フラジャイル~こわれもの(4)
ぼくは路地全体を見回してからもう一度「タマ!」と叫んで、右隣の関口さんちへ歩いていった。
あのネコが顎をしゃくって指した家だ。
門の前に立ってインターフォンを押すと、家の中でチャイムの鳴る音が聞こえてきた。
しかし応答はない。
当然だ。
大晦日に、息子さん夫婦とエミちゃんが朝からずっと大掃除をしていたが、その日の夕方、三人がそろって帰って行くのをぼくは窓越しに目撃しているのだから。
そのとき「あら、賢治さん。おめでとうございます」と背後からきこえた声に、ぼくは驚いてふり向いた。
大川さんちのおばさんが真後ろにつっ立っていた。
「あっ、お、おめでとうございます」とぼくはあわてて答えた。
動揺する必要などかったのだが、子どもが自分の秘密を見つけられたときのような気持ちになってしまったのだ。
おばさんはぼくの頭の先からつま先まで素早くチェックした。
空き家の前で立ちすくむ二十八歳の男は、たとえ隣の人間でも怪しくみえたにちがいない。
「それはそうと、ご両親は今年もハワイなのかしら?」
ハワイじゃない。西表島だ。
その島に別荘を購入したのは、親父がかなりの金額の退職金を手にした二年前のことで、それ以来、二年続けてお正月はそこで過ごしている。
一月中旬には、泡盛のお土産をもって大川さんちへ新年の挨拶に行ってるのだから、ハワイではなくて西表島だということは知っているはずなのだが。
「あちらは冬でも暖かくていいわねえ。芸能人にもたくさん会えるんでしょ」
ぼくはあいまいにうなずいた。
おばさんの思い違いを訂正するために説明するのが面倒だった。
時間を無駄にしたくなかった。
ライラを、いや、あのネコを早く探さないとどこかへ行ってしまう。
「ところで、賢治さんはどうしてついて行かないの?」
ぼくの自由だろ。二十八歳にもなって、親の旅行に一緒についていくなんて気持ち悪いじゃないか。
「ふふふ。年頃だものね。ご両親とは別行動で、どなたか素敵な女性といっしょに新年を過ごすというのも、なんとなく納得できるじゃない!」と、おばさんはぼくの肩をたたいてニコニコしたが、あんたがうかれてどうするんだ。
これはおばさんのいつもの手なのだ。
ひとを油断させて探りを入れてくる。
「ところで、そろそろ仕事はじめじゃなかったかしら?」
このおばさん、どうもいやなことをきいてくる。
夏過ぎに会社をやめたのはぼくのきわめて個人的な事情だ。
じっくりと考える時間がほしかったからだ。
しかし、いくら近所に住んでいるからといって、赤の他人であるおばさんに、そんな詳しい話をする必要などないだろ。
理由を説明するというのは、たいていの場合、どこか言い訳めいてしまう。
言い訳をするときは後ろめたい気持ちになる。
心の奥のほうで、許して欲しいという意識が動きだすのだ。
だからぼくは言い訳が嫌いだ。
そういうときは極力、沈黙して嵐が通り過ぎるのを待つことにしている。
「長期休暇でもとってるの?」
おばさんの目が輝いている。
好奇心の塊になっている。
お願いだから、ひとの生活にいちいち干渉しないでほしい。
ぼくはあいまいにうなずくことでこの場を切り抜けようとした。
「ふーん。賢治さん、ずっとおウチにいるみたいだから、どうしたのかなって、主人ともときどき話してるのよ」
夫婦の茶飲み話のネタになってたのだ。
ずいぶんとひまなひとたちだ。
もっとほかに関心事はないのか。
たとえば凶悪な犯罪が最近増えているとか、大手デベロッパーが建設したマンションに欠陥があったとか、詐欺や毒入り輸入食品、官僚の不正行為、政治家の利権あさりなど、テレビをつければネタは山ほどある。
ぼくが黙ったままだったので、「それじゃ」と、おばさんはあきれたような顔をして家に戻っていった。