と誘われ、旅行のコースで飲料水メーカーに
行ったんです。私は初めて見たオートメーションの工場に度肝を抜かれました。
このオートメーションシステムに感動しました。
「もう、学校なんか行かない。この会社で、働きたい」と思いました。
1か月ぐらいすると、この会社から「季節工だが働かないか」と誘いに来てくれた方が
あったんです。高校には退学届を出しました。それは昭和33年3月でした。
朝6時から晩10時まで大変忙しく瓶のかたづけ、製品を積み上げたり、車に載せたり、
帰って来た瓶をトラックから降ろして、洗浄するところへ運んで行ったり、
忙しくて忙しくて、目を休めなくてはならないのに働き過ぎたのか、6月になって
病気が再発したんです。商品を集荷の為伝票を切っていたら、伝票のます目が
ゆらゆら揺れて見えたんです。ビックリして窓越しに外を見ると、目の前の看板が
いびつに見え、その窓の外を工場長が歩いていましたが、その姿が、【く】の字に
見えました。「また、再発?」と思ったとたんにぽろぽろと涙が出ました。
側に居たジムの女性が「どうしたの?あんた泣いてるじゃないの。」と
言われたんですが、その場をしのぐ適当な嘘をついてごまかしました。
 この時が、再発の始まりでした。以前に眼底出血でお世話になった先生の所へ
行きました。医者いわく、「金城君この目は大変ですよ。私の手には負えない。」
と言う重病だと聞かされました。
 本土に行くか、アメリカ陸軍を通じて、ワシントンに行くか。
ワシントンに行くなら、私が手続きしてあげるとまで言ってくれました。
その頃のアメリカは沖縄戦の記憶もあり、恐ろしくて行く気にはなれませんでした。
だんだん目は悪くなっていきました。そのころ沖縄には健康保険制度がなかったんです。
全て実費でしたので、経済的には貧困状態でした。
金がない訳で、母に目が悪くなっていることを、言えなかったんです。やがて、症状が
進行し、母に知られることになりました。そこに遠い親戚が私の目の状態を聞きつけて、
「そんなに大変なら、自分の所の姉さんが大阪から来ているので、一緒に付いて
行かないか。」と誘ってくれました。昭和34年12月にその親戚の方に連れられて、
大阪に来ました。その頃の見える世界は物が歪んで見え、焦点が合わないという
状態でした。その時、短歌で、始めての大阪の印象を次のように読みました。
【秋深く 冬とぞ聞けば 野もあわれか 青葉寂しく 焦がれ去り行くも】

<<新薬の試験台になる>>
 2か月の予定で大阪に来たんですが、金がなくなり、水川眼科医長に、沖縄から
出てきた事情を話しました。すると、医師の方から「新薬の試験台になりませんか?」
との提案がありました。「そうするとここにおれるんですよ」と言う事でした。

この時の心を以下のように短歌にしました。
【この薬 試供品だと指示し 金のいらぬを 説いて勧める》と読みました。ところが、
このスタンと言う薬をのみ始め、10日もしたところで、朝、顔をふきに来てくれた
看護婦さんが、「きゃぁ!きしょく悪い」と叫びました。「何がきしょく悪いんや?」。
看護婦が、蛇の抜け殻みたいになっていると言うんです。顔の皮膚の一片をつまんで
引っ張ると、ぱりぱりと音をたてて顔全体の皮膚がはがれました。顔をふく時に片手で
頭を押さえますが、指先が頭にくいこむんです。担当医にこの事を尋ねると
返答はありませんでした。「金城君、薬止めようね」と言われました。

