ウイズ東淀川のブログ

平成6年7月から、東淀川区において結成された、コミニケーション・ボランティア・グループです。
奇数月の第二日曜を定例会とし、【共生】を理念として、共に語り・共に学び・共に遊んでみませんか「をキャッチフレーズに、誰もが集える」場を提供しています。


テーマ:
パネラー:中世古 幸秀「ゆきひで」氏 「全盲」「盲導犬使用者」
テ ー マ:盲導犬との出会い・便利さ・メリット・デメリットなどについて
☆昭和25年生まれ「全盲」
 社会福祉法人 中部盲導犬協会からの貸与で、1頭目がマリー、二頭目がソフィア
 盲導犬歴16年
☆三重県立盲学校入学・卒業
 当時ベビーブームの頃で、今とは違って多く10名ほどの入学者があった。
 専攻科理療科卒業後は自宅開業
☆30歳で結婚
 結婚後に5年で盲導犬をもらう。
☆大阪へ来るきっかけになったのは、次女が多くの病気をかかえており、大阪の病院
 へ通院するためです。二男二女の六人家族。

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 7月10日ウイズ定例会は自由空間倶楽部において、「NPO法人 モンキーマジック西日本事務局&なにわモンキー運営スタッフ」の岡田龍也 氏をお招きし、お話を伺いました。

モンキーマジックとは、「見えない壁だって、越えられる。」をコンセプトに、フリークライミングを通して、視覚障害者をはじめとする人々の可能性を大きく広げることを目的とし、活動しているNPO法人です。

<<経歴>>


 こんにちは、なにわモンキーの岡田龍也と申します。今年28歳でして、22歳で大学を卒業して社会に出たんですけど、最初は障害のある人とのかかわりはなくて、学習塾の社長の秘書をしたり、学習塾のました。何度か転職しました。

その後は、不登校の子供達のカウンセラーもやっておりました。
今は障害児学童をやっています。学校の放課後障害児の預かりですね。


<<障害者の関わりとモンキーマジックの発足>>


私は大学時代にアメリカンフットボール部に所属していました。ある時に、他の大学の同級生でアメリカンフットボール中に首を骨折し、車いす生活になった方がおられたんです。その方は天理大学の学生でした。車いすになっても大学のコーチ監督などしてたんです。ある時会いまして、車いすになっても自分の意見をはっきり言うし、たわいもないネタなどもするし、普通に下ネタなどもするんです。それまで、障害のある方とかかわる事がなかったので、自分で勝手に壁を作っていたことにきずいたんです。その時は、車いすを使ったスポーツ「アメリカンフットボール」の団体で、代表と自分は副代表でした。
これを立ち上げ、それをきっかけに障害者と関わる仕事に就いてみようかなと思いました。その時に、東京のモンキーマジック代表の小林さんとであいました。モンキーマジックは視覚障害のある人もない人もクライミングを楽しむというイベントを月に1度やっていました。勉強のために大阪から出向いたんです。それをきっかけに信仰が深まりました。それから1年余りでモンキーマジックのスタッフになりました。それから1年ちょっとで副代表から降りるときに、大阪でも東京でやっている視覚障害者も健常者も共に楽しめるイベントをやりたいんだ。と小林さんから連絡いただきまして、岡田君と他に声をかけている人がいるから「大阪へ行く時に会ってくれないか」と言われたんですね。それが去年の6月でした。そのメンバーで始めたのが、「なにわモンキー」という団体です。早速9月に参加者を集め「15名」。内訳は「視覚障害者5名晴眼者10名」で成功を収めたんです。

<<クライミングの実際>>


ーー このメンバーのなかでクライミングを経験された方はおられますか?ーー
赤星さんが手を挙げられました。
Q: どこで?
A: 十三にあるスティーロックジムです。

<<ボルダリングとクライミング>>


今日はボルダリングに使う靴を持ってまいりました。という案内で参加者全員にボルダリング用のしゅーずを回覧しました。
感想ーーすごく小さいと思いますが?
A:これくらい小さくないと足の指先に力が入りません。

 また、視覚障害者がボルダリングをするときは、下から晴眼のサポーターが「右手 何時の方向に何十センチ」とか左手「10時の方向に何10センチ」などと指示をし、頂上まで達すると、その逆に下降してきて地上1メートルぐらいの所に足元が達した時点で、床に敷いてあるマットに飛び降りるよう指示してガイドは終了する。

*ボルダリングとは?


