チェルノブイリ原発事故当時、私は親の仕事の都合で日本海側のとある町に住んでいた。当時はまだ子供だったので「今年は海で泳がない方が良い」などの噂になんでだろう、と疑問に感じる程度だったのであるが、チェルノブイリ同規模の、見方によってはそれ以上の事故が自国内で起きたという事態については今でも悪夢としか言いようが無い。


3月11日から数ヶ月が経過し、東北での地震について何を感じたか、今どのように思っているかはようやく自分の気持ちをまとめられるようになったが、原発事故に対しては未だに何を感じ、どう考えているかまとめることが出来ない。憤り、怒り、不安、恐怖。様々な感情が自分の中でせめぎあい、今一番強く残っているのは諦めの気持ちである。


3月11日は以前も書いた通り、職場で夜を過ごした。幸いライフラインには問題が無かったので、子供を保育園に預けている等の理由により帰らざるを得ない社員と会社待機組を整理し、食料を手配し、社内にいなかった社員の安否を確認し一息吐いた後は通常通り仕事を再開。決算期で仕事は山積だったし、夜22時過ぎに午後3時に中断した業務を再開して何とかノルマをこなせた時には既に朝8時を過ぎていた。


そんな訳で夜を徹して仕事をしていたので、ネットやテレビでチラチラとニュースを見ていたものの、福島第一原子力発電所の惨事を知ったのは12日に帰宅し一眠りした後のこと。既に1号機水素爆発後のことで、ニュースを見てあまりの事態の大きさにただただ唖然とするしか無かった。


14日の月曜以降は通常通り仕事があったのではあるが、家の外に出るのは恐ろしくて仕方無かった。イソジンを買い占めるような事はしなかったけれど、放射性物質が通常のマスクやコートで防げるような代物では無いことを知る程度の知識はあったし、万全を期すのであれば外出時に来ていた服は都度処分するにこしたことは無いのも重々承知していたけれど、経済的にもそこまでする余裕も無く。マスクの下にミニタオル押し込み、通勤で往復する以外は極力外に出ることを控えることしか出来なかった。


福島は本来東北電力管轄下であり、関東で福島原発で発電された電気をこれまで何の疑問も抱かずに使ってきた都民である自分が、事故を起こした東電やなんら対策を打って来なかった国を責める権利があるのかどうかは定かではない。ただ、家から外に足を踏み出すことにすら恐怖を感じた日々に受けた精神的な苦痛は過去には全く経験したことの無い類のものだった。福島原発付近に住み避難を強いられたり、原発事故後、国が規定する以上の放射性物質が検出された農家の方のような直接的な被害を受けていないのは確かだけれども、1号機から4号機まで立て続けに起こす爆発を目の当たりにし、将来的に白血病や癌のリスクが高まった場合の保障も無いままに働き続けなければならない環境を呪ったことは確かである。


広島・長崎で被爆者には『原爆手帳』が配られて医療費免除されるという措置が取られていたはずだが、3月12日以降、仕事やその他のやむを得ない事情で外出した関東圏全員に対し将来的なリスクから身を守るために『原発手帳』を配るだけの予算が無いことは経済に疎い自分でも容易に想像が付く。そもそも、10年後に自分と同世代の発癌リスクが爆発的に増えたとしても、年齢的なもの等と理由を付けられて関係性を否定されることは目に見えている。


第二次世界大戦を舞台にした子供向けの本で『戦艦武蔵の最後』という本があった。子供の頃に読んだ本だが、今でも強烈に脳裏に残っている台詞がある。『養豚場の豚でも殺される際は必死に抵抗する。俺達は抵抗もせずに死地に向かわなければならない。俺達は豚以下の存在だ』戦地に赴く兵士と、一般市民を比較するのは間違っていることなのかも知れない。ただ、実際にどの程度の被爆するか全く情報が無いままで日常生活を送らざるを得ない状態に、『豚以下だ』という憤りを感じたのは紛れも無い事実である。


『ただちに』影響が無いと力説してきた政治家や専門家の言葉、二転三転するテレビやネットの情報。何も信じられない状況下で何をどうすれば良いのかうろたえるだけの状態で時は流れた。地震から8ヶ月以上経過し、先ほども書いた通り感じているのはただただ諦めの気持ちである。地震大国に原発建設を黙認してきた国民に全く非が無い訳では無い。福島の原発事故は世界規模で影響を及ぼし、広い視点で見れば日本人は一人残らず加害者なのかも知れない。だから、自分自身が3月以降に手に触れ、口にしたものが原因で何らかのリスクを負っても仕方の無いことなのだ、と。


原発事故はまだ収束した訳では無い。実際に関東圏では未だに3月の事故の影響と思われる放射性物質が次々と検出されている。それにも関わらず脱原発に向けての具体的な施策は何一つ決まっていないように見受けられる。50年後、100年後に日本が存続することを考えて、国民一人一人が何をするべきか考えなければいけないと痛切に感じる。私自身、何も動けてはいないのだけれども。