アンダーグラウンド /村上 春樹 | 生みだす人になる(旧:watoのメモ帳)

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定期的に呑みにつれて行って頂いている、
以前僕が担当させて頂いていたクライアントのご担当者さんに
「中里さんは絶対読んだ方がいいですよ」
と酒の席でおススメされて購入。

これは本当に読んで良かった。

村上春樹が何を1Q84で描きたかったのか、少し理解出来た気がする。

アンダーグラウンド (講談社文庫)/村上 春樹
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1995年3月20日の朝、東京の地下でほんとうに何が起こったのか。同年1月の阪神大震災につづいて日本中を震撼させたオウム真理教団による地下鉄サリン事件。この事件を境に日本人はどこへ行こうとしているのか、62人の関係者にインタビューを重ね、村上春樹が真相に迫るノンフィクション書き下ろし。



まず、これは小説ではなくインタビュー集であるという事で
村上春樹の著作の中でも非常に異質。

しかも、サリン事件の被害者。


TVや雑誌ごしに見る同事件とここに描かれている「リアルさ」は
本当に同じ事件を描いているのか?と疑問に思うほど違うものでした。


40~50代の世代の方々が人生で大きな事件というと

日本赤軍だったり、学生闘争だったりするとしたら、

僕の場合は下記の三つになります。

①911事件
②地下鉄サリン事件
③酒鬼薔薇聖斗事件


①はいわずもがなかもしれないですが、
③に関しては僕と犯人の年が一緒だったため、
「酒鬼薔薇聖斗世代」と言われる事があり、考える所が多かったためです。



それほど自分に取って大きな事件だったにも関わらず、
僕はサリン事件について深く内容を知らずに生きてきたように思います。


マスコミ報道では被害者は亡くなった方々についてばかりフォーカスされ、
体調を崩した方々にどういった被害があったのか知りませんでした。

サリンを吸うと、コリンエストラーゼ値が下がるため縮瞳が始まり、
一般的には見えている世界が暗くなったり、瞳孔が著しく小さくなります。

また、吐き気を催したり、
長期的に物覚えが悪くなったりするそう。


また、被害の内容以外にも当日の警察の動きや、
一般の人が助け合って生還した例、なども知りませんでしたし、
何よりもこの本が素晴らしいと思う内容の1つの
「1人1人の人生がどういうものであって、
その中でどのようにあのカタストロフィに出会ってしまったのか」
という部分は当然ながら知らなかった。


この本はインタビューの前に必ず村上春樹による
そのインタビューされる人への洞察があり、
インタビューの内容もただ事件に関する内容だけではなく、
家族構成であったりどういう考えで今まで生きてきたかなど、
個人の生活に関わる記述が多いです。

それによって、より濃密な1人1人の「リアル」を感じさせる文章となっています。


と、前置きが長くなりましたが、僕がこの本の中で一番感じたイメージというのは、

生と死の境界線が突然現れた時の人々の動き

でした。

ビジュアル的なイメージでいえば、
人工的に三途の河を作り出しているようなイメージです。


人によっては、その三途の河から遠ざかっていたために、
実はすごくライトな印象をお持ちの方もいたり(もちろん表に出ているその部分がすべてではないでしょうが)、
重傷を負いオウムに対して強い憎しみを持っている人もいる。


その気持ちの揺れ動きの幅の広さというのが、
実際に起こった事の事実であるにも関わらず、
マスコミの報道などでは当然分かりませんでした。



戦争などのない平和な地域に
現実的にあの大量に負傷者が出る事件というのはまずないわけで、
その突然的に生まれた死を呼ぶ現象というのは物理的な生と死の境界線とは違い、
概念的にはとても幅がありグラデーションのように様々な色合いのあるものだと感じました。
(また阪神大震災などと違い、自然災害ではなく人工的に行われたという点も重要)


フラットに本全体の感想を書くと上記のようになりますが、
僕は美容室でこの本を読んでいた時に重傷者のご家族の方のインタビューを読み、
その悲しみの深さにボロボロと涙が出て止まりませんでした。

そのように1人1人の方々に重く深い人生があり、その質量としては膨大なものを
簡単に呑みこんでしまったこの事件は何がゆえに起こったのか。


狂気の犯罪集団というだけでなく、
村上春樹氏が最後に記述されているようなシステムというもののを深く洞察する努力も必要だと感じました。

システムについての本ではないですが、『「しきり」の文化論』 という本の中に下記のような
記述があります。

「わたしたちは、すべてのものを「みんなのもの」にしてしまう事はなかなか出来ない。そのような社会システムはきわめて成り立ちにくいのである。(中略)年金をはじめ、さまざまな共同組合的な共有が行われている。さまざまなものを共有しようとしたソヴィエトをはじめとする社会主義が崩壊したのは、官僚主義化した集団社会が、その外部の資本主義的システムのグローバル化に対応できなくなってしまったことが大きい。また、国家権力を私物化し独裁化する傾向になりがちだった事も大きい。」


僕たちは「わたし」というものを作りそれを保護しようとする。
しかし一方で「みんなのもの」を作り共有し、集団の壁の中で守られたいという気持ちもある。

万が一その「わたし」という固有のものを投げだし、
共有化された「わたし」だけになった場合、
どういう現象が起こるのか?

共有化された組織は外部への対応が弱くなります。
変遷の中で官僚化されていくためです。
オウムの中であってもそれは同様な動きとなっていたと思う。

また、共有化された上で正しい道へ導ける指導者であれば良いですが、
組織外にあるコミュニティーを破壊する組織であった場合、
非常に悲惨な事件へと展開します。

これは宗教にかかわらず、会社であっても一緒であり、
コミュニティーという名のつくものにおいてはすべてに関わる命題なように感じます。



また、ここで「しきり」の文化論について書いたのは、
上記内容以外にも生と死のしきりや、個と個のしきりなど、
サリン事件には考える事の多い境界線(しきり)が多かったように感じるからです。


長々と書いてしまいましたが、サリン事件を知る日本人であれば、
是非一度目を通して欲しい本でした。