手ぶらで気軽に始められるクライミングが「ボルダリング」です。
クライミングというのは英語で「登る」と言う意味の言葉ですが、この言葉が岩を登るスポーツの名前に成っています。
最近ではテレビや雑誌などでも目にする事の多い室内クライミング施設(クライミングジム、ボルダリングジムなど)では岩の変わりに色の付いた様々な形のホールドと呼ばれる突起物を壁に付け、ロープやハーネスを付けて登るクライミングをインドアクライミングと言います。
その中の1つのジャンルとして「ボルダリング」があります。「ボルダリング」とはロープやハーネスを装着せずにクライミングシューズとチョークと呼ばれる滑り止めの粉を使ってクライミングをする事を言います。ロープやハーネスを使わない事でロープの確保をお互いにし合う事も無く、その方法を覚える事も無いので手軽にクライミングを楽しむ事ができます。

*ボルダリング&クライミングジム CITY ROCK GYM


http://cityrockgym.com/

なにわモンキーは、大阪を中心とした関西圏で、視覚障害のある人もない人も一緒に楽しめるクライミングイベントを開催する団体です。

     現在、視覚障害者と晴眼者が一緒にクライミングを楽しむイベントを
大阪   で隔月開催しております。

筆者感想・・・


 私にとって、崖を素手で登るのは考えられる反中を超えていました。余り高いところは好きではないので…ところが、講演のなかで、下肢障害の方が腕の力だけでボルダリングをされ、頂上まで行かれた話を聞き、すごいなあ!だけの感想ではなく、ものすごいパワーと勇気を感じました。

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日  時:平成28年7月10日 午後1時30分~4時頃
場  所:ギャラリーNOVA自由空間
パネラー:岡田龍也氏「晴眼」
     NPO法人 モンキーマジック西日本事務局&なにわモンキー運営スタッフ
テ ー マ:障害のある人もない人も、一緒にクライミングを楽しもう!
現在、視覚障害者と晴眼者が一緒にクライミングを楽しむイベントを大阪で隔月開催しております。
・クライミングとの出会い        ・なぜクライミングなのか?
・そもそもクライミングとは何なのか?
・視覚障害者がどうやってクライミングをするの?
・障害のある人とない人が一緒にクライミング取り組む意味って?
などについてお話させていただきます。少しでもクライミングをはじめとした「障害
のある人もない人も一緒に楽しめる体験」に興味を持っていただけましたら幸いです。


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 5月8日、淡路自由空間倶楽部 において、村上晃氏「車いす使用者」をお招きし、【一人暮らしのこぼれ話】と題し、お話を伺いました。
 
☆村上さんは、先天性脳性マヒで、車いす使用者。さらに、少々言語障害があり ますが、一人暮らしをしている、アクティブな障害者です。私達障害者で組織 している「大阪市福祉教育語りの会」で、学校などへの「人権学習」に一緒に 活動しています。最近一人暮らしをされましたので、その四方山話をお聞きし ました。
 
 初めまして、村上晃です。よろしくお願いします。去年2月から一人暮らしをしています。一人暮らしを始めた経緯ですが、長い間母親と二人で暮らしていたんですが、母も弱ってきたので、私が障害者施設「エフォール」、※印参照 へ入所しました。ここで4年2カ月いました。この間に母親が亡くなって、自宅が空き家になり、自宅に戻ろうと決めたんです。施設に居ると24時間安心安全ですが、好きな時間に出ていったりすることができないという制約があります。週に2回のお風呂、決められた食事など、自由さはありません。そこで、自立生活センター「Flat・きた」で相談しました。一人暮らしに向けて、自立生活プログラムを2回体験し、一人暮らしに備えました。
 その他の改装は、寝起きする居室には耐震工事をしました。自分が考えていたことでは、いろんな不備がありました。家族の意見を取り入れて、改装したんです。去年の1月半ばに改装を終えましたので、2月に自宅に戻りました。ヘルパーさんは平日朝の9時から来ています。平日は生活介護事業所「ぜんかい屋」*1参照へ行っています。
 
Q : 介護時間は足りていますか?
A : 時間数は市町村で異なりますが、大阪は多いように思います。それでも一人暮   らしの全介助者には少ないと思います。

 筆者からーー語りの会に時々出席されますが、介助時間のため、定例会を中座され、   早引きで帰られることがありました。
筆者からーーウイズ東淀川にも時々参加いただいているEさんが、義兄にあたると聞   き、障害のことに関してよく御存知だったのが、理解できました。「今回も参   加いただきました。」
    今回、久しぶりに参加いただいたMさんも、昔からの友達だと聞き、これま   たビックリ!世間は狭いものだと実感しました。
    また、村上さんも以前から森田真千子さんのグループ「ごんべい」のメンバ   ーとして活動されています。10数年前から、私もごんべいの活動にもウイズ   として協力していましたので、村上さんとは関わりを持っていたことになりま   す。
 
*1 みんなの「ぜんかい屋」だよ
  さをり織り・手芸・外出活動
  ふれあいフェスタ 去年は11月7日(土曜日)でした!
  みんなの独り言  心を澄ませて 心の声を 聞こうよ
 
  ヤッホー・皆さんお元気ですか?
  私たち、ぜんかい屋のみんなは、とても元気です。
 
   今年は、2月と3月には、ボランティアの村尾さんの所にどんぶり物や、お寿  司を食べに行きました。とても、美味しかったです。
 
  ゆめ風中学生 プロジェクト
  など多彩な催しを行なっている作業所です。
 
*障害者支援施設「エフォール」
「エフォール」は、複合福祉施設「メゾン リベルテ」内の身体障害者療護施設とし て平成7(1995)年6月に開設され、平成22(2010)年4月に障害者支 援施設へと移行しました。
 主として日常的に介護が必要な重度の身体障がい者の方に、日常生活全般にわたる 介護・支援を提供する施設です。個別支援計画に基づいた伴走型支援を推進してい ます。また、地域で生活される障がい児・者の方へ短期入所サービスを提供してい ます。短期入所用居室はすべて個室になっており、利用される方々の生活パターン ・ 利用目的に対応します。「メゾン リベルテ」に併設された高齢者施設・在宅サ ービス事業所と協働し、地域の福祉ニーズに対しても取り組んでいます。









