松本人志の3作目「さや侍」を観ました。1、2作目を観て、気分的に不完全燃焼だったので録画したままにして観なかった「真田丸」を観て気分転換を図ってから観ました。

真田丸は春日信達が真田家の調略、裏切りによって殺害されたところを見ました。森長可も出ていた。この人物は約束を破って人質を皆殺しにしている。その弟は春日一族に対して恨みを持ち続けており、10数年後に見つけ出して一族を磔にし、春日家を滅ぼしている。デタラメな事をした兄弟です。真田丸ではその辺りには触れてはいなかった。ゲームの影響でカッコよく美化されているので、森長可のファンがいるらしい。しかし実際はそこまで格好良くはない。


「さや侍」は、母親の死をきっかけに笑うことができなくなった若君に対し、主人公である勘十郎が若君の笑顔を取り戻そうとする話です。

勘十郎は妻を亡くした後、脱藩して賞金稼ぎに命を狙われます。妻の死以降は帯刀せずに鞘を腰に挿した状態で生きているので、逃げ回るのみ。自分の子どもから「情けないから自害しろ」などと言われる始末。勘十郎は「自分の刀」を捨ててしまった。


この映画も「大日本人」「しんぼる」と同じように笑いを取り入れていた。しかしシリアスさと笑いを同居させているので笑いたくても笑えない。それに笑い自体も面白く作られていないので、笑えるかどうかだけで判断している人達からは酷評されている。


感情というのは、その場の雰囲気に強く影響される。

感情というのは、その場の雰囲気につられて表出されるものです。誰かが笑ったからという理由で、他の人達もつられて笑うことがある。その為、テレビなどは観客やスタッフが笑った音声を流して視聴者を笑わせようとします。

しかし松本人志の映画は笑わせようとしているのかもしれないが、笑える環境が整っていないので笑うことができない。笑っているのは周りのイエスマンの仲間やスタッフくらいではないか。

松本人志は「笑いとは辛いものだ。悲しみの上に成り立っている」などと思っているのか、とにかく常に上から目線です。自分の事を天才と発言しており、一般人に対しては自分より劣る馬鹿だと発言してもいる。

だから以前とは違って、観ている側に反発心があるので笑えない。松本人志をよく知らない人や何も考えていない人、松本人志を尊敬している人ではないと笑うことはできないはずです。

笑えない状況を作ってしまったので、本業のお笑いの方も映画も一部のファンを除けば誰も見向きもしなくなった。


「松本人志は面白い」という臨場感を作り出さないと誰も笑わない。「笑わないといけない」と見ている人達に思わせないと笑わせることができない。それなのに松本人志は逆のことをしている。

北野作品でも北野武の映画はつまらない。と思われていた時は当然評価が低かった。しかしヨーロッパの大御所が高評価を下してから一瞬にして国内でも評価されるようになりました。結局はそういうことなのです。ゴッホですら同様の事が起きている。有名な「ひまわり」でも、「あの著明なゴッホだ」と言われなければ、誰も見向きもしない。

だから松本人志の映画もある日突然、評価される可能性は幾らか残されている。そのような映画は作っていると思います。


勘十郎は脱藩した為に賞金稼ぎに命を狙われるのだが、その賞金稼ぎの3人のやり取りは、人がいかにいい加減な考え方をしているか、そして直ぐに意見を変えるかを表している。他人の意見を聞いて直ぐに自分の考え方を変えたり、周りの状況に合わせているだけの人が世の中には多い。世の中の空気が変われば評価なんて直ぐに変わります。だから仕事にしても、老害と言われている人達は自分達を守る為に自分達が作り上げた臨場感、価値観を変えずに固辞するのです。それが崩れたら無能な人間だと判明してしまう。


勘十郎は捕らえられて若君の前で笑いを披露する羽目になります。30日の業と言って、30日の間に若君を笑わす事が出来なかったら切腹させられるルール。

最初は城内で行なっていた時は全く若君に反応がなかった。しなし1度城外で行なってからは、町人達も見に来るようになり、歓声もドンドン大きくなって行く。それにつられて若君の心も少しずつ揺れ動いて行きます。

