ふたたび、『日々の、すみか』よりⅡ
テーマ:ブログそこでもっとも美しく、輝いていたとき彼等は消滅する。
あれは、寒い、寒い、朝まだき。
この夏も旅にでる。夏の衣に身を包む。もっとも美しい夏の、夏にふさわしい、
それが流儀だとうそぶき。
「もう、いい。もういいから」放たれた言葉と、残したかったおもい。ときどき
おもい起こすことがあり、そのままうつむく。
横顔がゆれ、これで見納めと、髪を切り。胸に焼きつけ。そのまま背中を向ける。
うつむいて。うずくまって。しゃがみこんで。横顔ゆれ。
もはや、もう。私達は、なにをも、おもいだせなく。いっさいを空の青さに従わ
せる。
それが川でなくてなんだろう。そうまでねがわれた光を遠ざけ、逃れていく。
うなだれて、ふぐりとともにドアを閉める。ことごとく書物を封じる。
来信なし。やがて茘枝(ライチー)が熟れる。
(「夏の衣」)
詩人はいったい誰に対して、どんな口調で「もう、いい。もういいから」と言っているのだろうか?消滅していく彼等なのか?それならば彼らとは誰なのか?「あれ」はと言うのだから過去のある時、「寒い、朝まだき」。ということは震災のあの時なのか?ということがわかる。それなのにどうして夏の旅への叙述に突然なるのか?いやそうではない。夏の衣を着てもなお、おもいは寒い朝なのであるが、それを振り切るように旅に出る、出なければ、叫び出すしかない。それゆえ、旅立つのだが、詩人は引きずるのだ。
次に、冒頭の「もっとも美しく、輝いていたとき・・・」と「もっとも美しい夏」が対比される。一方は過去=冬で、もう一方は現在=夏である。そして、「彼等」が輝いたまさにその瞬間こそが、「もういいから」と助けをあきらめさせ、激しい炎に包まれた時であろう。しかし、「彼等」には「残したかったおもい」が、輝くようにあった、そうに違いない。「もういいから」と言う者を残し、胸に焼きつけて背中を向けたのは、詩人であったのだろうか?いや、そんなことはどうでも良いことだ。なぜなら、詩人はこの詩のなかで背中を向けた者に同一化しようとしているからだ。当事者性に断ち切ろうとしているからだ。その姿勢は「うつむいて」「うずくまって」「しゃがみこんで」「横顔ゆれ」という畳みかけるような、身体をよじるような表現に現れている。これこそまさに痛切というのかもしれない。日常生活で、叫ぶことなどない。私たちは抑制して、またはされて、暮らしている。
また、「もういい、もういいから」を詩人自ら発した言葉として設定しているとすると、この言葉の方向は読者である私に向かって立ち上がってくる。すなわち、もう何も言わないでほしい、聞くだけ聞いた、励まそうとしている貴方や外側の人びとの気持ちはもう十分にわかった。しかし、いくら聞いても・励まされても、それではすくい取れないおもいが必ず澱のように残ってしまう。だからといって貴方の言葉が無意味だとは決して思わない。むしろ、力を与えてくれた。にもかかわらず、「残したおもい」は厳然としてあるのであった。その「おもい」が最後まで聞き入れることを空しくし、途中でシャット・アウトするように言ってしまった。そんな自分を恥じ、すまないと思う。それはちょうど「ことごとく書物を封じる」ようなものだ。愛すべき言葉を住まわせているはずの書物であるにもかからわず、開封することを自らに禁じるように。
ここで、先にあげた徐京植氏の言葉に対峙させるように、詩人も引用し・重ねようとした魯迅の言葉を最後に私は引きたい。
「思うに、希望とは、もともとあるものだともいえぬし、ないものだともいえない。それは地上の道のようなものである。もともと地上には、道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ」(魯迅『故郷』)
空無をラディカルに見つめようとすればするほど、絶望がやってくる。絶望することにのみ真の現実がある。しかし、絶望を深く深く突きつめていくと、絶望も空無に過ぎないことにやがて気づく。気づかないとすれば、それはラディカルさが不足しているからに他ならない。
路上で野垂れ死んだデンマークの哲学者・キェルケゴールの対自的「絶望」。愚鈍な「希望」を笑い飛ばすための絶望。それは絶望に絶望する契機としての絶望に他ならない。すなわち、絶望している自分自身を、結局はそれも虚妄に過ぎないとして笑い飛ばすための絶望である。よって、最後に絶望は破棄される。絶望を完璧に一掃し尽くすために始めなければならない、絶望する行為。絶望してそこに安住することを拒否するために必然的に通過しなければならない行為。
それこそが、愚鈍な「希望」から叡智の「希望」へ至るための方法なのではないか?
突きつめ、通過するとき、迫ってくるのは「他者」である。いや、「他者」が迫らないかぎりにおいて、それはラディカリズムとはならない。そしてまた、他者を残酷なくらいに冷厳に対象化することによってはじめて、自分自身の鋭い対象化も実現可能となる。他者を時には嘲笑することからやってくる自己嘲笑。それは、絶望している自己の嘲笑でもあり、自己憐憫ではなく自己嘲笑でなければならず、絶望の廃棄の契機としての嘲笑でなければならない。