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 3月13日、相談支援専門員 野々村智子氏「弱視」をお招きし、【健常者と障がい者の間で、自分の居場所を求めて】と題し、お話しをお伺いしました。
 
 こんにちは、『東淀川区障がい者相談支援センターFlat・きた』で、相談支援専門員として働いています、野々村智子と申します。
 まず、「初めにどのような方々がお見えになっているのか、自己紹介をお願いしたいと思います。」との要望に答えて、参加者の自己紹介を行ないました。
 ただ今、紹介いただきましたように、東淀川区の障害者相談支援センターFlat・きた、自立生活センターFlat・きたという二つの名前があるんですが。ここで、仕事をさせていただいています。生まれつき先天の弱視です。小学・中学・高校・大学と一般の学校へ行きました。その時に感じたことや思いが、今の仕事に繋がっているのではと思っています。
 私のような未熟なものが、皆さんのような経験豊かな方にお話しさせていただいてよいものかと思っています。
 

<<家族>>


 私は、三人姉妹の末っ子なんです。父と母、姉二人にも障害はないんです。親戚にもいません。私だけが障害者なんです。数十年前のことなんで、今のように障害者が、外に出ていなかった時代です。父母や姉達も、障害者に初めて接したのは私ではないかと思います。障害を持っていたら、社会で生きて行くのが難しいんではと、両親は感じていたんだと思います。そこで、姉二人と同じように育てたいと考えていたようです。障害を意識せず、普通に社会で生きていける力をつけてやりたいと思っていたようでした。
 姉たちと同じような経験もしまして、同じ小学校へ行くことになりました。そこでは、障害と向き合わされることがありました。この経験が今の仕事の支えになっているのではないかと思います。
 

<<仕事>>


 皆さんも御存知だと思いますが、障害者相談支援センターFlat・きたで、障害者相談支援専門員という立場で、仕事をしています。視覚障害だけではなく、障害者が主体となって運営しているセンターです。代表をしているのが、脳性まひの方なんです。健常のスタッフもいまして、サポートをし、もちろん、仕事もしています。訪問などの場合、一人では行けない障害者が多いので、訪問は健常者とペアを組んでいます。これは、発足当時からの原則となっています。スタッフは障害者が3人で、健常者が5人です。二人で訪問しているメリットとしては、一人で聞くと、一辺倒な考えになりますので、より広い考えを得るため、複数人で対応しています。
 
Qーー生まれは?
Aーー大阪市の住之江区です。三歳のころに貝塚に引っ越ししまして、実家は貝塚にあ   ります。
Qーーなぜ、こちらへ?
Aーー大学の4年の時に、ピアカウンセリングをやりたいと思いまして、貝塚よりも大   阪の方がカウンセリングの情報があるかと思いました。それと、家族と離れて一   人暮らしをしたいと思っていましたので、大阪へ来ました。
 

<<健常者?障害者?の葛藤>>


 大学の4年になるまで、この仕事をするとは思ってなかったんです。小学校から地域の学校へ行ってたというのと、出来るだけ健常者として成長してほしかったという家族の意向もありました。
 視覚障害と言うのは、世間では全盲を指していると思います。学校の先生すら全盲が視覚障害との認識があったように思います。
 
筆者からーー自分の立場が、健常者か障害者か、中途半端な立場であることを意識して      おられたようです。また、《最低の健常者》と自分のことを評していて、      どっちつかずの立場を、表しているのがよく分ります。
 

<<結婚?>>


 大学生の頃、心が一杯になって、日本ライトハウス情報文化センターへ、「視覚障害者の団体はないですか?」と相談に行きました。そこで、関西SL「注参照」を紹介いただいたんです。そこは、健常の大学生で点訳サークルに入っておられる方と、視覚障害大学生が交流する場です。それは、大学4年の時でした。そこに行くと、変な感覚だったんです。皆が自分のことを分ってくれる。これは、初めての経験でした。自分も「視覚障害者」だと言っていいんだと思いました。「最低の健常者」を止めることができました。
 
参加者からーー結婚されていると聞きましたが…? 等に答えて・・・
 
それでは、出会いを話しましょうか?とパネラーの野々村さん。
 関西SLに入って、「地域の学校で学ぶ視覚障害児(者)の点字教科書等の保障を求める会」の会合に出かけました。そこで司会をしていたのが夫だったんです。これが、出会ったきっかけです。
 
参照 「関西SL」。関西SLのSLというのは、Student Libraryの頭文字をとった   もの。直訳すれば、学生図書館ということになります。しかし、だからといって   図書館を指す名称というわけでもないのです。
 
