前回からのつづき
<パサージュへのプロローグ>
ホテルの外へ一歩踏み出すと、白一色の幻想的な世界が私達の前に広がっていた。
初めて見るパリの冬景色。歩行者の姿はまったく見られず、行き交う車の数も数えるほどで、沈黙が街を支配していた。
唯一街灯の灯りだけが頼りなげなロウソクの火のように小さく揺らめきながらもその存在を主張するかのようだった。
Tは私より一歩前にゆっくりと歩き出した。私は彼がサクサクと踏みしめ次々と開拓していく処女地の足跡をそのままなぞって進んだ。
(いったいどこへ連れていってくれるのだろう)
数百メートルほど歩いて最寄りのメトロの入り口へ到着すると、彼は一旦後ろを振り返り後から来る私の姿を確認してから階段を降り始めた。
行き先のホームへ出ると、すぐにやって来た電車へ私達は乗り込んだ。電車は雪の影響か、いつになく人と肩が触れ合うほど込み合っていて二人の間は少し距離が開いた。地上に人気のない理由も納得できた。
次で乗り換える合図をくれた彼の後姿を見失わないよう、停車したドアからホームへ滑り降りると、今度はコレスポンダンス(乗り換え)の表示へ向かう彼を追った。
パリの地下鉄は迷路だ。
階段を降りて歩くと今度はまたエスカレーターで昇る。さらにまた歩けば今度は二股や三股の方向に分かれ、再び昇ったり降りたりの繰り返しが続く。方向感覚を完全に失うばかりか自分がいったいどこへ向かおうとしているのかさえあやふやになりそうだ。
カフカの<城>の世界へ迷い込んだみたいに。
今の自分には彼の背中だけが頼りだ。産まれたてのヒヨコのようにその背をどこまでも追っかけていく。
やっと目的のホームへ出た。ほっとする間もなく、到着した電車へ再び乗り込む。
そのときがおそらくチャンスだったと思う。
彼に尋ねればよかったのだ。今、乗り換えた駅の名を。下車した駅の名を教えてくれと。簡単なことじゃないか。何故聞けないのだ?私はそんな自分に対してく口惜しくてたまらくなった。
―さあ、着いたよ。
彼が目指すメトロの駅へどうやら到着したようだった。
私は今しがた覚えた口惜しさに対する思いで頭がいっぱいになっていた。
彼に続いて降り立ったホームを、まるで夢遊病者のような足取りで出口へと向かった。
当然のごとく、このとき下車した駅の名も覚えていない。
目にはしていても心から見ようとはしていないので、それは見ていないのと同じなのだ。
最後の階段を上がって地上へ出ると比較的大きな通りであるプールヴァ―ルへ出た。
彼は大通りの向こう側に口を開けているトンネルの入り口のようなものを私に指し示しながら言った。
―あれが××という名のパサージュの入り口だ。パリにはこういう場所がまだ20ヶ所ぐらい残っている。1日ではとても全部は回りきれないけども…。
やがてそのトンネルの入り口へ吸い込まれていく彼の姿を見失わないよう私は急いで再び彼の後を追った。
トンネルのような入り口を一歩入ると、中は想像したイメージよりもずっと明るかった。アーチ型の屋根の鉄骨の間に嵌め込まれたガラス窓からは、直射日光を和らげる穏やかな光が注がれていて、そこはそれまでの外の世界とは比べ物にならないほど暖かかった。
まるで温室みたいだ。ということは、ここは室内なのだろうか?そう思いながら、それと同時にこの空間への興味に私は強く惹きつけられた。
大理石かタイルなのか整然と幾何学模様に敷き詰められた床を進んで行くと、両側には同じような木とガラスという組み合わせのショーウィンドーが整然と並んでいた。私達は左右を交互に見比べながらそれに顔を近付けて中の様子を覗き込んでいった。水族館の水槽の珍しい魚たちを眺めるみたいに。
普段、街中では殆ど見かけないような万年筆、ステッキ、古い映画パンフレットやポスターの専門店などを。だが、どこの店もほとんど客の姿が見えない。
外から眺められる店主の姿は皆一様にそんなことはまったくお構いなしといった様子で、スローモーション撮影のようにゆったりとした動作で品物を磨いたり書き物をしたりに余念がない。(いや、ほんとうはそういう振りをしているだけなのかも。わざと隙を作って客が入りやすいよう仕向けている可能性も考えられる)
そうすると見られているのは私達、外側の人間のほうかもしれないのだ。
ということは、ここは室内ではなく屋外なのか?
なんなのだろう。この空間は?奥へ進んでいけばいくほど映画フィルムを巻き戻すみたいに時間が逆行していくこの感じは。
突然、すぐ近くのショーウィンドーに貼ってあるロートレックの古いポスターの踊り子が、一瞬こちらにウインクしてみせる。そうかと思えば、レトロな雑貨店の入り口に展示用に置いてある木馬が突然雄叫びを上げながら激しく動き出す。耳元に突然聞こえてくる人々の囁き声や笑い声、遠くのほうから馬車が近づいてくる音。シュールな世界が口を開ける。どうやらここでは特別な時間が流れているらしい。どんな突飛な出来事が起ころうと不思議ではない。全ては現実として存在する。この感じは何かを彷彿させる。そう、<夢>だ。夢の世界そのものだ。自分は夢をみているのだろうか?それならそれで構わない。
突き当たりまでくると、通路は左奥へとさらに続いていて、Tはその先にある古本屋をちょっと覗いてくると言い残して立ち去った。角の建物のアーチ型のガラス天井近い部分には大時計が嵌め込まれていて、私はしばしその前で佇むことにした。文字板に1846と刻まれている。おそらくこのパサージュの誕生した年だろう。
パサージュ。この屋外でもなく屋内でもない空間。
21世紀のパリという大都会の片隅で、19世紀という時代を封じ込め風化させないために生き続けている空間。その入り口はメトロのように誰にでも開放されていながら、もう一つ秘密の入り口の存在を隠し持っている。このトンネルはタイムトンネル、タイムスリップのための場所。夢の世界を信じるものだけが、その扉を開けることができるのだ。
Tが戻ってきた。
その日、他に幾つかのパサージュを彼は案内してくれた。
パサージュ同士は隣接しているものが多く、大きさ広さに多少違いがあるものの、どれも似通った造りに感じられた。それは相変わらず私が自分の思いに囚われていて上の空でいたせいからかもしれない。私は自分が口惜しいと思った理由について考え続けていたのである。
(全くのお門違いということを内心では解りつつも私はTを羨んだ。もし彼と同等の立場ならかえって気楽に駅の名前を問いただすこともできたに違いない。だが実際は全てを彼におんぶに抱っこで任せきりにするしかない立場にいた。そんな自分に対して腹を立てていたのである)
思えば今回のパサージュへの道程は、メトロ(地下鉄)というトンネルへの入り口からスタートして自身の内部(地下)へと降りていき、本当に求めている答を見つけるためのものであったというわけだ。
もっと自由に自分のペースでパリの街を歩いてみたい。
道に迷ってもいい。地図と首っ引きでもいい。大事なのは自分の目で確かめるということ。今度は1人で来て見よう。そしてパサージュというものをもっともっと深く味わってみたい。
それから私自身の本当のパサージュ巡りが始まった……。
長いプロローグになりましたが、ここまで読んで頂きありがとうございます。
次回はいよいよ具体的に実際のパサージュ巡りをします。お楽しみに!
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