心の時代の宗教弾圧
【大学の排他主義】
どうやら日本中の大学が「特定団体」の排除に乗り出したのは確実のようだ。そのやり方が、例によって、漠然とした表現で網をかけて狙い撃ちにするという下策である。
大学は第一義として学問の場なのだから、それに馴染まない集団を排除するのは必ずしも不自然ではない。しかし、その場合、第一に排除されるべきは一般のサークルである。
【長生きニーメラー】
書記長程度の知能だと、ニーメラーの警句を真に受けて、「自分の番」が来る前に行動すべきだと考えるだろう。このような態度を盲動主義と呼ぶ。
真に考えるべきは、なぜ自分の番は来ないのか、である。大半の人間にとっては、どれほど激しい弾圧も対岸の火事に過ぎない。それが国家的イベントであり(むしろ国家規模であるからこそ)社会に強い影響を及ぼしたとしても、直接その業火に焼かれた人は期待するほどの率にはなりえない。WW2において最前線に立ったことのある兵士の割合を考えてみればよい。
一方、ボンヘッファーは、行動して死んだ。
死んだのは、行動したボンヘッファーであり、総統である。生き延びて好き勝手妄言を吐いているのはニーメラーの方だ。ニーメラーの番はついに来なかった。それが事実ではないだろうか。
【Fog of Society】
弾圧などという扇情的な単語を使うから本質が見えない。すべてはある種の統制に過ぎない。そして、統制と自由の問題は、善と悪の問題から峻別されなければならない。
弾圧される対象、つまり統制される対象は、観念や概念ではなく現実の対象である。ここに統制の問題がある。参謀本部の地図の上には、抽象化された指揮の中枢が表記してあるが、戦場の霧(Fog of War)を持ち出すまでもなく、それが意味するところはしばしば曖昧で、不確かでさえある。
局地的に見れば、一般の社会は戦場ほど混乱してはいないが、人間の認識の限界について考慮するならば、不用意に対象を広げるほどに、抽象化された対象と現実の(統制可能な)対象の乖離は甚だしくなることが期待される。
【ミッション:はてな村爆発】
弾圧、つまり統制の悪とは、統制そのものにあるのではない。何を統制しているのか分からなくなったとき、統制は悪を為す。
例えば、はてなムラの白痴どもを皆殺しにしようと考えたとする。すると、書記長は殺しても何の問題もないだろう。書記長とやり取りしてるような連中も大方死んで構わない(俺もか)。それはそうと、はてなムラの連中とは誰だろうか。絶対の村民など存在するのだろうか。まさか、はてな利用者を全員村民認定するわけにもいかない。
下らないダイアリーの群れを慎重に読み、更新を継続しているか、更生の見込みはあるかなどを判断した上で殺していけば間違いは少ないだろう。しかし、それはとても大変で非効率なやり方であり、粗にして漏らさずにはほど遠い。
一方で、キーワードで皆殺しにすればとても効率的だ。「はてサ」が連呼しているようなキーワードを書いたら即処刑。これでも間違いはそうないだろう。しかし、これをやると、その中に極僅かに混ざっている優れた人物まで殺してしまうことになる。それ以前に、優れた人物とは誰なのかさっぱりわからないが。
さらには、B宮先生を挙げるまでもなく、高度に発達した妄言はお笑いと区別がつかない。お笑いという概念を認めないと、自然言語に対する深刻な制限をかける気がしてならない。
加えて、最近つとに言われることに、評価者の問題がある。
評価者を遥かに超える、あるいは超える可能性がある人を評価できるのだろうか。人文系の学部生が数理科学研究棟から送られてきた博論を審査できるかについて考えてみれば、その困難さはすぐにわかる。人間はすべてに通じることなどできないのだから、同じ人間が評価を続ければどこかでこのような問題を起こす。
【ノンポリ学生の定義】
ノンポリ学生とは、「弾圧の順番が回ってこない」学生のことだ。
なぜ彼らには順番が回ってこないのか、簡単である。統制の対象となるような行動をしないからだ。
ある行動が統制の対象となり、別の行動はならない。ここに理由らしい理由など必要ない。
なぜ統制されるか。その理由は胸に手を当てて考えればいい。それ以外に理解する方法はない。
下半身を露出して放歌高吟しながら歩いてはいけない絶対の理由などない。日本では、それが繁華街だと捕まるが、樹海なら問題ない。一方で、統制に理由を求める行為は統制の対象となりうる。なぜならば、その行為は常識に対する攻撃になりうるからだ。
「100年前には, このような関数は常識に対する侮辱だと考えられていたことでしょう.