それでは、関西SLがどういう団体なのか、ここでご紹介しましょう!
関西SLの歴史
 
 1971年、京都市内の大学に3人の視覚障害学生(岩井和彦・竹下義樹・田尻彰)が点字受験によって入学しました。当時の大学は、点字の教科書を初め、彼らが入学後学習・研究を進めていく上で<必要な条件をほとんど保障してくれないという状況でした。彼らは、「他の学生たちと同様に学習したい」、「自ら点字で教科書や文献を読みたい」などの思いを胸に、京都ライトハウスに集まりました。それを知った京都大学点訳サークルの学生たち(加藤俊和ら)が中心となり、教科書点訳を始めたことが当団体の出発点なのです。その名称は、イギリスで専門図書を充足している機関、Student
Libraryにちなみ、関西Student Libraryと名づけられました。



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11月15日、高次脳機能障害の比嘉 由隆 氏 「車いす使用」をお迎えし、事故の後、闘病生活からリハビリ→就職や日頃の生活についてまで語っていただきました。
 
 こんにちは、比嘉と申します。生まれは昭和52年生まれの38歳になります。
22歳の時北加賀屋の下に電車の線路がある高架道路から右折中にバイパスから5メートル下へオートバイで転落の自損事故でした。種総合記念病院へ緊急入院しました。昏睡状態から目覚めた時、全く身体は動かず、ベッドに寝た切りの状態でした。徐徐に回復を見て、ボバースのリハビリに病院へも入院。総合して1年半の入院生活でした。
頭におった衝撃では外科的手術の必要はなく、手術痕はありません。医師のはなしでは、脳細胞を繋ぐジクサクが断裂「参照1」したのでは?との診断。
事故後友人との会話で「あのバイパスに転落防止用柵が出来たのは比嘉のおかげだ」と冗談交じりに言われたものでした。
 

<<一人づ舞いを始めたのは28歳>>


 実家に帰ってからリハビリの毎日でした。受傷当時は身体は動かせず、寝たきり状態でしたが、いまは自室の移動は家具や壁を伝うと移動は自力でできるほど回復しました。
 

<<一人住まいは?>>


 28歳ぐらいから一人暮らしをしながら、気楽に音楽や余暇を楽しんでいます。
ホームヘルパーさんは週に1回来てもらっています。
 また、仕事はNPO法人特定非営利活動法人障がい者福祉総合支援センタ-いちいちまるでピアカウンセラーとして働いています。職場の通勤は電動車いすで家から15ふんです。
 
いちいちまるのホームページのスタッフ紹介の中で
比嘉 由隆さん(相談員・ピアカウンセラー)大阪KSG代表世話人はこのように評されています。
☆いちいちまるにとって不可欠なムードメーカ。彼の言動は笑いを誘い、周りを和ませ、明るくする。その自然さは有難い存在。目下、大阪高次脳機能障害セルフヘルプグループ(略称=大阪KSG)の結成に情熱を傾けている。現在ではサポートグループひなたぼっこの会をを作り奮闘している。
知的障害者のピアカウンセリングのサポートも行っている。高次脳機能障害による記憶障害を独自のメモ帳でカバーしながら、日々の業務をこなしている。そんな彼の最大の関心事は「結婚したい!」。
 
筆者から・・・もう4年余りになりますが、大阪市ボランティア市民活動センターと語りの回主催の障害者と小中学生の宿泊プログラムには二泊三日を子供達と楽しみながら参加いただきました。その後のアフターイベントでも必ず、参加いただき語りの会メンバーとして今でも学校での人権学習講師の依頼しています。
 
参照1 軸索損傷とはどんな病気か
 頭部外傷のうち、受傷直後から6時間を超えた意識消失がある場合を、臨床的にびまん性軸索損傷と定義しています。
 通常は、明らかな脳組織の挫滅(ざめつ)(脳挫傷(のうざしょう))や血腫がない場合に付けられる病名で、意識のない原因を、脳の細胞レベルの損傷が広範囲に生じたためと考えたものです。
 
原因は何か
 頭部に回転性の外力が加わることにより、脳の神経細胞の線維(軸索)が広範囲に断裂し、機能を失うと考えられています。ヘルメットを着用したオートバイ事故のように、頭部に直接の打撲がない場合でも、強く脳が揺れることにより起こります。
 
症状の現れ方
 受傷直後から意識がありません。重症例では脳の深部にある生命維持中枢(脳幹(のうかん))が直接侵され、呼吸が損なわれたり急死することがあります。
 
検査と診断
 頭部MRIで、神経細胞の軸索の断裂に伴う微小な出血やむくみ(浮腫(ふしゅ))が映し出されます。頭部CTの精度では異常が認められないことも多く、意識がないなどの重い症状があるのに頭部CTで大きな異常がみられず、頭部外傷以外には原因が考えられない時はびまん性軸索損傷が疑われ、MRIで典型的な所見が認められれば診断が確定します。
 
治療の方法
 効果的な治療法はありません。脳挫傷や血腫を合併していれば、それに対する治療を行います。合併症を防いで全身状態を保ち、二次的な脳の障害を予防して(脳への十分な血液や酸素の供給など)、脳の回復を期待します。
 
