凡そこの日がこのように語られる事はそうないだろうし、語る必要もまた無いだろう。所詮は遠い過去の話だ。だが、今尚、彼の名を知らない者は未だにそうはいまい。彼が産まれたのは120年前の今日だ。彼自身がドイツの最高権力者であった期間は、1933年の1月30日から45年の4月30日までだ。その期間は今尚、語られている事に比べれば12年余に過ぎない。

とは言うものの、この時代は激動の時代であった、第一次世界大戦のドイツ敗戦により、所謂、第二帝国は崩壊し、ワイマール共和制が樹立された。同国史上初の共和制だ。とは言うものの、同国は先の敗戦で領土の割譲と巨額な賠償金を課せられた。同国経済は破綻した。確かに多大な市民的自由は獲得出来たかもしれない。しかし、それは多大な犠牲と屈辱と引き換えであった。それでも、同国とて国外からの資本流入により、経済的安定を得る事が出来た。しかし、それは1929年の世界金融恐慌によって一挙に破綻した。昨年の国際金融危機同様、後発国は資金引き上げの対象となった。同国の経済的政治的混乱に大して、国民が広く託した勢力がある。一つは共産党、もう一つは右翼だ。その右翼の中で議会政党として台頭したのが、国家社会主義ドイツ労働者党NSDAP、通称、ナチスである。同党は党首であるカリスマ指導者、Adolf Hitlerに率いられて勢力を伸張した。元々は第一次世界大戦敗戦後、ドイツ国防軍が政治的復権を図る為に、在野の右翼勢力を養っており、彼もその弁舌の才を買われて、軍から派遣され当初は弱小政党に過ぎなかった党首の座を奪った。とは言うものの当初は国内も社会的安定を回復しており、同党にとって長らく不遇の時代が続いた。彼の演説の攻撃対象は、第一次世界大戦後の戦後体制を確立したヴェルサイユ講和条約による世界体制であり、ドイツ経済を蹂躙した国際ユダヤ資本だ。尤も、それがユダヤ人に対する攻撃に摩り替わってしまったのは、欧州に根強くあった反ユダヤ主義に便乗したものであったが。同党が議会第一党にまで躍進し、既成の政権勢力も同党との連立により、延命を図ろうとして発足したのがこのHitlerを首班とする内閣樹立だ。とは言うものの、閣内でも圧倒的な少数勢力であった同党は、大衆運動と数々の策謀を通じて、同国の独裁体制を握るに至る(記事にした《地獄に堕ちた勇者ども》にもその一端を伺う事が出来る)。共産主義者や自由主義者等や、ユダヤ人を初めとする少数民族などの追放や投獄、やがては殺戮が相次いだのだが、一般国民に対しては、完全雇用と豊かで安定した生活を約束し、実現させて行った。多少の市民的自由など犠牲にしても、多くの国民にとっては些細な問題だった(E,フロム《自由からの逃走》という古典的名著がある)。とは言うものの、国内のインフラ整備の拡充は後の戦時体制に備えてのものではあったが。それから同国は国威の復権を課題とするようになる。非武装地帯として先の大戦で戦勝国に押さえられていたラインラントの進駐、オーストリアの併合…軍事力を背景にしたドイツの勢力拡大は留まる事を知らなかった。流石に先の大戦の戦勝国もドイツとの開戦に踏み切らざるを得なかったのがポーランド侵攻である。その後、先の大戦後もラッパロ条約にて秘密軍事協定を結んでいたソ連邦との戦争に突入する事となる。同国はスターリンの徹底した粛清により軍指導部は壊滅的でありドイツに対する連戦連敗が続いた。それでもソ連邦が壊滅されずに済んだのは、英米からの支援も然る事ながら、民族意識の高揚と莫大な自己犠牲にあったと言って良い。Hitlerは獄中時代の口述手記である《我が闘争》の中でスラブ民族の奴隷化と殲滅を公言していた。確かにゾルゲ事件で日本側にはソ連侵攻の意図が無いとの確証を得ており、極東方面軍を振り向けることが出来たのも小さくはないのだが、日本にはソ連侵攻にまで踏み切る能力そのものが無かった事は明らかだ。やがて、ソ連の反攻が始まる。スターリンはドイツ占領地域内の反抗勢力に対して、彼らの独立と自由を約束した。とは言うものの、それが欺瞞である事は後の共産圏の確立により明らかになる。周囲を敵に囲まれ、ドイツにに味方はいなかった。古代ローマの再建を掲げながら、自国では戦勝を勝ち得る事が出来なかったイタリアも敗れる事となる。「黄色い猿」である極東の同盟国日本だけが最後までドイツを裏切らなかった。とは言うものの、共同した軍事行動を執るには遠過ぎた。首都Berlinでの市街戦にまで突入し、彼は最期の時を迎える事となる(映画《ヒトラー最期の十日間》)。彼はドイツの栄誉を高めるだけ高め、そして奈落にまで突き落とした。大戦後に

ドイツは分割されることとなる。戦後ドイツが謝罪し、交戦国と和を結び、再建の途を経て、共産圏の崩壊を受けて、再統一を果たすのに、四十年余を費やした。とは言うものの、彼の名前は今尚、語られ続けている。