 1カ月余り様子を見て、これ以上良くならないからと退院しました。
退院後3,4カ月もすると網膜剥離を再発し、視力は衰えはしても、回復することは
ありませんでした。この時の視力は0,01だったんですが、この後30年近く
このままの視力を保つことができたのは担当していただいた先生方のお陰だと
感謝の気持ちを今でも持っています。
 母は丸紅系列の丸紅製材所と言う所で働いていたんです。給料は男性と組んで
同じように働いていても、半分以下だったんです。そこで、丸紅へ抗議に行きました。
母がこの仕事場で、大きな板をかついでいました。頭にタオルを巻いて、
モンペをはいて仕事をしていました。ここでも以下の句を唄いました。
【身の丈を はるかに超えた 木材を かつぎて汗の 母を見るなり】に、
なんともいえない気持ちを感じました。それは親不孝な事だと思ったからです。
母が、何しに来たと聞くので、「会社に給料を上げろと抗議に来た」と言うと、
「それすると私は会社にいられない。」と言われ、私は泣く泣く帰ってきました。
 やがて昭和40年代に入ります。知り合いの方が「あんたいつまでも遊んで
いられないでしょう」と言われ、大正区内にマッサージの治療院を経営されている
水原さんという方がおられて、知り合いの方から、私の了承もなく弟子として
紹介されました。水原先生の紹介でライトハウスに点字の勉強に行きました。
そして、マッサージの資格を取る為に昭和41年に区役所で紹介された
神戸の視力障害者センターへ入所しました。

 それからの人生は、神戸視力障害者センター、 障害者リハビリテーションセンター
在籍中から各地の視障センターの役員や大阪地区の代表者など役職を担当しています。

筆者から・・・今回は金城さんの人生の一部を語っていただきましたが、結婚もされ、
沖縄には自宅を建てて、年数回沖縄に帰られる悠々自適の生活をされています。
沖縄へは最近流行りのLCCのお陰でずいぶん安く帰省されているとのこと。
今回のテーマである《障害者は不自由ではあるが不幸ではない》との文字通り
幸せな人生を過ごしておられます。また、身体の衰えの防止のため、
サプリメントを使用されているとお聞きしました。
いつまでもお元気で活躍されることを願っています。
ありがとうございました。

by 鈴木昭二


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9月10日、淡路自由空間倶楽部において森田昇氏をお招きし、

【転機、思った時が始まり】と題して、お話を伺いました。

パネラー: 森田昇 氏「弱視」鍼灸・マッサージ・柔道整復師

 

 みなさんこんにちは。東住吉から来ました森田昇と申します。よろしくお願いします。

鈴木さんからウイズで話してくれないかとの依頼がありました。

人にお話しできるような事はないんですが。・・・・「謙遜だと、鈴木は思っている。」

などの冗談を交えながら、話は始まりました。

 

<<中学校で先生からいじめ?>>

 元々、子供の頃から強度の近視だったんです。

メガネも牛乳瓶の底の様なメガネをかけていましたので、よくからかわれました。

小学校の頃は、近視の事はあまり気にならなかったんですが、中学になると、

ぽつぽつと近視を意識するようになりました。特に体育の剣道の授業の時など、

僕はメガネをつけていますので、防具はつけづらいのです。それに、

対戦相手は「剣道部」を当てられたんです。そりゃあもう、先生を恨みましたよ。

今だにその先生の名前は覚えていますよ。「鈴木」って言いまんねん。「笑い」

 

 クラブはサッカー部に入っていたんです。けど、当時のサッカー部というと、

今のように人気のある、クラブでもなく、注目度の少ないクラブでした。

僕はメガネをかけていたので、ヘディングがしにくいんですね。

でも、練習はしなくてはいけないんで、やるんですけど、ちょっと早めに頭を下げると、

脳天に当たって痛いし、下で受けるとメガネの鼻の目頭の間のメガネ受の部分に

衝撃を受け、痛いんです。そんな大変なこともありましたが、楽しかったです。

生野中学という所に在籍していたんですが、サッカー部の連中と他のクラブの仲間と

大阪城までランニングで往復したものでした。

 

Qーー片道どれぐらいあるんですか?と突然の質問。
Aーー電車の駅で言うと、寺田町→桃谷→鶴橋→玉造→森之宮の往復ですからね。

どれくらいあるんでしょうかね。

 