(ポアンカレ(1899)『ワイエルシュトラスの数学的著作』, p5)」
(E.ハイラー/G.ヴァンナー(1997)『解析教程 下』, p109(Ⅲ.9.1 連続だが, どこでも微分できない関数))
【ニーメラー上人殉死和讃】
ニーメラーの警句が悪質なのは、いざ軽挙妄動にも「行動」に及んでしまえば、当然のこととして統制されることである。一方で、何もしなければ、「いつかは統制されるが今回は何もなかった」となる。随分と都合のよいことだ。
日蓮上人ならこれを法難と呼ぶわけだが、少なからぬ人は宗教団体がこういった理屈を使うことは強く非難するのに、その他の集団が同じような妄言を吐いても何とも思わないらしい。それどころか正当な論だとでも思っている節がある。
ニーメラーの警句を認めるなら、日蓮上人の小理屈も認めるべきだ。もちろん、顕正会が同じようなことを言っても認めるべきだし、そういった理屈を使って勧誘を繰り返しても苦情など出すべきでない。
日本の宗教法人において苦情相談の7割を占める顕正会の、その苦情が生まれるメカニズムの核心。それがニーメラーの警句の正体である。
【学部が駒寮を閉鎖したとき】
学部が駒寮を閉鎖したとき
私は黙っていた
実際、私は駒寮に住んでいなかったから
学生が原理研を排除したとき
私は黙っていた
実際、私は原理研でなかったから
教授会が軍事研究を禁止したとき
私は黙っていた
実際、私は軍事研究をしていなかったから
私が彼らを呼びつけたとき
もう誰もいなかった
抗議できるような何者も
【心の時代】
宗教の救いは内心の問題であり、宗教には精神的按摩の機能がある。
こういった俗説は、宗教の一面を表しているのは確かだろう。少なくとも、そのようなことがあると認めないわけにはいかない。
それでは、現代宗教の核心は心の問題ではないと主張したとき、どのような対応が待っているだろうか。
これが、現代宗教に対する弾圧の実態である。具体的に何が起こっているのかは、上の文章を読み、宗教について深く考察すれば理解されることだろう。
昨日は本当に辛かった。どうして私がこのような仕打ちを受けねばならないのか。
高い見識からの批判も、素人考えからの非難も、単純な暴力も、私を屈服させるには至らない。ただ、善意と不勉強の相互作用は私の精神を蝕み、studyと反studyの絶対矛盾的自己同一として死への欲動が体現せしめられる。
どうやら日本中の大学が「特定団体」の排除に乗り出したのは確実のようだ。そのやり方が、例によって、漠然とした表現で網をかけて狙い撃ちにするという下策である。
大学は第一義として学問の場なのだから、それに馴染まない集団を排除するのは必ずしも不自然ではない。しかし、その場合、第一に排除されるべきは一般のサークルである。
【長生きニーメラー】
書記長程度の知能だと、ニーメラーの警句を真に受けて、「自分の番」が来る前に行動すべきだと考えるだろう。このような態度を盲動主義と呼ぶ。
真に考えるべきは、なぜ自分の番は来ないのか、である。大半の人間にとっては、どれほど激しい弾圧も対岸の火事に過ぎない。それが国家的イベントであり(むしろ国家規模であるからこそ)社会に強い影響を及ぼしたとしても、直接その業火に焼かれた人は期待するほどの率にはなりえない。WW2において最前線に立ったことのある兵士の割合を考えてみればよい。
一方、ボンヘッファーは、行動して死んだ。
死んだのは、行動したボンヘッファーであり、総統である。生き延びて好き勝手妄言を吐いているのはニーメラーの方だ。ニーメラーの番はついに来なかった。それが事実ではないだろうか。
【Fog of Society】
弾圧などという扇情的な単語を使うから本質が見えない。すべてはある種の統制に過ぎない。そして、統制と自由の問題は、善と悪の問題から峻別されなければならない。
弾圧される対象、つまり統制される対象は、観念や概念ではなく現実の対象である。ここに統制の問題がある。参謀本部の地図の上には、抽象化された指揮の中枢が表記してあるが、戦場の霧(Fog of War)を持ち出すまでもなく、それが意味するところはしばしば曖昧で、不確かでさえある。
局地的に見れば、一般の社会は戦場ほど混乱してはいないが、人間の認識の限界について考慮するならば、不用意に対象を広げるほどに、抽象化された対象と現実の(統制可能な)対象の乖離は甚だしくなることが期待される。
【ミッション:はてな村爆発】
弾圧、つまり統制の悪とは、統制そのものにあるのではない。何を統制しているのか分からなくなったとき、統制は悪を為す。
