娘が高校受験をした。三年間の中学生活では定期テストが終わる度に親が感想を書いて提出しなくてはならなかった。戻ってきた点数表の端にある五センチ四方ほどのマスを埋めるのが苦痛だった。ひと言というのが難しい。ある時保護者会の帰り道その事が話題になるとある母親が「私なんかこの間には『びっくりしました』と大きくひと言書いてやったのよ」と言った。どっちにしてもその場が明るくなった事だけは覚えている。
三月に入って窓の外の明るさも少しずつ増してきた。みんな受験が終わってどんな『びっくり』にも同じ三月の陽がっそいでいることだろう。「これでいいのダ」そんな気分だった。けれど「ひっくりより、ぴっくりより、びっくりがいいよね」と娘に言っても「何言ってんの」とちっともびっくりしないのだった。(松島)
主観というものを持っている。その主観を救い出したい。しかし、裏を返せば、客観的努力、いわば政治的努力を放棄しているのかもしれない。
からだを持っていけない。からだを張らずに言葉に住もうとしている。言葉で済ませようとしている。そういうへっぴり腰がぼくの基本姿勢である。弱い。ますます弱い。
山口県宇部市の「往来舎」という古本屋で、竹内敏晴著「ことばが劈かれるとき」(1987年刊、思想の科学社、定価1500円)という本を、題名に惹かれ、700円で買った。「ことばとの出会い」という章の次に「からだとの出会い」という章がある。からだ(こえ)ということを真剣に考えたことがなかったので、衝撃だった。(先田)
今、ショックなこと。
時実新子の「有夫恋」という川柳集を読んだら、思いがけず20ほど川柳らしきものが浮かんだ。
のに、のに、それなのに、去年読んで、いいな、これならおれにも・・と思っていた辻桃子の「俳句って、たのしい」を期待して再読したのに、ひとっつも浮かんでこない!
おれの頭は「太刀魚の龍の如きをバター焼き」(桃子)のようなすっとぼけたユーモアの持ち主がおれそのものだと思っていたのに、おれの心は「だまされた唾(つばき)の味をすぐ忘れ」(新子)のようなほとばしる情念の炎にひかれて舞うのがおれという人間だという。
知らなかった。へえ、そうなのかなあ。(阿蘇)
詩の隣り近所について。
ぼくは詩人の集まる場所にはよく出掛ける方である。
それは詩を書くのが好きだからだ。詩を書いている人達の間に席を置くと何となく心が落ち着くのである。彼らといると何となく仲間意識が湧くから不思議だ。
先日多摩川の土手を歩きながら左手を眺めていたら富士山を見つけた。美しい景色が見えた。この気持ち良さは一体何だろうと土手を何処までも歩き続けた。
詩人だからといってみんな好きなわけではない。嫌いな人も沢山居た。自我を打ち鳴らして大声で話す人も居た。詩も酒と同じで静かにしている人が好きだ。詩の隣り近所は静かな方がいい。
山の眺めは静かでいい。川のせせらぎの音を聞きながら黙って立っているのはとてもいい。(松田)