 その後、高校に進学するんですけど、僕自身は就職が決まっていましたので、

高校進学のつもりはなかったんです。ところが、友達が、全日制高校受験で

失敗したんです。その友人が、「定時制に行こうと思ってんねん。」と誘われて、

生野の大阪府立勝山高等学校の定時制に一緒に行くことになったんです。

これが、その後の人生の大きな「転機」になっているんです。・・・・

「僕、話のタイトル言うの忘れてましたね。」テーマを改めていうと、

「転機・思った時が始まり!」です。転機は人によって違いますし、

大きい小さいもありますから、ひょっとしたらこの場も転機になるかも知れませんね。


 無事高校に合格。同級生というのが40・50歳のおっちゃんなんかが

たくさんいるんです。授業が終わって「お茶でも飲みに行こうか?」、

「いや、子供が待ってるから帰るわ。」こんな感じで普通の高校生とは

ちょっと違うなあと思いました。

 皆、大人で昼間は仕事をしていますから、ちゃんと喫煙室があるんです。

1年生は遠慮して行かなかったんですが、僕は先輩がいましたので、一緒について

喫煙室でタバコを吸っていました。また、今では考えられないんですが、

休みの日などは先生の家に行って酒など一緒に飲んでました。

 

<<コンタクトレンズに感激>>
 この頃から見え方が悪くなってきたんです。夜間照明ではサッカーが

続けられなくなってきたんで、サッカー部も止めました。

 

 高校3年の時、網膜剥離で左目を手術のかいもなく、失明しました。この後、

コンタクトレンズと巡り合ったんです。今まで、何をしても視力が出なかったんですが、

この頃世間に出だした「コンタクトレンズ」を知り、右目に試着しましたら、

「なんやこれは!」と思いました。めちゃめちゃ見えるんですよ。メガネと違い

風呂に入っても曇りませんし、うどんを食べても曇りません。

視力が出たので、高3の終わりぐらいに自動二輪の免許を取りました。

 

<<幸福と同時に不幸が?>>
 唐突だと思いながらも、親父にオートバイを買いたいから

「お金ちょうだい」と言ったんです。なぜか、ポンと10万円をくれたんです。

その当時ナナハン「ホンダCB750」は新車で38万円もし、軽四「ホンダN360」より

高かったんです。年末だったんで、来年早々に陸運局でナナハン登録をしようと

予定してたんですが、年が明けた三日に親父が食道静脈破裂で突然亡くなったんです。

元々酒が好きで飲み過ぎだったんです。兄弟や母親から

「お前暮れに金もうとったなあ」と言われ、10万円は吐き出さされました。
 そこからぼつぼつ貯金してたんです。そしたら、あるオートバイグループと

知り合いになりまして、今度一緒に走ろうやって事になりました。

友達が参加できなくなり、急遽自分が集まりに参加したんです。そいつらは、

出始めのナナハンに乗ってたんです。友達の仲間の一人が免許取り消しになっていて、

当分バイクに乗れないんで、譲渡してくれと頼んだんですが、持ち主は

ナナハンに熱い思いがあり、売ってくれませんでした。
 そこで、ぼちぼち貯金をし、やっとナナハンを買ったんです。あと二日か三日で

納車という時に、仲間の一人が事故をお起して、亡くなったんです。

僕にはこういう嬉しいことと悲しいことが同時に起こる傾向があるように思います。

なんで亡くなったって聞くと、「寝屋川バイパスの欄干を飛び越し、落下事故で

亡くなったそうです。」そんなこともあるんやなあと思いました。

購入したナナハンで走りまくるんですがね。今のように暴走族と違い、少数で競走の

しあいなんです。ある日、鈴鹿サーキットへ行った帰り、あるグループと競走に

なったんです。なぜか、サーキットの帰りは、テンションが上がっているのか、相手が

あれば、競走になるんです。相手のチームは50台位いたんです。こちらは10台足らず

でした。ところが、相手のグループをバラバラにしてしまったんです。
ROMとチーム名はクレージーな名前だと有名になり、ROMを見たら相手にするなと

回覧が回されたんです。そんな仲間と今だに付き合っています。

 