しかし感情移入は中々出来なかった。というのも、勘十郎が必死になる姿が描かれているわけではないからです。勘十郎は侍の魂である刀を捨てていて、自分の意思ではなく見張り役の門番の言うがままにやっているだけ。自分の意思がないのです。そもそも松本人志は、この笑いの数々を披露して観客を笑わせようとすらしていないのかもしれません。そもそも笑える内容ではない。


固く閉ざした若君の心は、勘十郎の心象を擬人化したものだと感じました。

勘十郎が披露したネタで石ころが手にあたり若君は手に小さな傷を負う。その夜に勘十郎の娘が若君に言葉を投げかけ、薬草を手渡すことで固く閉ざした若君の心を揺さぶり、傷が癒されていきます。

カステラを若君に渡す為に幾重にも重ねられた襖を次々に破って行く場面は、勘十郎の心の奥底に作られた壁を表しているのだろう。最後は無事にカステラを若君に届ける事が出来ていた。少しも笑わず動かない若君は、この時初めて手を動かしてカステラを受け取っていた。


最終日では大風車に息を吹きかけて風車を回そうとする。荒んだ心に風が吹いて、ついに回り出すが巨大な風車は傾いて倒れそうになる。娘が必死に支えるが支えきれない。勘十郎と娘は共にその場へ倒れ込む。しかし若君を見ると立ち上がっており心を動かすのには十分だった。


勘十郎は若君を笑わせることが出来ず、切腹を言い渡されたが、切腹する前に辞世の句を述べるのが習わし。藩主の心も動かしていたので、藩主が辞世の句を述べた後に勘十郎を救う手筈は整っていた。観客もここで何か面白い一言が聞けるのだと期待して観ている。

しかし勘十郎は一言も発しない。周りが「何でもいいから話せかあと囃し立てても黙ったまま。

勘十郎は目の前にあった小刀を手に持ち、辞世の句を述べる前に切腹する。その時に使用した刀を鞘に収めたところで介錯が入る。死ぬ直前に侍の魂が体内に宿ったことになる。刀を捨てている間は周りの人のなすがままに行動を取っていたが、最期の場面は情けをかけられるくらいなら自死を選ぶという自分の意思が入り込む。


クライマックスは、勘十郎が亡くなる前に托鉢僧に渡しておいた娘に宛てた手紙を托鉢僧が読むシーンだった。これは子連れ狼のオマージュ。手紙を読んでいる途中から少しずつメロディアスになって最後は熱唱するが、ここで急に感動して泣けと言われても無理がある。さや侍と、その娘とのやり取りも子連れ狼からヒントを得たのだろう。


因みに毎日ネタを披露する話は千夜一夜物語(アラビアンナイト)にも存在する。この話は妻に不倫されたショックから一夜を過ごした女性を王が殺害していく話ですが、王の残虐な行為を止める為にシェラザードが王の元へ行き、毎夜楽しめる物語を語って殺害を止める話です。

「30日の業」を言い渡した藩主を王と見立てるなら、勘十郎はシェラザードにあたる。若君は勘十郎の心もそのもの。


勘十郎が亡くなって、若君と娘が墓参りに訪れます。そこに勘十郎も現れて、生きている時に若君の前で披露した「首が戻った」というネタを2人の前で再度披露します。ここで若君は初めて笑顔を見せて勘十郎の娘と楽しそうにはしゃぎ回る。といったシーンで終わっていた。勘十郎の意思は巡り巡って......。


個人的には「さや侍」は良い映画だと思いました。松本人志は結婚して、子どもが産まれたからか心境の変化が大きいのかもしれません。前2作とは様相が全く異なっていた。背伸びをしておらず肩の力が抜けている。

刀どころか鞘すら捨てた人達は、さや侍を観て何を思うのだろうか。きっと何も思いはしないのだろう。伝え方も上手くはないというのもあるが、松本人志の伝えたいことは、きっと伝わらないと思います。