ゾニーの身体性 | Study Hard

ゾニーの身体性

 あるとき、受けてもいない京都大学の合格発表を見に行った。
 ちょうど何かの学会の発表が行われていた。そこで、無料でも見学できるパネル展示を眺めていたところ、コミュニケーションにおいて音声が他の個体に与える影響についての研究が貼られていた。つまり、意味内容を伴った言語ではなく、単純な音そのものが他の個体に与える影響についてである。もちろん、動物の叫び声とて、仲間などにある種の感情を喚起するという点で無意味ではないのだが、そういうことではない。私の目が釘付けになったのは、音を他に発すること、それ自身が何かを生成するという仮説だった。それが言語が生成される過程の研究だったのか、あるいは文化の生成過程のそれだったのか、そこまでは覚えていない。とにかく、そのことが心に焼きついたまま会場を後にした。
 不立文字ではないが、元々私は言語に懐疑的だった。特に、宗教的内容を言語によって伝える限界について、常に意識的だった。高校時代には、現国の時間に、言語は文明の必要条件ではないと明言して、彼は文明に疲れているのだろうと看破されたりしていた。そして大学で思想戦士気取りの敗残者の群れと付き合い、同時に数学語に慣れ親しむなかで、上述の発表に出会った。
 私は、ふと思い至った。音声ですらない、より身体的なコミュニケーションが生成する何ものかがあるのではなかろうかと。

【身体の身体性】
 私が謎の身振り手振りを多用するようになったのは、その頃からだった。私が、意味不明な幾多のポーズをとっていたのは、すべてこの実験のためだったわけだ。その中で、人間はどのポーズを好み、どのようにして好むのかを観ていた。
 思うに、それによって何かが生成されるというよりは、何かが生成消滅を繰り返していることが、その中に顕れているだけなのだろう。また、仮に知ることができるならば、どのような身体・行為が聖性の顕現であるのかに興味がある。是非はともかく、エリアーデは文学的精神的「記述的」に過ぎる。
 人類が、事実的中核としての聖なる身体性を認識しうるなら、むしろ言語よりも優先順位を高くして、そちらに向わなければならない。

【身体の非身体性】
 私たちは、見えないものを観ることができる。
 私たちは、虚空に観、聴き、味わい、嗅ぎ、触れることができる。従って、神秘体験の存在は、超越者の実存・非実在を示唆しない。

 かつて多くの人は、今も表現に名残があるように、実数を実在とし、虚数を空想とした。その少し前の人たちは、実数を虚偽とし、有理数を真実とした。整数、自然数との関係も同様に、それぞれ段差がある。さらには、複素数から先も、四元数、八元数と無数に拡張される。
 この中で最悪のギャップは、実数と有理数で、完備性という、稠密性では炙り出せない厄介な性質が焦点となる。原子論は、世界は稠密だが完備ではないという主張に他ならないが、そのような2000年来の危険思想も初等教育の糖衣に包まれて、何事もなかったかのように鎮座している。

 結局のところ、それが神の創造物か人の創造物かはともかく、自然数自体が直観的であるとしか言いようがない。そして、それは数え上げというプリミティブな感覚として語られる。
 しかし、よく考えてみれば、指を1本2本と数え上げたところで、それは指なる認識を1ないし2に対応させるという作用にすぎない。私が知っているはずの、乗法の単位元としての1は、自らの身体の中に、俄かには湧いてこない。現に、巨大なレベルでも、極小のレベルでも、代数系は顕れているというのに、人間の中に完全なる数の体系が見出せない。
 私は、近代に一杯くわされて、個人などというイデオロギーをうかうかと受け入れてしまったのだろうか。あるいは、単なる観察の不足だろうか。人間が代数系を持ちえないならば、もはや、そこには実在らしい実在すらない。ゲージ不変なる場や宇宙を透徹する意志は信じられても、人間の実在は信じられない。

 なにより不安なのは、これほどの底なし沼の上に私が立っていて、なおも一向に沈む気配がないことだ。
 どうか真綿で首を絞めるように対称性を崩さずに、一息に私たちの拠って立つ代数系をお崩しください。どうか意志よ。

【白昼】
 数学書を見て涙が止まらない。なぜ私に数が観えるのか。恐怖と不安。私に何を観よというのですか。