<<アルサロの元祖、夢の国で働く>>

 当時アルサロの元祖と言われる「夢の国」という店がありまして、そこで、

アルバイトを始めたんです。喫茶店の時給が380円のころ、僕は600円もらって

たんです。で、昼間も仕事をしていますから、その頃は一番裕福でしたね。「笑い」
 だって、昼夜働いて、使う間がないんですから。夢の国にはステージがあって、

生バンドが入っていたんです。バンドのドラマーが歌手の瀬川瑛子の夫なんです。

 

<<夢のスカG購入>>
 そんなこんなで、会社を辞めることになりました。辞めるまで、暴走行為を

やってたんですが、ある人に「車乗れへんのか?」と言われ、車やったら

「スカGしか乗れへん」と言ってたんです。仕事していると、朱色のスカGが来たんです。

「どや、これ!」と言うんで、「よっしゃ、買うた!」の乗りで、現金で買いました。

その時は自分の好きだったスカGは売ってなくて、ケンとメリーのスカイラインの

時代でした。なので、中古車でした。

 

Qーー 警察に捕まることはなかったんですか?
Aーー オートバイの時、捕まりました。

 

<<24歳の頃から、鶴橋卸売り市場の鰻店に勤務>>
 話を聞いていると、森田さんはいろんな職業についておられました

。一番長く勤めたのが、うなぎ屋さんでの15年間の勤務だったそうです。毎日毎日

うなぎをさばいていたそうで、器用な一面を感じさせられました。

ここでの勤務があり、障害「2級」を持ってから厚生年金障害年金を受給されています。

 

<<平成7年大阪府立盲学校理療科入学、平成13年柔整科卒業。同年開業。>>
 盲学校に入学で、鍼灸マッサージ科および、柔道整復士取得の課程に進学できたのも、

あの友達に誘われた定時制高校を卒業した資格があったことが、大変役にたったと回想。

これも、一つの「転機」だと思っている様子でした。

 


テーマ:

テーマ: サロン活動の歩みを振り返る。
パネラー: 窪田新一 氏

日時: 5月8日 午後1時半から4時ごろまで
場所: 淡路自由空間倶楽部 大阪市東淀川区淡路5丁目10番7号
会費 なし
お問い合わせ 090-2598-9528 鈴木まで

☆「サロン活動23年間ありがとうございました。」
これからは、地域活動で人生の「生旬」(せいしゅん)を楽しく。


テーマ:

3月12日、淡路自由空間倶楽部において、【パラトライアスロンチャレンジャー】と題し、白江淑浩「しらえとしひろ」氏「弱視」をお迎えし、お話を伺いました。
こんにちは、白江と申します。

☆8歳の時に緑内障と診断を受け、両眼を手術。
☆ 18歳(高校3年)で右眼を失明
☆ 38歳頃から更に人の顔の認識が難しくなった。
☆ 1999年に国立神戸視力障碍センターにに入所し、 現在は、左眼の弱視を保ちつつ、鍼灸師として開業。

<<子供のころの話>>
こんにちは、今回鈴木さんからお話をいただきまして、トライアスロンをしていたことがありまして、「今はちょっとお休みしています」ですが、それについて話してほしいと言う事で来させていただきました。

白江淑浩「としひろ」と申します。1958年生まれで、58歳。川崎市で生まれ育ちました。8歳の時に眼科で緑内症という診断を受け、両目を手術しました。その時の視力が、右が0、15で左目が0,3だったと記憶しております。当初もう少し早い時期からよく見えてなかったんですが、小学校の1年のころは、「この子はなかなか字が読める様にならない子だ」と親から言われて、僕は見えあないんだと主張してたんですが。「笑い」小学3年にもなりますと、さすがに、本当に見えてないんだとなりまして、すぐ手術をして、1ヵ月半ぐらいの入院。半年ぐらいは体育はしない様にとは、目に圧力がかからないようにとのことでした。18歳の時に右目の視力を失いました「高校三年。この時、感じたのはこれからどうなって行くのかなあ?右目の視力を失くした時に左目もかなり視力を失ったんです。」。今は少し回復しています。現在の視力は右が0で左目が0,03ぐらいといいうところです。人の顔を認識できるのは30~50センチぐらいです。外で会って、分ると言うのは難しいです。他の情報で分ったりするんですけど。そういった状態で、当時はタバコ屋の店番ならできるけどお金がちゃんと見えるかなあという。などと考えたこともありましたね。

