◆近代の根源的矛盾とその超克――思想課題としての沖縄戦を手がかりとして | 実存的な☯あまりに実存的な

◆近代の根源的矛盾とその超克――思想課題としての沖縄戦を手がかりとして

市場原理主義から派生するあらゆる構造的暴力(例えばファシズムに暴走する安倍政権)

を根絶するためには、近代の根源的矛盾を超克する必要がある。


大多数の人類が近代を超克する視座と射程を内包する思想と行動を獲得し実践し続けなければ

市場原理主義から派生する構造的暴力の歴史は反復し続けるだろう。


以下の論稿は早稲田大学文化構想学部の2013年度春期演習科目『思想課題としての沖縄戦』に提出した

期末レポートである(2013年8月2日提出)。ご参考に資すれば幸いである。



近代の根源的矛盾とその超克――思想課題としての沖縄戦を手がかりとして


本稿は、思想課題としての沖縄戦を手がかりとして、近代の根源的矛盾とその超克の道筋を明らかにする試みである。


構造的に、かつ多面的に、人々を「集団自決」に追い込んだものを明らかにしながらも、最後の決定的な役割を果たしたものを明確にすること、そういう重層的構造的な認識が必要だろう。そうした認識が鍛えられていないところでは、社会をより良く改革する主権者としての主体を作ることなどとてもできないだろう[林(2009)p.235]。


先の参院選で自民党が大勝した。安倍政権は意のままに政策を遂行できる状況となった。歴史修正主義者としてかつて教科書検定に圧力をかけた安倍氏は憲法改定に着手し、米国の属国として戦争ができる日本を取り戻そうとしている。そのことによって利益を享受するのは、米日の軍産複合体だけであり、大多数の国民は切り捨てられるだろう。沖縄は米日の東アジアの軍事拠点として矢面に立たされ続けるだろう。原発再稼働・輸出、TPP参加についても、一握りの利益関係者だけが利益を享受し、大多数の国民は切り捨てられるだろう。


然らば、なぜ斯様な政権が参院選で圧倒的な支持を得ることができたのだろうか。冒頭に引用した文章の「集団自決」の箇所を「米国の属国として戦争ができる日本」「原発再稼働・輸出」「TPP参加」に置き換えてみよう。安倍氏を始めとして大多数の国民は、社会をより良く改革する主権者としての主体として鍛えられていないのだ。


では、なぜ大多数の国民は、社会をより良く改革する主権者としての主体として鍛えられていないのか。鍛える余裕などないからだ。然らば、なぜ鍛える余裕がないのか。ここからは図1 【近代の根源的矛盾とその超克】を参照して頂きたい。大多数の近代人は終わりなき権力闘争、限りなき富の追求、物質的欲望の追求に汲々としているからである。その結果として、市場原理主義とそこから派生する戦争、格差、貧困、環境破壊、食糧・水不足、家庭内暴力、自殺、あらゆる暴力が生まれている。そこには他者を支配・コントロールする支配者と支配者に服従する被支配者による支配―服従の構造が存在する。


『無為の共同体』を著したジャン=リュック・ナンシーは、個が共同体に内在し「絶対的合一」へと至った場合について次のように述べている。「絶対的内在への意志に支配されている諸々の政治的、集団的企ては、死の真理を自らの真理としているのだ。内在や合一的な融合が包みもっている論理は、死に準拠した共同体の自殺の論理以外の何ものでもない」[ナンシー(2001)pp.23-24、屋嘉比(2008)p.57より重引]。その箇所は、共同体と個の合一性の融合によりファシズムへ向かう死の論理を示すものとして、よく引用される箇所である[屋嘉比(2008)p.57]。


ヒトラーが経済政策により、熱狂的な国民の支持を掌握し、ファシズムに突き進んだことは、安倍氏がアベノミクスにより、盲従的な国民の支持を獲得し、ファシズムに転落してゆくことを予見しているようだ。騙す者だけではファシズムは成立しない。騙す者と騙される者とがそろわなければファシズムは成立しないのだ。市場原理主義とそこから派生する戦争、格差、貧困、環境破壊、食糧・水不足、家庭内暴力、自殺、あらゆる暴力の到達点もまた死である。


図1 【近代の根源的矛盾とその超克】





では、なぜ大多数の近代人は終わりなき権力闘争、限りなき富の追求、物質的欲望の追求に汲々としているのか。自分なんかいてもいなくてもいいんだという底なしの不安を隠蔽し逃避し続けるためである。然らば、なぜ大多数の近代人は自分なんかいてもいなくてもいいんだという底なしの不安を抱いているのか。


