パリに行くと必ずといってよいほど訪れる場所がある。
それはパサージュと呼ばれる歩行者専用の通り抜けの道である。
鉄骨を用いたアーチ型のガラス屋根で覆われているのが特徴的。
それはほとんど全てが右岸に位置し、2区のパレ・ロワイヤルの裏手辺りからグラン・プールヴァール界隈にかけて多くみることができる。
パサージュの規模にもよるが、通りの両側にはファッション、雑貨などの店、古書店、ギャラリー、レストランやカフェなどが立ち並んでいる。さすがに<コンビニ>などはないが、そう聞けば、「それって日本の繁華街にもよくある、アーケードみたいなものでしょ
?」という答が返ってきそうである。
アーケードねえ……。
スマホ内臓の明鏡国語辞典によると、
アーケード【arcade】
①洋風建築で「アーチ」①を連ねた構造物。また、その道路。
②商店街などの通路を覆う屋根。
また、そのような屋根を持った通路。
と、書かれている。 確かにその通り。間違いではない。
でも違うんだなあ~と私はをブツクサとつぶやく。
一見外観は似ている。でも実際の人間と精巧に作られた蝋人形との違いほどその差は歴然としすぎている。片や血の通った生き物で、もう一方は血の通わない無機物。似て非なるものということがわかるだろう。
パサージュは、まず歴史的背景による成立の仕方という点で、現代の商業的副産物、いわゆる商店街として登場してきたアーケードとは性質を異にする。
少し硬い文章で申し訳ないのですが、パサージュについて語ろうとする場合、これを言っておかないことには始まらないので、もう少しお付き合いください。
(パリのパサージュの多くは十九世紀の前半に作られた。中世以来のパリの街路は並行する大通りを結ぶ抜け道というものがなく不便な状態にあったという。フランス革命後に大貴族の邸宅などを買い占めた投機家たちはその不便さに目をつけ、遠回りをせずに大通りから大通りへと通り抜けの道を作るようになった。通り抜けの道の両側には、風雨にさらされずに買い物ができるガラス屋根の天井を持つ、当時流行っていたパレ・ロワイヤルの回廊をまねた商店街を作った。)
※()内の文章は鹿島茂氏の<パリのパサージュ>の文章を私なりに要約したものです。
それにしても、なぜ自分はこのパサージュというものに魅かれるのだろうか…。
それについて今はまだ本当は語れない気がしている。それは私なんかのとても手に余るものだということに気付いてもいる。けれど長いことずっと語りたいと思ってきたのは事実だ。だからこの場を借りて自分なりの表現方法でそれを試みようと思う。
<断章―現実の裏側で>
枕元の腕時計のアラームが朝の訪れを報せた。
私は起き上がり窓際のカーテンを薄めに開けると、外はまだ薄暗くこれから夕方の時刻へと向かおうとしているかのようだった。
パリの冬、一日の始まりはとてつもなく遅い。太陽が姿を見せればまだましなほうで、天気の悪い日などは日中も夕暮れのようで、夕刻を迎える時刻になればさらに一層空の濃さが増して、そのまま長い夜へと移行していった。
洗面台での朝の身支度を整えてから再び窓際へ向かうと、ようやく遅い朝の弱の弱しい光が目に飛び込んで来た。
外は一面の銀世界だった。もう止んではいたが、夜の間に降ったものらしい。
どうしよう。こんな日はどこへ行ったものやら…。
パリには何度か訪れていた。そのいずれもが日本からの添乗員同行のツアー、往復の飛行機とホテルだけがセットになったフリーツアーなどで、友人の誰かがいつも傍らにいた。季節は春か秋のどちらかであり、冬のパリは今回が初めての経験だった。
噂には聞いていたものの冬のパリの寒さは想像以上で、昨日のセーヌ川沿いの遊歩道<白鳥の小道>の散歩も散々な結果を招いていた。
遊歩道には人影はほとんどなかった。すれ違ったのは愛犬と散歩中の何組かと、おそらくいつものジョギングコースの日課を冬でも欠かさないと思われる人々の数人だけだった。セーヌ川からの冷たい風をまともに受けた無防備な顔面は、薄目を時折開けて歩くのがやっとで、とても散歩を味わう気分どころではなかった。傍らに付き添っていた案内役のTは、ときどき立ち止まりその場に縮こまる私を振り返っては、やれやれという表情を見せた。(だからやめたほうがいいと言ったのに…言葉にこそださなかったが明らかにそう言いたげな様子をしていた)
そんなTが朝食後に今日も私のホテルへ迎えにやってきた。
Tはフランス文学の翻訳や文化の研究をしていて、仕事のために定期的にパリを訪れる。私のようにせいぜい一週間から二週間の単位とは違い、滞在期間は短くて数ヶ月、長いときには半年ほどになる。若い頃には留学経験もあると聞いた。
―今日はこういう季節にはもってこいの所へ案内するよ。
そう言って連れて行ってくれたのがパサージュという空間との出会いであった。
(つづく)