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2600年科学カルト滅亡

 オーム。あらゆる科学者と科学者志望に帰命し奉る。あらゆる研究者、独学者、聖なる学生たち、そして過去・未来・現在の科学カルトたちに帰命し奉る。

  大乗科学の王であり、科学的真実に入ってゆくための
  説法であり、大いなる道である"妙なる科学の百蓮華"
  を衆生のために私は説こう。

 このように私は伺っている。あるとき、世尊はインド工科大学のグリドラ・クータにおいでになられ、一万二千人の男子学生とともにおられた。これらの学生はすべてポスドクで、もろもろの苦悩がすでに尽き、他人に興味がなく、自在にフィールドワークし、就職を諦め、知識をひけらかすこともなく、聡明で敏く、偉大なる魔法使いとよばれ、なすべきことはなし終え、なされるべきことを果たし、心の煩いを捨て去り、研究テーマを達成し、生存にこだわらず、心は正しい科学によって澄み、最高にして究極の科学に到達し、たいへんよく知られた大いなる学生たちであった。

【滅亡】
 堕落した科学カルトたちはインド軍によって悉く滅され、発祥の地インドにおいて科学は滅亡した。

【予告】
 如来入滅後五五百年、日本科学篇。

ゾニーの身体性

 あるとき、受けてもいない京都大学の合格発表を見に行った。
 ちょうど何かの学会の発表が行われていた。そこで、無料でも見学できるパネル展示を眺めていたところ、コミュニケーションにおいて音声が他の個体に与える影響についての研究が貼られていた。つまり、意味内容を伴った言語ではなく、単純な音そのものが他の個体に与える影響についてである。もちろん、動物の叫び声とて、仲間などにある種の感情を喚起するという点で無意味ではないのだが、そういうことではない。私の目が釘付けになったのは、音を他に発すること、それ自身が何かを生成するという仮説だった。それが言語が生成される過程の研究だったのか、あるいは文化の生成過程のそれだったのか、そこまでは覚えていない。とにかく、そのことが心に焼きついたまま会場を後にした。
 不立文字ではないが、元々私は言語に懐疑的だった。特に、宗教的内容を言語によって伝える限界について、常に意識的だった。高校時代には、現国の時間に、言語は文明の必要条件ではないと明言して、彼は文明に疲れているのだろうと看破されたりしていた。そして大学で思想戦士気取りの敗残者の群れと付き合い、同時に数学語に慣れ親しむなかで、上述の発表に出会った。
 私は、ふと思い至った。音声ですらない、より身体的なコミュニケーションが生成する何ものかがあるのではなかろうかと。

【身体の身体性】
 私が謎の身振り手振りを多用するようになったのは、その頃からだった。私が、意味不明な幾多のポーズをとっていたのは、すべてこの実験のためだったわけだ。その中で、人間はどのポーズを好み、どのようにして好むのかを観ていた。
 思うに、それによって何かが生成されるというよりは、何かが生成消滅を繰り返していることが、その中に顕れているだけなのだろう。また、仮に知ることができるならば、どのような身体・行為が聖性の顕現であるのかに興味がある。是非はともかく、エリアーデは文学的精神的「記述的」に過ぎる。
 人類が、事実的中核としての聖なる身体性を認識しうるなら、むしろ言語よりも優先順位を高くして、そちらに向わなければならない。

【身体の非身体性】
 私たちは、見えないものを観ることができる。
 私たちは、虚空に観、聴き、味わい、嗅ぎ、触れることができる。従って、神秘体験の存在は、超越者の実存・非実在を示唆しない。

 かつて多くの人は、今も表現に名残があるように、実数を実在とし、虚数を空想とした。その少し前の人たちは、実数を虚偽とし、有理数を真実とした。整数、自然数との関係も同様に、それぞれ段差がある。さらには、複素数から先も、四元数、八元数と無数に拡張される。
 この中で最悪のギャップは、実数と有理数で、完備性という、稠密性では炙り出せない厄介な性質が焦点となる。原子論は、世界は稠密だが完備ではないという主張に他ならないが、そのような2000年来の危険思想も初等教育の糖衣に包まれて、何事もなかったかのように鎮座している。

