裁判員裁判で初めて死刑判決です。


先日の無期懲役の判決について、今後の日本の司法のあり方を心配しましたが、死刑制度はまだ存在するというのが確認された。死刑が出るべきときに死刑が出たのは、不謹慎かもしれないが、いいことだと思う。


しかしである。

そしたら、なんで先日、2人殺害の被告人は無期懲役の判決だったのか?しかもどうして検察が控訴しなかったのかも納得ができないのは変わらない。


裁判員は無作為に、偶然選ばれた6人である。この中に「死刑!」とどうしても言えない人たちが過半数を占める可能性は今後も絶対ある。


そのとき、無期懲役になり、そしてまた検察が尊重してしまえば、死刑判決が出る裁判と無期懲役判決が出る裁判は、「運」次第ということになる。これは、今後の懸念ということではなく、今、まさにそうなっているのだ。


これは、法的安定性が損なわれている。今まさにグラグラの状態だ。


こうならないように少し配慮はされていた。法務省職員はアメリカに派遣されアメリカの陪審制度を学んだのだが、日本の制度は陪審制度にはしなかった。

一番の違いは、アメリカなどの陪審制度はプロの裁判官は合議しない。素人陪審員だけ12人(最低6人)が合議して量刑を決める。

これは、日本では、あんまりだということで、3人の裁判官が加わり、裁判長が司会をして6人の裁判員とともに合議して決めるようにした。もともと、日本じゃ陪審制は無理だという考えがあり、それが根底にあるんだから、裁判員制にしたってだめなものはだめだ。

はじめ、経済界が言い始めた。欧米白人国家様たちが陪審制というものをおやりになっている。そういう日本の拝金主義クラブが白人至上主義に隷属的なことを言い、行政の一連の司法改革パフォーマンスと重なってできあがっていったものだ。もともと日本の伝統、文化、気質にあっていないものだったというのは、分かってたものだし、今だって一刻も早くやめるべきなのだ。

アメリカでは憲法で「陪審制度」を国民に保障している。住民の行くえは住民が決めるという国民気質である。

日本人は、素人はいい加減なことを言わず、よく知った人が決めるべきだという考えだ。おいらなんかは、小さいときから裁判官は閻魔様の代理人のような気がする。アメリカでは、単なる裁判の司会進行役でしかない。

閻魔様の代理に素人(バカ)が、ぐだぐだ抜かすんじゃないという思いがすごくするのだ。もっとも今の裁判官は閻魔様の代理人に当たらないからしっかりしてほしいと思うのだが、それは別の話である。


今回、裁判員制度による判決が、死刑となったのであるが、裁判長は最後に被告人に「控訴してください」と、変なことを言っている。

これまた、裁判員の死刑を宣告したという精神的重み、あるいは責任というものから逃れさせるという結果である。

先日の無期懲役判決は、裁判員たちがどうしても死刑判決から逃げようとした結果であり、今回は、裁判長が、死刑判決をしても、控訴審があるから大丈夫ですよと気遣った結果である。

死刑判決がどたことは良かったことかもしれないが、やはり、将来に渡って裁判員制度をちゃんと継続させるにはちょっと日本人には無理がある。法的安全性が保障できない。

そう思ってしかたがない。


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