同様に、
言葉を紡ぐ文章は、読み触りのいいものがいい
言葉は人を生かしも殺しもする
言葉に対して異様に敏感な私は、やはり言葉を大切に使う人を信頼する
その上で更に、言葉を尽くしてくれる心を見た時なんかは、私は圧倒的な幸福を感じる
言葉の上手い下手ではない
言葉そのものはもちろん、言葉にできない裏側にあるその「心」が、私に幸福をもたらすのである
例えば、
私が窓を開けっぱなしにするのが好きで、誰かは窓を閉めっぱなしにするのが好きだとしよう
その誰かの、閉めてほしいな、という思いが募ったとき
「窓を閉めてね」
と言われれば、私は、
窓を開けてるの、しんどかったかな
閉めることでどう心地よくなるのか試したい
開けることがどうストレスになるのかを考えたい
と考える
そのことは言葉にしないかもしれないが、私は少なからず「想像」をしようとは思う
そして、「窓を閉めてね」だけで私がどれほど想像してしまう人間かを知ってくれていることに、私は絆を感じ、その関係が築けていることに猛烈な感動をする
しかし、最初に伝わる言葉が、
「窓、閉められないの?」
だとすれば、ああこの人は吐き出したいだけなのだ、と受け止め、私は相手から「想像」する力を感じることが不可能になるし、同時に、この人は私が「想像」することを知らないのだと思う
「親切」
最近はこの言葉が好きだ
私が現在書き下ろしている小説のテーマの一つは「親切」だ
無様でいい
みっともなくていい
自分らしく、なんてどうでもいい
真似事だってかまわない
親切になる努力をしている人の美しさを、描いていきたい
と思ったら、私の書籍には、とっくにそんなこと書いてあったと思い出した
そして、とっくにそんなことを受け止め、言葉を尽くしてくれていた人たちの言霊を、あらためて細胞に染み込ませようと思ったら、私はもれなく、心があったまった
言葉で魔法をかけましょう
それは、きっと解けないから
明日も良き一日を
ごきげんよう


