第146回芥川賞を曲解する~1 | フラジャイル~こわれもの

第146回芥川賞を曲解する~1

思い起こされるのは、第146回芥川賞の受賞会見です。


話題になったので、テレビでみなさんも目にされたと思いますが、「賞をもらっといてやる」「都知事と都民のためにもらっといてやる」と、受賞作家・田中慎弥は、大見栄を切りました。

「気の小さい選考委員が腰を抜かして、都政を混乱させてはまずいから」と。


そして、テレビ受けをねらったのか、「とっとと会見を終わろう」と、ファンサービスとも思えるような発言を重ねて、比較的地味な芥川賞が世間で注目を浴びることとなりました。


マーケティング戦略として、コストパフォーマンスは最高だったと思います。

ほおっておいても各テレビ局がとりあげて何度も何度も、このシーンを放映してくれたのですから。


私もテレビを見たひとりです。


先日、文藝春秋3月号に、受賞作が掲載されました。

さっそく読みました。

数ページを読み進めたところで、たいくつになりました。

真ん中まで読んだところで睡魔に襲われました。

しかし我慢して最後まで読み切りました。


読後感。

不快のひとことです。気持ち悪かった。おもしろくもなんともなかった。

地方都市の場末の、どぶ川の周辺の小さな世界の日常を、へどが出るような文章と文体で書きすすめ、最後に父親が殺される、というおぞましい話です。


産みの母親の手(義手なんですが)によって父親を殺す、というお話。

エディプスコンプレックスですね。

殺したのは息子ではなく母親というのが、少しバリエーションですが。


この、ギリシャ悲劇以来の普遍のテーマ、父親殺しを、下関と思われる地方都市のどぶ川の、その周囲数百メートルくらいの範囲の出来事として書いたものですが、それによって著者は何をいいたかったのか。

何のために書いたのか。


まさかエディプスコンプレックスを、日本の地方都市バージョンのつもりで書いたのではないでしょう。


作家というのは、ケースバイケースですが、特別な目的や意図もなしに、心の底からわき上がった想念を文字として書き留めていくこともあるとすれば、著者は、古来から書き尽くされているエディプスコンプレックスの1バージョンを、無意識のうちに、読者が生理的に拒絶反応が出るような汚ならしいスタイルで書き散らしたもの、というように、この「共食い」という作品を見てしまうのです。


その象徴が、繰り返し描かれる「どぶ川」です。


あらゆるゴミやがらくた、腐臭を放つ正体不明の浮遊物が沈殿するどぶ川に、釣り糸を垂れて、そこに集まってきたウナギを釣り、それを父親がうまそうに食す、という、なんとも気持ちの悪くなる情景です。


1976年(昭和51年)、村上龍が、「限りなく透明に近いブルー」という作品で第75回芥川賞を受賞しましたが、その読後感と近いものがあります。

読んでいて、へどが出そうになった、というのが共通しています。


ところで、著者の田中慎弥は、この汚さを書きたかったのでしょうか。


人間は汚い存在であるなどとは今さら言ってもらわなくても結構なんですが。


どぶ川周辺にうごめく人々の汚さ。


So What?です。

で、それがどうしたの? ですね。


マイルスデイビスのSo Whatは、すてきな曲ですが。