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百首歌に
うたたねの朝けの袖にかはるなりならすあふぎの秋の初風
式子内親王
新古今和歌集秋上308
【現代語訳】
うたた寝をする朝明けの我が袖に
吹いてくる風の音も、
変わったように聞こえる。
夏のあいだ使い馴らしていた扇に
鳴らしていた風が
今日異なって感じられるのは、
……いま受けているのは、そうか。
扇の風ではなく秋の初風か。
(訳:梶間和歌)
【本歌、参考歌、本説、語釈】
常恐秋節至 涼風奪炎熱
棄捐篋笥中 恩情中道絶
「玉台新詠」巻一 班婕妤 怨詩一首
おほかたの秋来るからに身に近くならす扇の風ぞ変はれる
後拾遺和歌集秋上237 藤原為頼
ならすあふぎ:
「馴らす」と「鳴らす」を掛ける。
秋:下敷きとなった漢詩より
「飽き」を響かせる。
初風:その季節に最初に吹く風で、
主に秋のそれを表す。
式子内親王は
53歳で亡くなりますが、
52歳の年の正治二年(1200年)に
後鳥羽院の召したのが
「正治初度百首」とか
「後鳥羽院初度百首」とか呼ばれる
百首歌。
内親王の最晩年ですね。
「うたたねの」は
そのうちの一首です。
百首歌「秋」部の冒頭の歌ですね。
ほかの女性による讒言のために
寵を奪われた班婕妤の漢詩は……
この歌の“本説”だ、と言うと
うがちすぎでしょうね。
「うたたねの」を読む時に
当然の知識として
班婕妤の漢詩も背景に響かせて
受け止めるといいですね、
ぐらいのものではないかしら。
班婕妤が背景にあるならば
当然受け取るべき掛詞
「秋=飽き」も、
同じ理由で、この歌においては
積極的に受け取るべき概念
ではなく
“ほのかに感じ取る”ぐらいで
よいのだと思います。
訳には入れませんでしたが、
「秋の扇」というと、どうしても
班婕妤が浮かびますからね。
夏のあいだは重宝されたが
秋になると用がなくなり飽きられて
打ち捨てられる扇、のような私、
という形で。
「ならす」は
「馴らす」「鳴らす」の掛詞ですが、
班婕妤の秋の扇を考えると、
“扇=作中主体の女性”ですから、
「使い馴らした」のほかに
「あなたと馴れ親しんだ」
というニュアンスも
ほのかに響くでしょう。
その「鳴らす」音が変わった、
「馴らす」気配が変わった、
秋になったからだ、
私も飽きられたのだ、
ということで
「秋の訪れを
風の音や風情の変化で知る」
という発想は
和歌において伝統的なものです。
参考歌に挙げた為頼の歌のほか、
秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる
古今和歌集秋上169 藤原敏行
など、有名なものが
いくらでもありますね。
うたたねの朝けの袖にかはるなりならすあふぎの秋の初風