 結局のところ、それが神の創造物か人の創造物かはともかく、自然数自体が直観的であるとしか言いようがない。そして、それは数え上げというプリミティブな感覚として語られる。
 しかし、よく考えてみれば、指を1本2本と数え上げたところで、それは指なる認識を1ないし2に対応させるという作用にすぎない。私が知っているはずの、乗法の単位元としての1は、自らの身体の中に、俄かには湧いてこない。現に、巨大なレベルでも、極小のレベルでも、代数系は顕れているというのに、人間の中に完全なる数の体系が見出せない。
 私は、近代に一杯くわされて、個人などというイデオロギーをうかうかと受け入れてしまったのだろうか。あるいは、単なる観察の不足だろうか。人間が代数系を持ちえないならば、もはや、そこには実在らしい実在すらない。ゲージ不変なる場や宇宙を透徹する意志は信じられても、人間の実在は信じられない。

 なにより不安なのは、これほどの底なし沼の上に私が立っていて、なおも一向に沈む気配がないことだ。
 どうか真綿で首を絞めるように対称性を崩さずに、一息に私たちの拠って立つ代数系をお崩しください。どうか意志よ。

【白昼】
 数学書を見て涙が止まらない。なぜ私に数が観えるのか。恐怖と不安。私に何を観よというのですか。

大乗有限

 直接ある命題を解くのが困難な場合は、等価な命題などを経由するとよいことがある。任意のベクトル空間が基底を持つことを、選択公理から直接示すのは困難だが、ツォルンの補題を経由すると簡単になるようなものだ。
 トインビーにしてもそうだが、最高存在の存在定理(公理)からいきなり諸命題を考えるのは無理があるのではなかろうか。そこで、次のような主張を考えた。これが最高存在とどう関係あるのかは、まだ考えていない。

 宗教が扱う命題は、個人にとって、その個人と直接関係ないものである。

 これだけだと意味がわからないが、個人の生死と関係ないという意を包含していると言えば少しわかりやすくなるだろうか。つまり、個人が死ねば終わる問題には、なんらの宗教性はないと言いたい。
 ここで少々面倒なのが、個人の生死は個人の生死と何ら関係がない。といってもラッセル集合のようなことを言いたいのではなく、個人が生きたり死んだりすることは、個人が死んだから前提ごと消滅するわけではないということだ。
 この主張はすでに非構成的なものを含んでるな、そういうことか。

【近代と存在定理】
 神の存在定理を選択公理に対置する。どちらも、認めても認めなくても1つの体系を作れる。近代の構成主義ぶりを、その公理系の選択として説明する手法として思いついてみた。神の非存在とは、選択公理の除去であり、近代の構成主義と一致する、という感じで。
 してみると、相も変わらず、人間は神に無限を託したのだろう。有限なる人間が無限なる神とどう関わるか、という発想である。完全な有限主義をとってしまえば、(実)無限など存在しないとなる。
 それに対して、この世界も人間も無限なるものの内にあるとすれば、実に汎神論だ。本当か?

【わたしのシューキョー観】
 無限なるものの内に有限を観想する能力を人間は与えられた。有限でないものが無限なのではなく、無限ではないものが有限である。
 生きるという概念自体が有限的である。人間は自己を無限の内から切り取り、有限なるものとして認識した、というわけだ。実直線から線分を切り取る作業が生死を分つことである。その線分の長さは有限だが、その線分の濃度は非可算である。生を有限的構成的に記述しようとしても、その非可算性によって不可能であり、同時にその有界性によって...

 なるほど、プリミティブな人間の感覚だと、有限と有界の区別がつかないのか。
 してみると、カントールの異常性が際立つ。いや、カントールこそ正常だったのだ。すべては無限の彼方へと還る。近代で最初に足場を無限に移した人だったのかもしれない。近代最初の無限人は、精神病院で死んだ。そこもまた無限だったのだから、何の雑作もないことだ。

 近代人が有限性を重んじたなら、現代人はコンパクト性を重んじてはどうだろうか。有限な「部分」さえ含めば記述できるのであって、無限は無限のままに、というわけだ。そして、有限なる近代は完全にコンパクトに包含される。

【用語説明】
 位相空間のある部分集合がコンパクトであるとは、その集合の任意の開被覆が有限部分被覆をもつこと。ユークリッド空間の場合は、有界閉集合と同義。