 予後は一般的に昏睡(こんすい)の持続時間に比例します。受傷から24時間以内に意識の回復がなくて脳幹の障害が認められる場合は死亡率が約6割とされ、生命が助かっても意識障害などの後遺症が残ります。
 
 びまん性軸索損傷は高次脳機能障害を来しやすく、知能や記憶などの後遺症を残しやすいとされています。詳しくはコラム「頭部外傷と高次脳機能障害」を参照してください。
「ホームページより引用」
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テーマ: 日本の福祉学習に新たな一歩を!
パネラー: 日本福祉学習センター  理事長 雑賀 利幸 氏「全盲」

☆手引きって何だろう?
☆手話や点字ってどうやるんだろう?
☆質の高い介護って一体何なんだろう?

福祉について、介護について。もっと詳しい人になりたいと思いませんか?
 特定非営利活動法人日本福祉学習センターは、そんなアナタを応援するNPO団体です。

日時: 9月13日「日曜」午後1時半~4時ごろまで
場所:  NPO法人 自由空間倶楽部. 533-0032 大阪市東淀川区淡路5-10-7 NOVAビル1F ギャラリーNOVA「自由空間」内電話・FAX:06-6320-7036. ・
会費: なし
連絡先  090-2598-9528 鈴木まで

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  平成27年7月12日(日)  ギャラリーNOVA自由空間において、パネラー 伊藤繁 氏をお招し、障害者の就労の現状や、視力を失ってからも毅然と生きておられる力強いお話しをお伺いしました。
 
パネラー 伊藤 繁「しげる」 氏
NPO法人視覚障害者自立支援センター 事務局長
 株式会社コスモス 代表取締役
大阪市立大学共生社会研究会会員
 
☆ 初めましてという人が赤星さんをのぞいてほとんどだと思います。伊藤繁と申しまして、今年で65歳になります。18年ほど前に急激に視力が衰え始めました。いわゆる網膜色素変性症と言う遺伝的な病気に族します。昔は夜盲症などと言われてました。ビタミンA不足などという事ではなく、劣勢の遺伝なんです。兄弟は誰もいないんです。急激に視力が衰えてきて、仕事にさしつかえる様になったのが、18年前でした。それまで、いろんな仕事をしました。飲食業や不動産屋などです。不動産屋は視力がないと紙の資料が読めないんです。そこで、視力のない私達はどうすればいいのかという事で、仕事を考えると、昔ながらの鍼灸マッサージの仕事でした。今では名称が変わっていますが、区役所の障害福祉課というところへ相談に行きました。「マッサージの仕事をして生計を立てたいんですが」と相談しました。すると、マッサージの視覚を獲るんでしたら、神戸に国立視力障害者センターがあります。との案内。神戸の視障センターを紹介されました。そこへ行ったら授業料もいらないし、宿泊する寮などもありますからという事を言われたんです。ですが、家族もありますし、難しいという結論になりました。他にないんですかと尋ねると、民間で教える専門学校がありますと案内されました。でも、そこは授業料は高額ですよね。そうですかという事で、今度はハローワークに行きましたら、区役所と同じことを言うんです。ところが、女房の。知り合いから聞いた情報によると「何言うてんのん盲学校があるやんそこで鍼灸教えてくれるよ」マッサージ教えてもらった人知ってると言うんです。その情報から私も直接大阪市立盲学校へ電話しました。すると、「もう今年度の募集は終了しましたので、来年度に備えてください」と言われました。そのように翌年度から大阪市立盲学校鍼灸マッサージの専攻科へ入学しました。
 このような情報の非バリアフリーを受けるのは縦割りのせいなんですねと役所の方にいうと「そうかも知れませんね」との返事でした。盲学校は文科省の管轄です。障害福祉課と言うのは厚生労働省の管轄なんです。ですから、神戸の視障センターは厚生労働省の施設なんです。だから、そこは厚生労働省の琴しか分らないんです。それに比べて、東淀川区や東住吉区は府市の盲学校がありますので、こういう事は少ないかも知れません。そんなことがありまして、47歳で2級の身障手帳をいただきまして、いきなり重度障害者になりました。翌年の募集に応募し、盲学校理療科「鍼灸マッサージ」へ入学したんですそこで、前回のパネラー松浦登氏と同じクラスになったんです。それが約20年前のことです。盲学校へ入学して思ったのは、先生方や生徒さんが厳しい言い方をすれば、「ぬるま湯に浸かっている状態だ」と感じました。自分達は視覚障害者なんだから、助けを借りるのは当たり前!また、盲学校の理療科の先生たちは技術がへた。教科書通りの教え方では実践に通用しないと感じました。2、3年生になったら卒業生の経営している治療院へ研修に行くと、必ず言われるのが、「学校で教えられるのは初歩の段階でうちに来たら、全て変えてもらうよ」と実践をしている先輩方はおっしゃいます。理療科の先生方は技術を磨くような努力はしません。
 視覚障害者の世界では、盲学校の理療科の先生になるのがトップクラスの出世なんです。学生の身分はと言うと一番下に位置します。このような状態から技術を高めるにはどうすればいいか考えました。1年生の夏休みが終わる少し前に、「我々は視覚障害者だが、ボランティアに行こう」と特養の老人ホームえマッサージ・ボランティアを行ない10名以上の参加者を得ました。特養ホームの利用者は関節が曲がっていたり、自分で退位を変えることができにくい方々です。いろんな症状の方がおられて、実践的施術に非常に勉強になりましたので、月2回土曜日に訪問しました。この会をコスモスと名づけました。 今の会社の名前コスモスはここからきています。このボランティア活動は私の卒業後も後輩たちが4年ほど引き継いでくれましたが、 自然消滅しました。
 

