とは世界史を紐解けば、寧ろ常識だった事が判る。新疆での民族反乱と中国当局の鎮圧に対する国際世論の非難は小さくないのだが、凡そ先導を切った欧米諸国自身が、長く表題の歴史を経て来て漸く、今に辿り着いた。


別に前世紀のドイツ第三帝国の専売特許ではない。当時の欧州でも、広く深く民族差別の思想は根付いていた。その独裁者はその社会的底流に基調としてあった思想を、模倣し拡大し実践したに過ぎない。

 自由の国アメリカにしても、リンカーンやキング牧師が英雄となる必要があったのだ。その生まれながらの属性が差別の対象となる。中国が問題なのは、今世紀に置いても同様の思想を引き続いて行っている事だろう。


中国の呼称は、東夷、西戎、南蛮、北狄の劣等民族に囲まれた中華の意だ。中華の礼楽を学び重んじる事によって初めて文明人足り得る。


文革期には封建思想として糾弾の対象となった孔子にしても、今日では歴史的遺産として重んじられているのは、ひとつにはこの思想を共有する事がある。尤も、文革期から同様の思想は実践されていたのだが、当時の中国はスターリンの民族思想とその政策を採用していた。偉大なるロシアとして祖国を護り抜いたスターリンは鋼鉄の意志を以って、民族問題に対応した。人民民主主義の名の下で、諸民族の独立と自由は無論、特殊性は封建的残滓として駆逐され、形だけの文化遺産として残された。先の北京五輪での各民族衣装を纏った子供達は、実は、悉く中華民族だったという欺瞞は、どちらにしても今日まで受け継がれている。


凡そ差別の対象となる者が自らの主体性を獲得するには、社会的な形での隷属ならその属性の儘で差別の対象たる事を免れる、地理的な形での従属なら自らの独立と自由を獲得する事だろう。


逆に言えば、支配する側にとっては、同化し恭順する者には二流市民としての恩恵、同化や恭順を拒み反抗する者には死を以っての制裁しかない。


「多民族の友愛に基づく」ソ連邦は前世紀に崩壊した。だが、「我々の家」(ソルジェニツィーン)とも呼ぶべき、思想・信条を共有する共同体としての国家の理念は実現するには未だ至っていない。


中国ではいかなる落し所があるのか、改革開放路線と資本主義化は中華思想を寧ろ国家統合の拠り所としている。中華化こそがその答えなのだ。

凡そ独立は物理的に無理である以上、いかに資本主義な意味での等質化と懐柔・扶助政策を図るかが中国当局にとって鍵となる。

 

結局、いかに少数民族を組み込むかしかないのだ。それが平和裏か否かだけの問題となるだろう。