<<ボランティア活動を始める>>
その後、社会に役に立つようなこともしなければと思いまして、18歳ぐらいからボランティア活動を始めました。ユースホステルヘルパーの奉仕活動のチャンスに恵まれましたり、色々過ごしてきました。

<<トライアスロン>>
今回はトライアスロンの話を中心でお話したいと思います。トライアスロンとは、3種類の協議をして、順位を決める協議です。一つはスイム「泳ぎ」・バイク「自転車」・ラン「走り」この三つの競技となっております。トライアスロンには色々カテゴリーがありまして、日本でも小学生一年生から75歳あるいは80歳もあるかも知れませんが…。そういう年代別で公式戦では争うんです。もちろん、小学生だと距離は短くなっていると思います。皆さんがよくイメージされるのは距離も長いアイアンマンレースというもので、バイクが180キロメートル・ランが42、195キロ。一番初めにスイム約3,8キロなどいろんな距離があります。そういったなかで、すごく楽しめているスポーツでこれからどんどんジュニアの育成もしていく競技だと思っています。

プロとは違う競争ができると言う事ですね。海外ではかなり有名で日本代表という人もおられます。75歳以上で国内で優秀な成績の人はジャパンの代表にもなります。
でもそんな中の戦いで、年代別で日本代表というのがありまして、75歳以上で日本国内で優秀な人は国際大会でジャパン野代表で、プロとは違う戦いができると言うことですね。

オリンピックに出る人は皆プロの選手なんですけどプロの競技距離を言うと泳ぐ距離が1500メートルバイクが40キロランが10キロ。世界最高峰の選手の記録は約2時間ぐらいの競技で、スピードもものすごいものです。それがオリンピックディスタンス「距離」ですね。プロの世界選も各地で7選とか8選行なわれています。代替それが基準でたまにスプリントと言ってその半分の距離でプロもなん専科行なっています。そうすると1時間ぐらいの競技になるんですけども、更にスピードアップするんです。
どっちがいいとかではないんですけど。それはそれのスピードかんとか受給力が求められる競技です。そのなかで、僕は視覚障害者でありますので、パラトライアスロンという競技に出場しました。パラトライアスロンにはカテゴリーがありまして、両下肢が使えない方と蚊、視覚障害の方だとかいろいろなカテゴリーがありまして・・・
ここでQ:聴覚派ないんですか?
A:聴覚障害者はパラには入らないんです。身体の能力は健常者とそん色ないんで・・・・。ただその人達は一般の競技に参加します。パラトライアスロン二なると道具が変わってきます。たとえば、視覚障害者の場合は一人で泳いだり、一人で走ったり、自転車に乗ったりできませんので、ガイドという人と共同で行ないます。自転車はタンデムという二人乗りの自転車で、前に乗るガイドをパイロット、後ろに乗る視覚障害者をストーカーと言います。泳ぐときには、伴泳ロープで、延び縮みしないもの。この基準は変ることもあるんですが、それを繋いで泳ぎます。大会によっては異なるんですが、海とか湖と蚊池などが多く、流されることもあるので、かなりしっかりしたロープで、それを頼りに泳ぎます。水泳の場合、伴泳者が前を泳ぐこともあります。前を泳いだからと言って早くなるわけではなく、場あらんすが崩ますので、となりで同じ速度で泳いでくれるのがいいかなあと思います。ランにおいては、伴走ロープを
持って「ひもの長さが1メートル以内」と決められています。通常日本では、それを輪っかにして使っています。今日持ってきたこの輪っ蚊を使います。

等々多岐にわたって話しに花が咲きました。

なお、獲得したアジア大会の金メダル、日本国内大会のメダルなど写真で紹介しております。

 

 