<<就労支援を考える>>>


 盲学校卒業後、視覚障害者の就労支援をしようと考え、NPO法人を2002年に設立。自宅での治療院をしながらのことでした。NPOをしているといろんな方との繋がりを持まして、それまで視覚障害者をメインにやっていました。知的障害の方発達障害の方と父兄の方とお話しする機会が多くなりました。視覚障害者だけを考えていてはいけないなと言う気になりまして、自分自身もっと勉強しなければいけないと思いました。ちょうどその頃社会人大学院と言う者がありまして、大阪市立大学院の二期生として入学しました。私の場合は高校卒ですし、盲学校も専攻科です。募集要項に社会人経験3年以上で、大卒でなくてもよいという事だったんです。大学に目が不自由なんですと聞いてみますと、一度おいでくださいとのこと。授業について行けるかどうか面接されました。授業には携帯用読書機とデイジーを持って行ってこれでメモ録音ができることを示し、大学院で何を勉強したいのか、論文としてA4で10枚ほどの提出を求められました。論文審査で入学資格を認められました。2年間夜火・木・土曜に登校し、火・木は6時半から土曜は朝10時から5時までの授業でした。いろんな方が来られていましたが、視覚障害者は私が初めてという事でした。大学院では拡大読書器を2大購入していただきました。大学では共生社会という分野を研究しました。左翼的な方も在日の方もいろんな方がおられ、文字通り「ノーマライゼーション」でした。

<<障害者の一般就労を目指す>>


  知的障害を持った子供さんのお母さんたちは必ずおっしゃる言葉が、「私達親が生きているあいだはいいが子供一人になった時のことが心配」だという。その受け皿となるべく大学を卒業後「㈱コスモス」の設立に至ったのです。障害者の就労支援をしようとした時ちょうど法律が変わったんです。障害者支援法と言う法律ができ、就労支援と言うことができるようになったんです。昔で言う授産施設でなく、一般就労を目指す訓練を行なえということです。また、株式会社でこういう事を行なうのも初めてだと思います。ほとんどが障害者施設がらみのようです。行政の方もまさか株式会社がでてくるとは漕艇していなかったのではないでしょうか。コスモス利用者は定員20名のところ、24名の利用者でして、就労率は2年間で35%です。その内1年以上定着しているのは7割です。非常に就労率定着率ともいいんです。それは、独自のカリキュラムを組んで体験就労に何回も行きます。その人の特性や何ができるか。就労が決まっても3年間はアフターフォローのため会社へ訪問します。フォローしてもお金にはなりません。ですが、次の就労者に繋がるのです。これが、コスモスケアサービスの業務です。

<<就労の実態>>


障害の重度軽度にかかわらず、その人に合った仕事を見つけるのが私達就労支援者の仕事です。たとえば、この近くに【スシロー】がありますよね。そこの炊飯業務にきにコスモスからお世話した人が3年前就職した実績があります。

それから、精神障害の方々が困っているんです。そこで、精神障害者を中心にした生活支援のためコスモスクラブを設立し、そこにも13人の利用者がいます。ありがたいことに細かく就労支援をして行ったおかげで、支援学校や専修学校・私立の高校などからの評判も良くて時年度の募集も11月1日の募集解禁日に定員をオーバーするようになりました。

<<盲導犬を持った訳>>


 15年ほど飼っていた犬が亡くなり、1年ほどして自文の活動も広がり、視力の低下も感じたので盲導犬を持つことに決めたんです。千早赤阪村日本ライトハウス盲導犬訓練所で4週間の共同訓練を受けました。今では盲導犬との生活も4年になります。


*いろいろ話題は広がり、伊藤さんは次の仕事のため、4時になりましたので散会となりました。
伊藤さん 貴重なお話ありがとうございました。
by 鈴木
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日    時  平成27年7月12日(日)
                 午後1時30分~4時頃
場    所  ギャラリーNOVA自由空間
パネラー  伊藤  繁氏   コスモス代表
問 合 先  鈴木昭二   06ー6340ー3082
会    費  無料