森羅万象とつながり、響き合い、調和し、無限の愛、悦び、癒し、赦しのエネルギーが流れ、循環する実存体験、すなわち自他同一、自分即宇宙、宇宙即自分、ひとつにして多様、多様にしてひとつ、という実存体験が欠如しているからである。では、なぜ大多数の近代人は実存体験が欠如しているのか。


図1の上向きの細いベクトルに注目して頂きたい。それは宇宙意識である実存[ヤスパース他]から、宇宙意識である集合的無意識[ユング]、無意識[フロイト]を経て、因果律で捉えることができる科学の領域、すなわち宇宙の極めて限られた一部分に過ぎない近代人の意識領域であるエゴへと向かっている。この近代の分節化・分断・孤立・不安・エゴのベクトルを推進したのは人類の分節志向性[シェリング]であるが、暴走させたのは【我想う、故に我在り】[デカルト]という自同律である。


大多数の近代人の実存体験が欠如しているのは、彼らが【我想う、故に我在り】という自同律を盲目的に信仰し、僅か200年の麻薬的新興宗教である近代を暴走させ、因果律で捉えることができる科学の領域、すなわち宇宙の極めて限られた一部分に過ぎない近代人の意識領域であるエゴだけを盲信し、1万年以上蓄積されてきた近代以前の英知・実存・宇宙意識を疎外し排除し、実存とは逆方向の分節化・分断・孤立・不安・エゴのベクトルに突き進んできたからである。


問題は、その疎外され排除された証言を含めて、証言や語りについてわたしたちがどう考えるかにあるのではなかろうか[保苅(2004)、屋嘉比(2008)p.48より重引]。
実証的証言という枠組みからこぼれ落ちていくような多くの語りを包含するような、そんな沖縄戦の語りの総合的な見直しがもとめられているのではないか[新城(1999)pp.60-61、屋嘉比(2008)p.48より重引]。


沖縄戦の証言という言説時空にも近代は跳梁跋扈し、実証的証言の枠組みから疎外され排除されこぼれ落ちていく英知が存在している。


然らば、実存体験はどうすれば創出できるのだろうか。


図1の下向きの太いベクトルに注目して頂きたい。それは因果律で捉えることができる科学の領域、すなわち宇宙の極めて限られた一部分に過ぎない近代人の意識領域であるエゴから宇宙意識である無意識、集合的無意識を経て、宇宙意識である実存へと向かっている。この実存に向かうベクトルを推進し、実存体験を創出するのは、人類の無限志向性[シェリング]であり、実存的交わり(実存的コミュニケーション)[ヤスパース]であり、愛の闘争[ヤスパース]であり、【我想う、故に我在り】という近代を暴走させてきた自同律を止揚する【君在り、故に我在り】[サティシュ・クマール]という相互律であり、実存的コーチング[藤村賢志]である。この実存に向かうベクトルは森羅万象とつながり、響き合い、調和し、無限の愛、悦び、癒し、赦しのエネルギーが流れ、循環するベクトルであり、近代の根源的矛盾を超克するベクトルである。


図1の下向きの太いベクトルが存在[ヤスパース他]に到達した点に注目して頂きたい。この到達点こそが実存である。森羅万象はこの1点で存在と接触し、存在の地平に於いて、実存に到達している他の森羅万象とつながり、響き合い、調和し、無限の愛、悦び、癒し、赦しのエネルギーを流し、循環することができる。これこそが実存体験である。存在とは、因果律では捉えられない、悟性では認識できない、分節化されていない世界である。


然らば、実存体験を創出する実存的コミュニケーションとはどのようなものだろうか。端的に言えば、それは、他者の本来の姿・実存を呼び覚ますコミュニケーションである。それは、論理的、思考的ではなく、直観的、五感的、感情的なコミュニケーションである。例えば沖縄戦の「集団自決」の状況下にその実例を見ることができる。


すでに妻と子供三人は亡くなっており、父と息子一人が壕の中に残っていた。そこにも米軍が侵攻してきたので、壕からさらに海岸地域へ避難しアダン林に隠れていたが砲撃されたため、持っていた鍬で息子に手を掛け「自決」するつもりだったが、息子が「お父さん、死なない」と泣き叫んだので我にかえり、米兵に投降して捕虜となった[糸満市史編集委員会(1998)pp.900-902、屋嘉比(2008)p.60より重引]。


米軍が攻撃してきた避難所のウンザガーラから十四、五人の住民とともに逃れた中村八重子さんも、「集団自決」のための道具を持ってなかったため、みんなで崖から一切に飛び降りようと話がまとまりかけたとき、偶然にも木々に実っていたヤマモモを食べたさい酸っぱい果汁で我にかえり、生き延びた。そのことを、後に「死からの解放の味だった」と回想している[謝花(2008)p.27,39,48,61,pp.177-178、屋嘉比(2008)pp.60-61より重引]。