☆パラトライアスロンに53歳でチャレンジしてみたら、
日本代表としてアジア大会で金メダル。
ロンドンでのグランドファイナルで14位


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テーマ: ハンセン病問題の正しい理解に向けて
日時: 11月13日「日曜」 午後1時半~4時ぐらいまで
場所: 東淀川区淡路5丁目10番7号淡路自由空間倶楽部
パネラー: ハンセン病関西退所者原告団いちょうの会 と患者
会費: なし
問い合わせ: 090-2598-9528 鈴木まで

☆ みんなの人権
ハンセン病は、「らい菌」によって引き起こされる慢性の感染症です。「らい菌」
の病原性は弱く、感染してもほとんど発症しません。また、現在では、早期に発見し
て適切に治療すれば、後遺症を残さず治る病気です。
ハンセン病については、1996(平成8)年に「らい予防法」が廃止されるまで、約
90年間、国や地方自治体などにより行われた強制隔離政策が、患者、回復者の人権を
著しく侵害するとともに、その家族の方々などにも多大な苦痛や苦難を与え、さらに、
社会にハンセン病に対する偏見・差別を植え付けてきました。

 


テーマ:

  テーマ:盲導犬との出会いと駅転落事故について
  パネラー:中世古 幸秀「ゆきひで」氏 「全盲」「盲導犬使用者」
  ☆昭和25年生まれ「全盲」
  盲導犬サーブ「*参照で有名な 社会福祉法人 中部盲導犬協会からの貸与で、1頭目がマリー、二頭目がソフィア「現在」
   盲導犬歴16年
   専攻科理療科卒業後は自宅開業
  ☆30歳で結婚
   結婚後5年で盲導犬をもらう。
  ☆大阪へ来るきっかけになったのは、次女が多くの病気をかかえており、大阪の病院
   へ通院するためであった。二男二女の六人家族。

   こんにちは、生野区から参りました中世古幸秀「なかぜこゆきひで」と申します。よろしくお願いします。
  昭和25年1月8日生まれです。今来ました女性が恵子と申しまして、私の妻です。
 私は生まれた時からの全盲で、三重県立盲学校の1年から専攻科「鍼灸マッサージ課」を卒業し、自宅開業したんです。田舎にいると、色々役員をしろと言われ、ちょうど青年部部をしていた頃、偉い人を呼んで話を聞こうかという事になったんです。皆が「盲導犬のこと知っとるか?」と聞くと、皆知らない人が多かったんです。
  そこで、中部盲導犬協会から講師を呼ぼうじゃないかという事になったんです。中部盲導犬協会はサーブで有名ですよね。サーブを育てた盲導犬協会なんです。「お前訓練に行って来い!」と言われたんです。サーブがまだ生きている時に一頭目のマリーの訓練を受けました。マリーは施術所やホテルへの出張などに利用していました。もう一つの理由は子供たちが保育所に行くのに利用し、通産10年間盲導犬と共に保育所に通いました。

  ☆ニュースではーー2016年9月4日 8月15日、東京メトロ銀座線の青山一丁目駅(東京都港区)で、盲導犬を連れていた世田谷区の会社員、(55)がホームから線路に転落し、電車にひかれてその後死亡した。
  ーーここで、盲導犬のハンドルを右に持つか、左に持つか、盲導犬協会によって別れるとの話があった。中世古さんは場面「駅の形状が片側ホームと両側ホームによって違うが線路側に盲導犬が歩くようにハンドルを右に持ったり、左に持ったりしているとのこと。
  東京メトロ銀座線の青山一丁目駅では、このようなことが行なわれていなかったのではないかという意見であった。

