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2012-02-23 21:35:07

話題の総量

テーマ:ブログ

またモノの話か

またまた食べ物の話か

またまたまた、ひそひそ話か

またまたまたまた、声高な冗談か

そして、また、健康談議か

その合間に何が語られる?

遠くへと視線を移そうとすると

冷笑だけが待っている

同調していって

私はどんどん貧困になっていく

2012-02-19 20:15:39

ふたたび、『日々の、すみか』よりⅡ

テーマ:ブログ

そこでもっとも美しく、輝いていたとき彼等は消滅する。

あれは、寒い、寒い、朝まだき。

この夏も旅にでる。夏の衣に身を包む。もっとも美しい夏の、夏にふさわしい、
それが流儀だとうそぶき。

「もう、いい。もういいから」放たれた言葉と、残したかったおもい。ときどき
おもい起こすことがあり、そのままうつむく。

横顔がゆれ、これで見納めと、髪を切り。胸に焼きつけ。そのまま背中を向ける。
うつむいて。うずくまって。しゃがみこんで。横顔ゆれ。

もはや、もう。私達は、なにをも、おもいだせなく。いっさいを空の青さに従わ
せる。

それが川でなくてなんだろう。そうまでねがわれた光を遠ざけ、逃れていく。

うなだれて、ふぐりとともにドアを閉める。ことごとく書物を封じる。

来信なし。やがて茘枝(ライチー)が熟れる。
                                (「夏の衣」)



 詩人はいったい誰に対して、どんな口調で「もう、いい。もういいから」と言っているのだろうか?消滅していく彼等なのか?それならば彼らとは誰なのか?「あれ」はと言うのだから過去のある時、「寒い、朝まだき」。ということは震災のあの時なのか?ということがわかる。それなのにどうして夏の旅への叙述に突然なるのか?いやそうではない。夏の衣を着てもなお、おもいは寒い朝なのであるが、それを振り切るように旅に出る、出なければ、叫び出すしかない。それゆえ、旅立つのだが、詩人は引きずるのだ。 
 次に、冒頭の「もっとも美しく、輝いていたとき・・・」と「もっとも美しい夏」が対比される。一方は過去=冬で、もう一方は現在=夏である。そして、「彼等」が輝いたまさにその瞬間こそが、「もういいから」と助けをあきらめさせ、激しい炎に包まれた時であろう。しかし、「彼等」には「残したかったおもい」が、輝くようにあった、そうに違いない。「もういいから」と言う者を残し、胸に焼きつけて背中を向けたのは、詩人であったのだろうか?いや、そんなことはどうでも良いことだ。なぜなら、詩人はこの詩のなかで背中を向けた者に同一化しようとしているからだ。当事者性に断ち切ろうとしているからだ。その姿勢は「うつむいて」「うずくまって」「しゃがみこんで」「横顔ゆれ」という畳みかけるような、身体をよじるような表現に現れている。これこそまさに痛切というのかもしれない。日常生活で、叫ぶことなどない。私たちは抑制して、またはされて、暮らしている。
 また、「もういい、もういいから」を詩人自ら発した言葉として設定しているとすると、この言葉の方向は読者である私に向かって立ち上がってくる。すなわち、もう何も言わないでほしい、聞くだけ聞いた、励まそうとしている貴方や外側の人びとの気持ちはもう十分にわかった。しかし、いくら聞いても・励まされても、それではすくい取れないおもいが必ず澱のように残ってしまう。だからといって貴方の言葉が無意味だとは決して思わない。むしろ、力を与えてくれた。にもかかわらず、「残したおもい」は厳然としてあるのであった。その「おもい」が最後まで聞き入れることを空しくし、途中でシャット・アウトするように言ってしまった。そんな自分を恥じ、すまないと思う。それはちょうど「ことごとく書物を封じる」ようなものだ。愛すべき言葉を住まわせているはずの書物であるにもかからわず、開封することを自らに禁じるように。 
 ここで、先にあげた徐京植氏の言葉に対峙させるように、詩人も引用し・重ねようとした魯迅の言葉を最後に私は引きたい。
「思うに、希望とは、もともとあるものだともいえぬし、ないものだともいえない。それは地上の道のようなものである。もともと地上には、道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ」(魯迅『故郷』)
空無をラディカルに見つめようとすればするほど、絶望がやってくる。絶望することにのみ真の現実がある。しかし、絶望を深く深く突きつめていくと、絶望も空無に過ぎないことにやがて気づく。気づかないとすれば、それはラディカルさが不足しているからに他ならない。
 路上で野垂れ死んだデンマークの哲学者・キェルケゴールの対自的「絶望」。愚鈍な「希望」を笑い飛ばすための絶望。それは絶望に絶望する契機としての絶望に他ならない。すなわち、絶望している自分自身を、結局はそれも虚妄に過ぎないとして笑い飛ばすための絶望である。よって、最後に絶望は破棄される。絶望を完璧に一掃し尽くすために始めなければならない、絶望する行為。絶望してそこに安住することを拒否するために必然的に通過しなければならない行為。
 それこそが、愚鈍な「希望」から叡智の「希望」へ至るための方法なのではないか?
突きつめ、通過するとき、迫ってくるのは「他者」である。いや、「他者」が迫らないかぎりにおいて、それはラディカリズムとはならない。そしてまた、他者を残酷なくらいに冷厳に対象化することによってはじめて、自分自身の鋭い対象化も実現可能となる。他者を時には嘲笑することからやってくる自己嘲笑。それは、絶望している自己の嘲笑でもあり、自己憐憫ではなく自己嘲笑でなければならず、絶望の廃棄の契機としての嘲笑でなければならない。