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パネラー 松浦登氏


 こんにちは、淀川区に住まいしております松浦と申します。本日はよろしくお願いします。今日は鈴木さんからこういう機会を設けていただき、感謝しております。
 
☆参加者から、「今回は初めての方が多いので、参加者の自己紹介をしてからパ ネラーの話に入っては。」との提案で、自己紹介から始まりました。
 

<<健常者の時代の話>>


 元気なときでしたら、きょうはいいゴルフ日和やなぁと、気持ちはそっちの方に行ってしまうんです。
生まれは昭和23年で、今年66歳になります。前厄「42歳」までは健常者でした。35歳で、一級建築士になりまして、大阪市や大阪府の下受けをしていました。その頃は役所から4億円の工事を受けたら、前払い金として、4割の現金が入ってくるんです。それは西日本補償と言う会社を通じています。どこの企業も自分の会社の運営資金として利用しています。下請け業者には手形を切ったりしています。本当は工事をスムーズにする為に前渡ししているんですが、実際は目的外に使われているようです。
 

<<反骨精神の旺盛な少年時代>>


 私の田舎は島根県で、世界遺産になった石見銀山のすぐそばなんです。子供のころは、いやと言うほど、田んぼのたぐるまおしや、百姓の手伝いをやらされました。いやでいやでたまらんかったんですが、おやじは大工で、厳しい親でした。みなさん、ノコのはらわたの平たい所でほっぺ田を叩かれたら、どれだけ痛いか。子供のころ親父に逆らったら、2,3回叩かれたことがありました。あれほど痛いことはなかったですけど。それ以来おやじとは犬猿の仲でした。この年になっておやじの気持が分ってくるんであって、その時は全く分らんかったですけど。
 
 高校を卒業したら、大学へ行きたかったんですが、「金がないから働け」と言われ、大阪へ出てきて、専門学校を出て開業に至りました。土建屋と言うのはハデな業界なんで、無茶をし、その結果病気になったということです。その当時の従業員の経理のスタッフが、「松浦さん、ビルに踊り場があるのはなんでか知ってますか? 人生は駆け足で上がらんと、時々立ち止まって『休憩』しながら上がるためにあるんだよ。」と、言われました。そう言われて、自分は勘違いをしてました。その頃、元気だったし、いくら無理をしても自分は丈夫なんだから突っ走っても大丈夫だと思っていました。ところが、いくら元気であっても、疲労が蓄積すると、このように大病になるんだと身を持って教えられました。それまでは、なんでもできるから丈夫な身体だと思い込んで突っ走っていました。
 

<<発病>>


 それは、42歳の厄年でした。部下と車に乗っていて、助手席でダッシュボードに足を投げ出しながら、煙草を吸って「おい、帰ろうか」と帰社中。突然頭のなかから割れるようなガンガンガン、ドンドンドンという音が聞こえたんです。おかしいなと思ったら、身体が動かなくなったんです。しばらくするとしゃべることもできなくなりました。運転している部下に自分の頭を指さして、異変を伝え、部下が気づき、近所の大阪脳神経外科病院へ緊急に運び込まれました。診断は脳幹出血でした。30分で行ったんで、命が助かりました。たまたま近くに病院があったことも幸運だったんです。
 私は、学生時代から柔道をやってまして、身体には自信があったんです。高校2年の時には国体やインターハイ、高校生の時には三段でしたので体力には自信があったんです。
 

<<病院で夢かうつつかからの覚せい>>


 不摂生がたたって、脳幹出血を起こして、3カ月意識不明だったんです。入院中には幻覚なのか夢なのか分りませんが、意識不明の時に、このような事がありました。仰向けのまま一生懸命図面を書いているんです。いつもそういう夢ばっかり見ていたんです。仕事中に毎日行っていた喫茶店のモーニングコーヒーを頼んでも、誰も来ないんです。ウェイトレスさんも白いスカートをはいているんです。・・・それは看護師さんだったんです。「コーヒーを注文しても来ないはずです」。そんなような妄想がありました。それから自覚を感じて、現実に戻らなければと思いました。それから少しずつ現実を認識するようになったんです。現実に戻されつつあった頃、中枢性の耳鳴りで、かん高い耳鳴りがしたんです。視覚も明暗がわからないほどの状態でした。身体は動きませんし、今ある自分の状態が異常であることに徐徐に気づいたんです。ナースが来ても分らないし、自分の置かれているのは通常ではなく、異常な状態だと気づいたんです。
 
 同室の方が聞いていたラジオのリクエスト番組から「誰よりも君を愛す」が流れていました。それは平成3年の頃のことでした。なぜだか分りませんが、この歌を聞いていて涙が流れてきたんです。歌詞と心境が共鳴し、涙になったんだと思います。
 
 この脳内の出血により、視神経が圧迫され変性したんだと思います。更に、左右の目も眼球振盪「がんきゅうしんとう」「参照1」があり、血圧が高くなったりすると症状は強くなります。物を見る時は右目をつぶって、左目で確認しています。左の眼は視神経をやられていますので、眼球が動かないんです。また、人の声も左右の聞こえ方がアンバランスなので、よく聞こえる耳を音の方向に顔を傾ける癖があります。また、一部小脳もやられていますので、運動失調もありまして、今でもリハビリを続けていますが、なかなかまっすぐに歩くことができにくいです。ヘルパーさんと歩くと、右に左に身体が揺れて、手引きしているひじのあたりをマッサージしているのかと冗談を言われるほど身体の揺れがあります。
 