例えば、はてなムラの白痴どもを皆殺しにしようと考えたとする。すると、書記長は殺しても何の問題もないだろう。書記長とやり取りしてるような連中も大方死んで構わない(俺もか)。それはそうと、はてなムラの連中とは誰だろうか。絶対の村民など存在するのだろうか。まさか、はてな利用者を全員村民認定するわけにもいかない。
下らないダイアリーの群れを慎重に読み、更新を継続しているか、更生の見込みはあるかなどを判断した上で殺していけば間違いは少ないだろう。しかし、それはとても大変で非効率なやり方であり、粗にして漏らさずにはほど遠い。
一方で、キーワードで皆殺しにすればとても効率的だ。「はてサ」が連呼しているようなキーワードを書いたら即処刑。これでも間違いはそうないだろう。しかし、これをやると、その中に極僅かに混ざっている優れた人物まで殺してしまうことになる。それ以前に、優れた人物とは誰なのかさっぱりわからないが。
さらには、B宮先生を挙げるまでもなく、高度に発達した妄言はお笑いと区別がつかない。お笑いという概念を認めないと、自然言語に対する深刻な制限をかける気がしてならない。
加えて、最近つとに言われることに、評価者の問題がある。
評価者を遥かに超える、あるいは超える可能性がある人を評価できるのだろうか。人文系の学部生が数理科学研究棟から送られてきた博論を審査できるかについて考えてみれば、その困難さはすぐにわかる。人間はすべてに通じることなどできないのだから、同じ人間が評価を続ければどこかでこのような問題を起こす。
【ノンポリ学生の定義】
ノンポリ学生とは、「弾圧の順番が回ってこない」学生のことだ。
なぜ彼らには順番が回ってこないのか、簡単である。統制の対象となるような行動をしないからだ。
ある行動が統制の対象となり、別の行動はならない。ここに理由らしい理由など必要ない。
なぜ統制されるか。その理由は胸に手を当てて考えればいい。それ以外に理解する方法はない。
下半身を露出して放歌高吟しながら歩いてはいけない絶対の理由などない。日本では、それが繁華街だと捕まるが、樹海なら問題ない。一方で、統制に理由を求める行為は統制の対象となりうる。なぜならば、その行為は常識に対する攻撃になりうるからだ。
「100年前には, このような関数は常識に対する侮辱だと考えられていたことでしょう.
(ポアンカレ(1899)『ワイエルシュトラスの数学的著作』, p5)」
(E.ハイラー/G.ヴァンナー(1997)『解析教程 下』, p109(Ⅲ.9.1 連続だが, どこでも微分できない関数))
【ニーメラー上人殉死和讃】
ニーメラーの警句が悪質なのは、いざ軽挙妄動にも「行動」に及んでしまえば、当然のこととして統制されることである。一方で、何もしなければ、「いつかは統制されるが今回は何もなかった」となる。随分と都合のよいことだ。
日蓮上人ならこれを法難と呼ぶわけだが、少なからぬ人は宗教団体がこういった理屈を使うことは強く非難するのに、その他の集団が同じような妄言を吐いても何とも思わないらしい。それどころか正当な論だとでも思っている節がある。
ニーメラーの警句を認めるなら、日蓮上人の小理屈も認めるべきだ。もちろん、顕正会が同じようなことを言っても認めるべきだし、そういった理屈を使って勧誘を繰り返しても苦情など出すべきでない。
日本の宗教法人において苦情相談の7割を占める顕正会の、その苦情が生まれるメカニズムの核心。それがニーメラーの警句の正体である。
【学部が駒寮を閉鎖したとき】
学部が駒寮を閉鎖したとき
私は黙っていた
実際、私は駒寮に住んでいなかったから
学生が原理研を排除したとき
私は黙っていた
実際、私は原理研でなかったから
教授会が軍事研究を禁止したとき
私は黙っていた
実際、私は軍事研究をしていなかったから
私が彼らを呼びつけたとき
もう誰もいなかった
抗議できるような何者も
【心の時代】
宗教の救いは内心の問題であり、宗教には精神的按摩の機能がある。
こういった俗説は、宗教の一面を表しているのは確かだろう。少なくとも、そのようなことがあると認めないわけにはいかない。
それでは、現代宗教の核心は心の問題ではないと主張したとき、どのような対応が待っているだろうか。
これが、現代宗教に対する弾圧の実態である。具体的に何が起こっているのかは、上の文章を読み、宗教について深く考察すれば理解されることだろう。
昨日は本当に辛かった。どうして私がこのような仕打ちを受けねばならないのか。
高い見識からの批判も、素人考えからの非難も、単純な暴力も、私を屈服させるには至らない。ただ、善意と不勉強の相互作用は私の精神を蝕み、studyと反studyの絶対矛盾的自己同一として死への欲動が体現せしめられる。