限界状況[ヤスパース]の下で共同体の大多数の顔面に強固に食い込んだ合一の色眼鏡・視点を引き剥がし、本来の姿・実存を呼び覚まし、異なる視点の獲得と選択を可能にしたのは、「特異存在の発するコミュニケーション」[屋嘉比(2008)p.58] であり、「「集団自決」に至る状況を脱臼し問い質して亀裂を入れた「コミュニケーション」としての「他者の声」」[屋嘉比(2008)p.58] であり、実存的コミュニケーションである。それは、論理的、思考的ではなく、直観的、五感的、感情的なコミュニケーションである。限界状況下に於いて実存的コミュニケーションが契機となり、異なる視点の獲得・選択による実存的変容が生じたのである。


特に、ヤマモモの例は示唆に富んでいる。ヤマモモを食べたさいの酸っぱい果汁が中村八重子さんの本来の姿・実存を呼び覚ましている。「他者の声」の射程は人類だけでなく、森羅万象に拡大深化している。森羅万象とつながり、響き合い、調和し、無限の愛、悦び、癒し、赦しのエネルギーを流し、循環する実存体験は、近代以前の人類、先住民族(ネイティブ・アメリカン、イヌイット、ナティーボ、アボリジニ、アイヌ、オキナワ等々)が共有してきた英知である。森羅万象との実存的コミュニケーションは、実存体験に到達する無限の可能性を示している。


ひとつ確認しておきたいのは、実存的コミュニケーションは沖縄戦の「集団自決」の状況下の様な限界状況だけに生まれるものではなく、どのような状況下であっても創出を試みることができるということである。その具体的な方法については字数制限があるため本稿では紹介できない。


ここで、近代の根源的矛盾を超克する道筋に戻ろう。図1を再び見て頂きたい。全人類は実存的コミュニケーションによって実存を体験する。森羅万象とつながり、響き合い、調和し、無限の愛、悦び、癒し、赦しのエネルギーを流し、循環する実存体験をすることにより、自分なんかいてもいなくてもいいんだという底なしの不安は消滅する。底なしの不安が消滅するので、不安を隠蔽し逃避し続けるために、終わりなき権力闘争、限りなき富の追求、物質的欲望の追求、あらゆる支配・コントロール闘争に駆り立てられ依存し続ける必要がなくなる。


ここからは、図1だけでなく、本稿で展開した道筋もカバーしよう。①終わりなき権力闘争、限りなき富の追求、物質的欲望の追求、あらゆる支配・コントロール闘争がなくなるので、②人生の主導権を取り戻し、人生に余裕ができ、社会をより良く改革する主権者としての主体が鍛えられる。①②より、市場原理主義とそこから派生する戦争、格差、貧困、環境破壊、食糧・水不足、家庭内暴力、自殺、あらゆる暴力がこの惑星から根絶する。以上が近代の根源的矛盾を超克する道筋である。


本稿で明らかにした近代の根源的矛盾を超克する道筋を実証すべく、筆者は実存的コミュニケーションを実践し続ける所存である。


社会をより良く改革する主権者としての主体を鍛えるためには、例えば次のようなことを試みることができるだろう。


自分の位置から沖縄戦を絶えず再審する点にこそ、体験者と次世代との共同作業による、記憶の「継承」の可能性があるといえる。そのような困難で地道な作業を積み重ねていくことが、戦後世代の非体験者が沖縄戦や「集団自決」を自分自身の問題として、「当事者性」を拡張しようとする試みへとつなげていく方途であると確信している[屋嘉比(2008)p.68]。



【引用・参照文献】


林博史 (2009) 『沖縄戦 強制された「集団自決」』 吉川弘文館
ナンシー、ジャン=リュック (2001) 西谷修・安原伸一郎訳 『無為の共同体』 以文社
屋嘉比収 (2008) 「戦後世代が沖縄戦の当事者となる試み」、 屋嘉比収編 『友軍とガマ―沖縄戦の記憶』 社会評論社
保苅実 (2004) 『ラディカル・オーラル・ヒストリー』 御茶の水書房
新城郁夫 (1999) 「見直される沖縄戦の語りのために」、 『けーし風』 第二五号
糸満市史編集委員会編 (1998) 『糸満市史』 戦時資料下巻 資料編7
謝花直美 (2008) 『証言 沖縄「集団自決」―慶良間諸島で何が起きたか』 岩波書店