2012-02-18 12:46:48

ふたたび、『日々の、すみか』より

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 ヒロシマの人びとにそうしてしまったように、被災者を単なる〈犠牲者〉として単純化・一括りにしておとしめないこと、抱え込んだ悲しみに含まれてしまう壊れやすい人間性をも露呈しようと真摯にかつ懸命になること。震災後の現実は、黒でも白でもない不分明な動的領域、終わりのない過程としてしか描かれない。その時への接近は矛盾をはらむ作業としてしか現出しない。落ち着くこと、それは堕落に他ならない。まとめてしまうこと、要約してしまうこと、それは嘘を述べるに等しい。要約しきれないこと、要約からあふれ出ていくことをすくい取ろうとしなければならない。もう一度言う、徹底的に矛盾していること、そのありのままを、大岩のようにごろんと言葉の塊として空間に投げ出すことによってしか、真実を述べたことにはならない。


ゆうぐれには部屋をでて、よりそうかたちで歩むのがよい。そうねがう私達のす
きまに、ゆうやみはうすく。

うすく、層となって息づく。「ひと足ごとに」ゆれ惑い「ひと足ごとに」踏み迷
う。いまだ語りおえたことがなかったからと、私達は離れがたく手を握りしめ。

「知っていても、そうでなくとも」私達は散らされる。乞食として、花後のふる
えとして。足裏から「荒野を」伝えられ、おろおろと私達は歩んでいく。

あてさきを失ったものがしずまり、向こう側の、光と分別できないあかるさのな
かに舞いあがる。足の裏からまといつくもの。舞いあがるものは、死者の掲げる
ゆうやみの花火かもしれない。
(「あなうらの死者」)


 詩人は「〈よりそう〉とは言い切らない。「よりそうかたちで」としか言わない。たとえ内実が〈よりそう〉ことであったとしても、詩人は〈よりそう〉とは断言しない。彼の中にあるのは常に〈よりそおうとすること〉への激しい求めだ。だから簡単に〈よりそう〉などと誰にも言って欲しくないのだ。そんな簡単に「よりそう」ための契機を与えるようなアジールは、「いきなり告げられた世界」にはもはや何も残っていない、残っているはずはない。それは「蕾のなかのささやき」を聞いた直後に散ってゆきながら、足裏から伝わってきて身体全体に感じとられるしかない「荒野」なのだ。「まなうら」ではなく、それはあくまで「あなうら」でしか感じ取れない「荒野」なのだ。
 それゆえに、「ゆれ惑い」「踏み迷う」。語り終えようとしてもいつまで経っても「語りおえ」はしない。それでもなお、それだからこそなお、詩人は対話をつづけようとして精一杯の「よりそうかたち」を保持しようとする。


秋になるころ、仮設住宅と呼ばれる一時的な住みかを尋ね歩いた。それは県外に
 まで及んでいた。自治会が結成され「ふれあいセンター」ができたころ、「お陰
 さんでここで死ねます」こうつぶやく老人の言葉が重しになって沈んだ。春先は、
「一日生きれたことが幸せです」たしかに、こうほほえんでいたはずだった。私
 は家路をもっていた。「もう神戸には土地がないからといって、わしらは島流し
 におうたようなもんや」放たれた言葉が追い討ちをかけていった。

 この世は仮の住みかだとするかんがえを私達は知っていた。仮の宿りとおもいな
 し、都市のただなかに隠れ住む人のことも知っていた。そこでいつでもやすらぐ
 ことができた。死は、旅の途上で、ふと訪れる至福であった。

 薄い鉄板に囲まれ、歩けばペコペコ音がする床。「なつかしい家には帰れないの
 で、ここで死にます」家具がひっそり佇む。家具のつくる影は、そこの畳にも、
 窓の向こうの空の切れ端にも染まらなかった。じっと死を待ちながら、小さくな
 って氷りつく。 ( 「死を待つ写真」)


