『高堂巓古 Officia Blog』 -198ページ目

『車掌のプライド』

photo 3.JPGphoto 3.JPG 私は運転士より車掌派の男なのだけれども、ひと昔まえの車掌は洒落ていた。電車が駅から発車しても、しばらくはプラットホームに立ち、3メートルくらい離れてから、走って追いつきとびのったのだ。その仕事に誇りをもっていた車掌たちは互いに競いあったという。またそれを楽しみにしている乗客も少なくなかった。結局、それで怪我をした車掌がでてきてしまい、徐々にその藝は禁じられていったのである。最後までがんばったのは、地下鉄メトロであった。まことにもったいない話ではないだろうか。ところで、たしかな陶藝家というのは、この電車を星にかえて、星の流れにとびのっていった。つまり、


天の動きと同調して、眼前のろくろを回した


 のである。ダンサーは土のリズムにのって地球と同化して舞い、茶人は宇宙の吐息を聴いて茶を点て、王は神の雫とともに政治の筆を垂らした。そもそもあった動きに同調し、それに次々ととびのったのであろう。このような流れのなかで、物事にいびつさが加わった。例えば、陶藝家が茶碗をつくったとき、ろくろから生まれた息を飲む円の美をわざと毀し、いびつな茶碗にするのだ。こうすることで、そもそもあった存在以前の動きが垣間視えることを識っていたとしか考えられない。眼をとじれば、私が生まれるまえから動いていた先祖の回転がある。その珈琲カップにのりながら、私たちは皆、ほんの少し面舵を切っているだけなのだろう。今宵はここらでドアをしめたいとおもう。どなた様も戸袋に手をはさまれないように。