  * 盲導犬サーブ(もうどうけんサーブ、1977年4月8日 - 1988年6月13日)は、盲導犬。雌のシェパードで、日本で最も知られたイヌの内の一頭である。

  経歴[編集]
  1977年(昭和52年)4月8日に生まれたサーブは名古屋市の中部盲導犬協会で訓練を受けた後、岐阜県のマッサージ治療院を営む男性を主人とした。
  1982年(昭和57年)1月25日、岐阜県郡上郡美並村(現・郡上市)の国道156号での誘導中に、雪でスリップして突っ込んできた車から主人を庇って重傷を負い、その傷が原因で左前脚を切断。この事故がきっかけとなって「盲導犬は視覚障害者の身体の一部」であるとの認識が広がり、事故にあった盲導犬にも自賠責保険が支払われるように法律が改正された。
  1983年にはこの話が出版された事もあって、日本だけでなく海外でもサーブの事が知られるようになり、1985年(昭和60年)にアメリカ・テキサス州知事から主人ともども招待を受けたサーブは「テキサス名誉州犬」の称号を受け、また同年9月には内閣総理大臣中曽根康弘から功労賞を受賞。1986年(昭和61年)には、サーブを讃えるとともに交通安全の願いを込めて、国鉄(当時)名古屋駅前にブロンズ像が設置された。
  1988年(昭和63年)6月13日未明、老衰のため11歳で永眠。墓は名古屋市南区の長楽寺動物霊園にある。
  1988年12月18日にはNHKでテレビアニメ『がんばれ!盲導犬サーブ』が放送された[1]。翌1989年7月4日にはテレビ朝日の「火曜スーパーワイド」の枠で『三本足の名盲導犬サーブ・愛の物語』としてテレビドラマにもなった。いずれも手島悠介の著作を原作としている。2007年9月6日にはフジテレビの「奇跡体験!アンビリバボー」でも『ありがとう…サーブ』として紹介された。
  出典 ウィきペディアから


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パネラー:中世古 幸秀「ゆきひで」氏 「全盲」「盲導犬使用者」
テ ー マ:盲導犬との出会い・便利さ・メリット・デメリットなどについて
☆昭和25年生まれ「全盲」
 社会福祉法人 中部盲導犬協会からの貸与で、1頭目がマリー、二頭目がソフィア
 盲導犬歴16年
☆三重県立盲学校入学・卒業
 当時ベビーブームの頃で、今とは違って多く10名ほどの入学者があった。
 専攻科理療科卒業後は自宅開業
☆30歳で結婚
 結婚後に5年で盲導犬をもらう。
☆大阪へ来るきっかけになったのは、次女が多くの病気をかかえており、大阪の病院
 へ通院するためです。二男二女の六人家族。


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 7月10日ウイズ定例会は自由空間倶楽部において、「NPO法人 モンキーマジック西日本事務局&なにわモンキー運営スタッフ」の岡田龍也 氏をお招きし、お話を伺いました。

モンキーマジックとは、「見えない壁だって、越えられる。」をコンセプトに、フリークライミングを通して、視覚障害者をはじめとする人々の可能性を大きく広げることを目的とし、活動しているNPO法人です。

<<経歴>>


 こんにちは、なにわモンキーの岡田龍也と申します。今年28歳でして、22歳で大学を卒業して社会に出たんですけど、最初は障害のある人とのかかわりはなくて、学習塾の社長の秘書をしたり、学習塾のました。何度か転職しました。

その後は、不登校の子供達のカウンセラーもやっておりました。
今は障害児学童をやっています。学校の放課後障害児の預かりですね。


<<障害者の関わりとモンキーマジックの発足>>


私は大学時代にアメリカンフットボール部に所属していました。ある時に、他の大学の同級生でアメリカンフットボール中に首を骨折し、車いす生活になった方がおられたんです。その方は天理大学の学生でした。車いすになっても大学のコーチ監督などしてたんです。ある時会いまして、車いすになっても自分の意見をはっきり言うし、たわいもないネタなどもするし、普通に下ネタなどもするんです。それまで、障害のある方とかかわる事がなかったので、自分で勝手に壁を作っていたことにきずいたんです。その時は、車いすを使ったスポーツ「アメリカンフットボール」の団体で、代表と自分は副代表でした。
これを立ち上げ、それをきっかけに障害者と関わる仕事に就いてみようかなと思いました。その時に、東京のモンキーマジック代表の小林さんとであいました。モンキーマジックは視覚障害のある人もない人もクライミングを楽しむというイベントを月に1度やっていました。勉強のために大阪から出向いたんです。それをきっかけに信仰が深まりました。それから1年余りでモンキーマジックのスタッフになりました。それから1年ちょっとで副代表から降りるときに、大阪でも東京でやっている視覚障害者も健常者も共に楽しめるイベントをやりたいんだ。と小林さんから連絡いただきまして、岡田君と他に声をかけている人がいるから「大阪へ行く時に会ってくれないか」と言われたんですね。それが去年の6月でした。そのメンバーで始めたのが、「なにわモンキー」という団体です。早速9月に参加者を集め「15名」。内訳は「視覚障害者5名晴眼者10名」で成功を収めたんです。

