1回目のTC療法の抗がん剤を終え 2014年12月3日に退院し 翌4日に京都へ行き、思いの外

副作用が早くて 断念して 6日に帰ってきた。人生初の副作用に完全に完敗した 私。

つまずくはずない所で つまずく。手足がしびれ お札が数えられない、硬貨が掴めない。

身体中が 痛い。副作用の注意書きは もちろん読んだけど、文字で書いてある事と我が身に

起こることは 違う。足のしびれが半端なくあり階段を上がったら最後 踏み外して落ちて

しまう気がして 2Fでの生活を諦めた。 その日から 1Fのソファーで寝た。傷の痛みもあり

布団を敷くところはあっても布団から起き上がることができなかった。副作用もきっと

普通のペースでやって来たんだろうけど、私には初めての副作用。希望的推測もあって、

もーすこし遅く来る気がしてたし、それぞれの辛さも順を追ってくると思っていたから、

一気に来た副作用に自分のなかで追いつかない苛立ちもあったり、言い訳やら 愚痴やら

"" こんなはずじゃーなかった ""の思いが頭からは離れなかった。母は12月12日から入院が

控えててソファーで寝る私を心配して ベッドの購入に行こうと言った。私は それどころ

じゃないくらい 体がしんどかったけど、それも母が娘を思う気持ち。私を置いて入院

しなければならない母を思うと出掛けることの方が心配かけない気がして。最悪の事を

考えて電動で動くベッドを購入した。母は手術前だったけど 私に もしも のことが あっても

絶対看病すると宣言!まだ、手術前で何が起こるかわからないし、第一、歩行もまま

ならない体なのに、だ。でも  それが  母  だ。自分を犠牲にしても 守りたいのは 年を重ねても

母からみれば 私は 子供。私が 2人の子を遺すかも と思うのと同じで 母からすれば私は

娘。体が痛いのも しびれがあるのも だるくて辛いのも 様々な不調は 母が入院するまで

口にしなかった。母の入院まで約 1週間、頼んだベッドが運ばれ ウィッグが完成し 家に

調整に来ていただいて 地毛が少々邪魔だったから人生初のベリーベリーショートにした。

いつもロングだった私の髪。手術のために最大限の譲歩でボブにした。その髪さえウィッグ

には邪魔でベリーベリーショートにしないといけないなんて。私もおばちゃんだけど

それなりに おしゃれもしてた。けど 出来上がった私は福祉施設に入院してるおばあちゃん

並みに短くなった髪は 余りにもショックだった。自慢できるとこなんて 私にはなかったけど

栗色でストレートの髪はひそかに 気に入ってたのに 見るも無惨になった。でも、それさえも

なくなってしまう……命と引き換えだから、髪は また生えてくるからって 言われたけど

申し訳ないけど 私には 慰めにもならなかった。ウィッグを被っても 私じゃーない。往生際が

悪いけど 抗がん剤したあとでも 抗がん剤をしたくなかった。もう何も失いたくなかった。

自分のままで最後までそのままで居たかった。長男のコートでの頑張りで 負けるかもしれない

けど、癌と闘うことすらしてなかった事に気付かされたけど、自分から進んで癌をやっつけて

やろうとか 生きてやるとか 思えなかった。弱っちい私。だから自分に言い訳ばかり。

こんなはずじゃなかった。吐き気が辛い、体が痛い、しびれる、つまずく、なぜか頭皮が痛い。

だから抗がん剤なんてしたくなかったのに、って。せめてもの救いは 誰にも辛さと弱音を

言わなかった事だけ。それも入院を控えてる母に心配させたくなかったから。私の人生初の

ベリーベリーショートは母と長男と妹しか知らない。その後 抜けていく髪も 髪が無くなった

頭も 主人と次男は 知らない。中1だった次男には 余りにも辛いことだと思ったから。

次男の前ではウィッグか簡単ウィッグやケア帽子を被ってたかな~主人に対しては

半分意地みたいな感じ、哀れんでほしくなくて。髪のない私を晒すなんて絶対嫌だった。

私の命を軽んじてたように思えたから。それは今でも私の中から消しきれない。

ほんとは違うかもしれない、主人は主人なりに精一杯サポートしてくれてるのかも

しれないけど、私の中にできた 主人の溝は そう簡単に埋められるものではなかった。

私が素直じゃないんだよなーきっと。すねた性格なんだろーなーきっと。でも 今でも

