教育格差が未来を奪う(2月15日日本経済新聞)
やまぬ機会不平等の連鎖 
論説副委員長 大島三緒

 
(1)メリトクラシーと呼ぶ考え方がある。
出自に関係なく、能力と努力が到達地位を決めるという近代の基本理念だ。
その「競技場」のひとつが学校にほかならない。
「学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり……」と福沢諭吉が唱えたゆえんである。
 
(2)世の中を支えるそんな原理原則が突き崩されている、という危機感。
親の経済力や家庭環境が学力を左右することへの不安だ。
お茶の水女子大学のチームによる2013年全国学力テストの結果分析は衝撃的である。
親の年収や学歴を合成した指標(家庭の社会経済的背景=SES)と、子どもの学力との関係を追究した。
そこで浮かび上がったのは、SESが高いほど学力も高い、という一般的傾向だけではない。
 
(3)SESは最低だが毎日3時間以上の家庭学習をする子どもがいる。
かたや学習時間はゼロだがSESは最高という子どもがいる。
双方の学力の平均値を比べてみると、小中学校ともに後者の方が上だったのだ。
貧しい家の子はよほど勉強しても金持ちのボンボンに追いつけない。
この大規模調査はそういう現実を示している。
 
(4)親の経済力などが高い子どもほど高学力と高学歴を獲得しやすく、それが次の世代への連鎖を生む状況は否定しがたいのではないか。
人生の出発点で機会不平等が生まれるのを放置していてはメリトクラシーへの信頼が崩れ、社会は急速に活力を失っていくに違いない。
教育とは本来、子どもの能力を伸ばし、努力を促して機会の平等化をはかる装置だ。
なのに実際にはその役割を果たせず格差が固定化され、再生産が準備される現実がある。

(5) 「努力が報われると感じること」が希望という感情をもたらす――。社会学者の山田昌弘氏はかつて話題を呼んだ著書「希望格差社会」で、こう述べた。
以後10年、希望はますますつかみにくくなっているのだ。
教育への公的投資充実や魅力ある公教育づくり、幼児教育の見直しなど文教行政の側から取り組むべきことも山ほどあろう。
 政府の教育再生実行会議でも議論は進んでおり、今後の提言に反映される運びだ。
「誰にでもチャンスがある社会を」と安倍晋三首相は先日の施政方針演説で述べている。
いまこそ、教育格差をめぐる意見を大いに戦わせるときである。
 人々がみな上昇移動の夢を持ち得たのはなぜか。