 「この世は仮の住みか」とは、家路をもつ者にのみ与えられ得る言葉だ。仮の住みかから家路へと向かう当てのない人びとにとっての「仮の住みか」は、どんな「至福」をももたらしはしない。
 死はいまや「至福」とすらなる。いや、死しか安らかな終息をもたらさないくらいに、
未来を想像しようとする力が残酷にもそぎ落とされてしまっている。
 「なつかしい家」は土台だけが残り、すべて流され、いったいどこに帰ればいいというのか?仮の住みかであるはずの場所がついの住みかになってしまうこと。いやついの住みかですら到底ないこと。「薄い鉄板に囲まれ、歩けばペコペコ音がする床」の仮設住宅。隣の部屋を歩くのが響き、声も聞こえる。それでも避難所よりは恵まれているとしか被災者は言わない。
 仮設住宅の周りには土がない。アスファルトと砂利だ。「土があって、そこに緑が広がればいいですね」となにげなく言ったら、乾いた声が老人から返ってきた。「砂利道にしないと足音がなかなか聞こえないから、砂利を敷いているのは防犯上だよ」と。「下にシートを敷いているんだよ。なぜだかわかる?簡単に撤去できるようにだよ」と。
 仮の宿とは帰れる家の中で世界を思う時にのみ考え得る、湿った余裕の中にある無常観だ。仮の宿がいっさいに成るとき、その無常観は乾ききる。そして、乾ききった無常観は怒りを超える。超えて思いを微笑みにしている人びとに私は何度となく出会った。
 私はこの一篇を現実を見逃さないための警句として読む。決してペシミスティックな詩ではない。安易な共感を受け付けず、叙情に決して流されないがゆえに、痛打しつつ私を勇気づける。勇気づける、のだ。
 赦し難いものを赦さなければならないというアポリアの経験、そのような不可能性に直面すること。ジャック・デリダはその直面の重要性を強調しているが、「許し難いもの」がもし自分であったならどうなるのか?そして同時に「赦す」のが死者の記憶にくい込まれた自分自身であったならどうなるのか?死の受容と同様に、最も受け入れ難いものをいかに受け入れるかという問題が、自分自身の内面の葛藤としてなされるのなら、それはいったいどんな事態を当事者にもたらしてしまうのか?


風は自ら透き通るまで死者をおし留めていた。それまで死者には、二度目の死を
与えてはならなかった。そんな言葉をおもいだし「ささやか」という形式にのっ
て、花を捧げる影となった。

猿ならば悲鳴のまま啼きもしようが、おろおろとよろぼうばかりの地上の点。残
された地上の染みとして、次の年もそのつぎの年も、そうするに違いなかった。

丘そのものが墓場であった。「ここへ来い、ここまで」記憶の声に誘われ、そこ
にしゃがみつづけた。手にした花の重みも忘れ。
・・・・
「私達こそ残る、亡骸として」ここは始めての、侵すべからざる場所。

花を切り落とす音にまぎれ、帰路につきはじめると、皮膚まで曝される月明かり。
( 「風になるまで」)


 花を捧げるのだが、そのためには「風が透き通るまで」待たねばならない。風が死者のためにそうしてくれるのだから。死者が見えるようになるなら、消えさせないようにするには影として花を捧げなければならない。悲しみを露骨にして啼いてはならない。死者たちが哀しむから。哀しみを露骨にしてしまうように啼いてはならないまま、それでもなお不可避の哀しみを胸にためこんで、深く沈静して死者への思いを花に託そうと「おろおろとよろぼう」のみだ。伝達不可能性の中で「おろおろとよろぼう」のみだ。
 そうこの伝達不可能性という「言語上の怪物」(プリモ・レーヴィ)、今や人間の生活条件に組み込まされた不可欠の構成要素。詩人は「実存的沈黙を覆い隠す多彩のベール」を、たじろぎながらも決然と生者たちから引きはがそうとする。唯一死者のみが「生きてある」のだ。その場所へと私達を「誘う」のだ。哀悼の瞬間に自らの消去・自らの空白化を覚悟することではじめて、生き残った者の葛藤が乗り越えられる。いやしかし、それは他ならない自分の内的行為であるから、乗り越えられるとは決して断定できない。そのほとんど不可能な行為へ向かって、詩人は乗り越えられるかもしれない一つの態度を、言葉を通じて示すのみだ。
 記憶の中の死者は沈黙したままなのであるから葛藤が容易には乗り越えられるはずはないという当たり前のことを絶えず保持しながら、保持するがゆえに、生存者としての詩人は盲者のように手探りでゆっくりと進もうとする。盲者としての自分を、その言葉を差し出すことで、永遠に赦されないかもしれないという不可能性にかすかな光をあてるための言葉を置く。それでも詩人は死者への弔いの満ち足りなさを悔悟させるような「月明かり」に「皮膚まで曝される」のだ。照らされるのではなく、否応なく身体全体が「曝される」のである。
 こうして、自信のなさそのものが、様々な生者と死者である他者の声を取り込もうとする試みのすべてであるようにして、詩人は否定的言葉の中からジレンマを必死で超越しようとする。それが詩人にとっての「喪の仕事」(デリダ)に他ならない。

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