思い出すのが辛い。手術前の出来事も闘病中の出来事も時間が経ったけど  辛すぎる。

あの寒空の夕方 すぐ来てくれると信じてたから 上着も車に置いたままで まだ来ない、

もう 5分待とう、もう 5分、もう 5分 、まだかな~ 電話するけど 出ない。店を出たり入ったり

結局約束の時間を 45分過ぎても来てくれないから 歩いた。もう既に暗く 寒かった。主人と

子供は近くのスーパーにいたけど そこまで10~20分くらいの距離だけど 歩けない距離では

ないけど 既に 癌 と言われ 手術も早まっていたのに、主人は車でテレビを見ていた。私を

待たせてることさえ忘れ、車の前に現れた私に " あっ、やベー" と動いた口許を忘れることが

できない。あの怒りと不信感をどうしたら 消せるのか 何度も何度も考えた。結局 今でも

私は主人を許すことが できないでいる。(強情なのかな~)

1度目の抗がん剤後 退院し長男も戻り久しぶりに 5人揃った、それもつかの間の 1週間。

主人とは 話せなかった。そんな私を入院するまで心配してくれた母。元々勝ち気で

可愛気のない 私。母がいてくれたから 過ごせたと思う。主人は12月から仕事に復帰した。

母が入院し、間に入ってくれる母は いない。日中は 出勤していないから 長男に助けて

もらいながら気楽に過ごし、次男が帰ってきて 幸せな時になる。がえーんえーん夜は確実に   来る。

主人とは できるだけ顔を合わせないようにした。でないと夫婦喧嘩が勃発しそうで と

言っても一方的に私が言いたいことをいってしまうんだけど でも、子供の前では避けたくて

私が 病室にこもるしかなかった。

12月13日(土曜日)だっただろうか、少し前から抜け始めた髪の毛。そろそろか……と覚悟は

してたけど その日は 主人も子供達も いなかったので 昼間の比較的体調のよかった時間に

シャワーを浴びることにした。まだ お風呂に入ることができない時期だったから 割りと

暖かい日は昼間のシャワーが体には優しかった。その日もいい天気で12月なのに暖かかった。

いつもの通り 頭にシャワーをすると ビックリするほど 髪が 落ちる。シャワーを当てるだけで

落ちていく髪の毛。時期的に予想はしてたし 抗がん剤の後だから いつかはくると思ってたけど

余りの多さにビックリしたし、落ちた髪の毛をガン見した。

そのあとシャンプーをして 余計に髪の毛が手に絡まり 流しても流しても 髪が立ってしまう、

手に髪が絡み付く。仕方ないから手を使わず ずーっといろんな方向からシャワーを流し続けた。

年代がわかってしまうけど 浴室の鏡にサリーちゃんのパパ がいた。

落ちた髪をかき集め、諦めて浴室を出て 洗面台の鏡を見て絶句した。髪が所々 無いのは

もちろん 髪を拭いてもサリーりゃんのパパヘアーは変わらなかった。引っ張った訳ではない

けど絡み付いた髪同士が絡まって2ヶ所で角になってる。拭いたタオルにも無数の髪が付いて。

ドライヤーで風を送ればハラハラと舞っていく 髪。ドライヤーで飛んでしまう髪の毛も

処理が大変と思い 使いたくなかったけど ブラシをかけた。髪の毛が ごそっと 取れた。

抜けた ではなく 取れた。根本を押さえて とかしても ブラシに ごそっと ついてくる 髪。

もう 最悪だった、悲しいを通り越して どーすればいいのか わからなくなった。ブラシから

取れた髪を外し 捨てて サリーりゃんのパパヘアーを少しづつ直し そのたびに ごそっと

髪が取れ ブラシから外して捨てて を繰り返した。涙が 止まらなかった。幸い 家には

私 ひとり。誰の目もはばからずに  泣いた。泣いたって髪が戻ってくる訳じゃないけど

鏡には 薄毛ではなく 所々地肌のみえる 醜い私がいた。決して美しくはなかった私。でも

年齢の割には整った(思い込みかも?)顔立ちとキッチリメイクで 栗色のストレートの

長い髪を右手でかき上げるのが癖だった。いつもカチッとスーツで  8cmのヒールを履き

鞄を持ち 闊歩していた姿からは 想像できない。 病気とはいえ所々無くなった 髪と薄く

残った髪からのぞく地肌。お腹には まだきれいに治ってない傷が大きくあって 鏡に映る

姿は 私じゃない と思いたかった。直視するのが辛い 姿。それが 私だった…………