Q : 身障手帳は何級になるんですか?
A : 視覚が一種二級で、身体が三級です。
 
 今のところ、自分でも毎日1時間程リハビリをしていますので、現状を保っていますが、止めると急速に進行し、寝たきりになってしまいます。医師から進行すれば、寝たきりになる可能性はあると言われています。
 
 実は、私も今のような精神状態になるまで3年掛かりました。その間3回自殺未遂をしました。5階の一般病棟に移った時、パイプいすで窓ガラスを割って、車いすでそこからダイビングしようと思ったんです。5階の階段から勢い付けて車いすで飛び降りようとしたら、医師に寸前に止められました。
また、外に出て、交差点で止まっている時、自動車が発進したと同時に車いすを突っ込むとひかれるやろうと思って信号の変わる寸前に私が発進したんで、自動車が止まってくれたんです。今では笑い話ですけど。心底死にたいと思うと、痛いとかかゆいとか後のことなど全く考えませんね。本当に死にたいとなると、「死」だけしか考えません。
 

<<あわてたら何を言うか分らん?>>


 阪神淡路大震災が起こる前年に、神戸の視力障害者センターへ入学を勧められて見学に行き、施設の説明を聞きました。入所するのは自分は無理であるが、通うならできると思いました。そうこうしていると、翌年の1月17日早朝にあの阪神大震災が起こったのです。当時西宮に住んでいましたので、被災したんです。その日の前日、NHKの大河ドラマをやっていたと思います。友達の家に飲みに行ってたんです。帰りが遅くなって、風呂に入ってから寝てたんです。二階に上がって長いこたつをよけて、ふとんを敷いて寝たんです。そのこたつで、倒れてきた家具とで隙間を作ったんです。こたつがなかったら家具の直撃に会ったと思います。また、助かったのは、二階に居たということと、10軒並びの家屋で、隣同士の隙間が狭く、寄りあって建っていましたことでしょうか。地震の時、地下から今まで聞いたことのない「ゴォォォォー」という不気味な音がしたんです。なにかと思っていたら「どーん」と持ち上げられ、天井を見ると空が見えました。外に出て、家を見ると10軒並びの家が45度ほど傾き、電信柱にもたれて止まってたんです。二階に居られた方は助かったんですが、一階に居られた方はお亡くなりにななられた方が多いようでした。私の隣に住んでいた方の声が一階から聞こえてきたんです。その方は淀川キリスト教病院の院長の親戚の人だったんです。その人は瓦礫に埋まっていたんで、「○○さん頑張ってや!」と声をかけたんですが、地震の直後だったんで、動揺していて、昔付き合ってた女性の名前を呼んでしまったらしいんです。後日、嫁は、「あの時呼んだ女性の名前はなんやの!」と叱られまして、しつこく追及されましたが、私は「知りません」を通し続けました。
 
 被災してから、すぐに近くの体育館へ連れて行ってもらいましたが、ドンドン被災者は集まって来ました。視覚障害の為「トイレに近い場所を。」と思っているうちにだんだん外へ外へと追い出されました。すると、ガスの匂がし出しました。長田や他のところでは、火事で生きながら焼死された方も多いと聞いております。
 

<<淀川区に住むことに>>


 妻が大阪に勤務していたんです。東淀川下新庄の二階建ての公団住宅の仮設住宅へ1年ほど住みまして、それから、今の淀川区へ転居しました。この年大阪市立盲学校へ入学しました。盲学校の方でも授業について行けるか心配されました。それというのも、身体障害3級ですので、立ち座りもおぼつかなく、鍼の基本である片手挿管ができなかったんです。学校では劣等生でした。結局6年間盲学校に在籍しました。今は、2年前から鍼灸マッサージの仕事は止めています。
 
以上のようなお話をしていただきました。
なお、略歴として以下のようになっています。
 平成14年 三療開業
 平成15年 NPO設立
 平成16年 介護関係開業
と変遷し、現在大視協理事もしながらの活動の原動力になっています。
 
参照1 眼球振盪(眼振)とは自分の意思とは関係なく眼球が動く現象(不随意    運動)で、生理的なものと病的なものがあります。
    生理的な眼振 : 正常でも、極度の緊張状態や動く物を固視すると視運            動性眼振が発生する。
    視運動性眼振 : 小脳や脳幹部が正常な場合、電車に乗っていて窓の外            を見ていると視運動性眼振が生じる。小脳や脳幹部の            障害がある場合、この反応が鈍くなる(OKN検査)
    病的な眼振  : 病的眼振の多くは先天性眼振ですが、後天的にも小脳            や脳幹部の障害で起こります。先天眼振は生直後から            見られ、水平性(左右)・垂直性(上下)・振子様            (往復の幅と速度がほぼ等しいもの)・衝動性(一方に            はゆっくり動き、他方には速く動くもの)・回転性な            どに分類されています。
頭を傾けて物を見ている場合、眼振の動きがもっとも弱くなる眼の位置があるので、その方向に頭を傾けて物を見ています。また頭を振る場合は、頭を振ることで視力が下がるのを防いでいます。動揺視(物が揺れて見える)はなく、眼を閉じることで眼振が減少します。
 
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