<<クライミングの実際>>


ーー このメンバーのなかでクライミングを経験された方はおられますか?ーー
赤星さんが手を挙げられました。
Q: どこで?
A: 十三にあるスティーロックジムです。

<<ボルダリングとクライミング>>


今日はボルダリングに使う靴を持ってまいりました。という案内で参加者全員にボルダリング用のしゅーずを回覧しました。
感想ーーすごく小さいと思いますが?
A:これくらい小さくないと足の指先に力が入りません。

 また、視覚障害者がボルダリングをするときは、下から晴眼のサポーターが「右手 何時の方向に何十センチ」とか左手「10時の方向に何10センチ」などと指示をし、頂上まで達すると、その逆に下降してきて地上1メートルぐらいの所に足元が達した時点で、床に敷いてあるマットに飛び降りるよう指示してガイドは終了する。

*ボルダリングとは?


手ぶらで気軽に始められるクライミングが「ボルダリング」です。
クライミングというのは英語で「登る」と言う意味の言葉ですが、この言葉が岩を登るスポーツの名前に成っています。
最近ではテレビや雑誌などでも目にする事の多い室内クライミング施設(クライミングジム、ボルダリングジムなど)では岩の変わりに色の付いた様々な形のホールドと呼ばれる突起物を壁に付け、ロープやハーネスを付けて登るクライミングをインドアクライミングと言います。
その中の1つのジャンルとして「ボルダリング」があります。「ボルダリング」とはロープやハーネスを装着せずにクライミングシューズとチョークと呼ばれる滑り止めの粉を使ってクライミングをする事を言います。ロープやハーネスを使わない事でロープの確保をお互いにし合う事も無く、その方法を覚える事も無いので手軽にクライミングを楽しむ事ができます。

*ボルダリング&クライミングジム CITY ROCK GYM


http://cityrockgym.com/

なにわモンキーは、大阪を中心とした関西圏で、視覚障害のある人もない人も一緒に楽しめるクライミングイベントを開催する団体です。

     現在、視覚障害者と晴眼者が一緒にクライミングを楽しむイベントを
大阪   で隔月開催しております。

筆者感想・・・


 私にとって、崖を素手で登るのは考えられる反中を超えていました。余り高いところは好きではないので…ところが、講演のなかで、下肢障害の方が腕の力だけでボルダリングをされ、頂上まで行かれた話を聞き、すごいなあ!だけの感想ではなく、ものすごいパワーと勇気を感じました。


テーマ:
日  時:平成28年7月10日 午後1時30分~4時頃
場  所:ギャラリーNOVA自由空間
パネラー:岡田龍也氏「晴眼」
     NPO法人 モンキーマジック西日本事務局&なにわモンキー運営スタッフ
テ ー マ:障害のある人もない人も、一緒にクライミングを楽しもう!
現在、視覚障害者と晴眼者が一緒にクライミングを楽しむイベントを大阪で隔月開催しております。
・クライミングとの出会い        ・なぜクライミングなのか?
・そもそもクライミングとは何なのか?
・視覚障害者がどうやってクライミングをするの?
・障害のある人とない人が一緒にクライミング取り組む意味って?
などについてお話させていただきます。少しでもクライミングをはじめとした「障害
のある人もない人も一緒に楽しめる体験」に興味を持っていただけましたら幸いです。


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